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光の闇司祭③ 白夜の教皇  作者: parupuntist


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第一章 昼のランタン

 新しい材木は、陽だまりの匂いがする。


 坂の途中に積み上げられた、角材の山だった。そのてっぺんで、レオニスは、刃のない古い鉄剣を枕に、仰向けに寝転がっていた。


 削りたての木の香りが、春の風に乗って、鼻の先をくすぐっていく。見上げた空は、薄くかすんで、やわらかい。坂の下では、川沿いの柳が、いっせいに芽吹きはじめていた。


 完璧だった。


 ――と、思ったのだが。


「おう、欲張り」


 材木の山の下から、太い声がした。


「そこは、俺の材木だ」


 片目だけを開ける。


 大柄な男が、肩に角材を一本担いだまま、こちらを見上げていた。無造作に束ねた黒髪に、無精髭。鋼色の目。左の手首で、色褪(あ)せた茜(あかね)色のリボンが揺れている。


 足首には、鉄の鎖が巻かれていた。


 ガルドだった。


「……お前の材木じゃねえだろ。伯爵の金で買った材木だ」


「担いでんのは、俺だ」


 ガルドは鼻を鳴らして、角材を担ぎなおした。足首の鎖が、じゃらりと鳴る。


 坂の上のほうでは、牢番が、積んだ板に背中をあずけて、日向(ひなた)で居眠りをしていた。毎朝、牢からガルドを連れてきては、日が暮れるまで、ああして寝ている。見張りのはずだが、起きているところは、ほとんど見たことがない。


 昼寝の腕なら、向こうのほうが上かもしれなかった。


 焼け落ちた陽だまりの家の跡は、冬のあいだに片づけられた。煤(すす)けた白い壁も、黒く焦げた骨組みも、もうどこにもない。春になって新しい柱が立ち、梁(はり)が渡され、家の形が、日ごとに空へ伸びていく。


 大工たちに混じって、ガルドは、誰よりも重い材木を担いだ。字の手習いと、同じくらい熱心に。その字も、エルナの子供たちの手紙を、ひとりで読めるところまで来ている。


 組み上がった梁に、白墨の字が並んでいた。


 大きさも傾きもばらばらな、子供の手習いのような字だ。梁の一本に、ひとつずつ。――名前だった。


 この家で暮らすことになる、子供たちの名前。


「……あれ、お前が書いたのか」


 訊くと、ガルドは梁を見上げもせずに答えた。


「寝床の真上に来る梁にな。そいつの名前を、書いとくんだ」


「なんで」


「帰ってきていい家だって、わかるようにだ」


 それだけ言って、坂を上っていった。


 レオニスは、梁の字を、ひとつずつ眺めた。


 どの名前も、ちゃんと、その子の名前になっていた。エになっているのは、もともとエで始まる名前だけだ。


 坂の下の柵の外に、白い服が、いくつも並んでいた。


 陽だまりの家の子供たちだった。今も大聖堂の宿舎で暮らしていて、手習いや祈りの合間に、こうして建て直しを見に来る。柵に顔をくっつけて、梁が一本渡されるたびに、わあ、と声を上げる。


 いちばん小さな女の子が、柵の隙間から、ガルドの背中に声をかけた。


「まど、おおきい?」


 ガルドが、足を止めた。


 振り返って、女の子を見る。それから、建てかけの壁の、ぽっかりと空いた四角い穴を見た。


「……窓は、でかくしとくか」


 女の子が、ぱっと笑った。


 冬至の夜、宿舎の子供たちは、それぞれに泣いたのだという。この子だけは泣かずに、窓の外の夜を、ずっと見上げていた――と、柵ごしに、ほかの子供たちが口々に教えてくれた。


 レオニスは、材木の上で、寝返りを打った。


「……でかくしとけ。それと、窓掛けの紐は、ガキの手が届くとこにな」


 ガルドが、眉を寄せる。


「注文の多い欲張りだ」


 ぶつくさ言いながら、それでも、大工の親方のほうへ歩いていった。窓の寸法の話でも、しに行くのだろう。


 白い部屋の窓掛けは、夕べの祈りが終わると、白い法衣の司祭たちが閉めて回った。――夜は、冷えますからね。


 今度の家の窓は、開けるのも閉めるのも、あいつら自身が決めればいい。


 冬至の夜から、七十五日が経っていた。


 教会は、追ってこない。手配書は剥がされたきりで、騎士がパン屋の戸を叩くこともない。夜の王都では、窓を開けたまま眠る家が、少しずつ増えている。


 悪くない春だった。


 レオニスは、外套の内側に手を入れた。


 指先に、紙の感触が触れる。四年前から、そこに入れっぱなしの紙切れだ。


 取り出しはしない。読まなくても、書いてあることは知っている。汚い炭の字で、ひと言だけ。


 ――剣は枕にしろ。


 四年前の、冬の終わりだった。


 街道沿いの楡の木の下で、昼寝をした。


 ――師匠。ちょっとだけ、寝る。


 そう言ったのは、覚えている。返事は、なかった。いつものことだった。


 目を覚ますと、日が傾いていた。頭の横に、師匠の鉄剣が置いてあった。その下に、この紙切れが挟んであった。


 師匠は、いなかった。


 日が暮れるまで、楡の下で待った。次の日も、待った。


 戻らなかった。


 その年の夏、古いつてを辿って、報せが届いた。北の麓の町で、パイプの爺さんが、雪の上で眠ったまま死んでいた、と。


 それきりだった。


 北へは、行かなかった。


 泣きも、しなかった。


 ……行って、どうすんだよ。


 何を見たところで、腹がふくれるわけでもない。


 レオニスは、紙切れから指を離した。


 鉄剣の上に頭を戻して、目を閉じる。


 四年、言われたとおりにしてきた。


◆


 川沿いのパン屋に戻ったのは、昼を過ぎたころだった。


 店の奥の、卓が三つきりの小さな食堂。開け放った窓の外を、春の川が、光りながら流れていく。


 焼き場の竈の前では、ユナが、天板の丸パンをひっくり返していた。今日も、頬に白い粉をつけている。その手前の作業台では、ミレイアが、袖をまくって生地を捏(こ)ねていた。


 レオニスは、窓際の卓に腰を下ろした。


 焼きたての丸パンを、ひとつ、かじる。


 焦げていない。


「……また、材木の上?」


 竈の前から、ユナが訊いた。


「おう」


 ユナは、天板に目を落としたまま、少しのあいだ、口をつぐんでいた。


「……あいつ、ちゃんと食べてる?」


 あいつ、が誰のことなのかは、訊かなくてもわかった。


「誰よりも重いの、担いでたぞ」


「ふうん」


 それきり、ユナは何も言わなかった。けれど、焼き上がった丸パンのなかから、いちばん形のいいのをひとつ選んで、布に包んで、棚の端に取りのけた。


 明日の朝、坂の上へ届ける分だろう。


 戸口の鈴が、けたたましく鳴った。


「――レオニスさん!」


 栗色のおさげが、店の奥まで、まっすぐに飛びこんできた。


 娘だった。そばかすの散った頬を真っ赤にして、息を弾ませている。町ふうの、こざっぱりとした前掛け姿。けれど、その笑い顔には、見覚えがあった。


 トルカ村の、リラだった。村では、司祭さま、と呼ばれていた気がする。


 リラは、卓の前まで駆けてきた。


「やっと見つけた! 寝癖の闇司祭さんなら、川沿いのパン屋だって、仕立て屋のおかみさんが――」


 言いながら、背伸びをした。


 村を救ったあの日と、同じだった。そばかすの顔が、こちらの頬へ寄ってきて――


 止まった。


 リラの目が、レオニスの肩ごしの、どこかで止まっていた。


 振り返ると、作業台のミレイアと、目が合った。


 粉だらけの指が、生地に、深く沈んでいた。


「……どなたですか」


 平らな声だった。


 生地が、泣いている気がした。


 リラが、ぱっと踵(かかと)を下ろした。耳まで、赤くなっている。


 それから、目を瞬いた。


「あ……井戸のところの、騎士さま?」


 ミレイアの指が、生地から抜けた。


「……トルカ村の、リラさん、でしたね」


 覚えているなら、なんで訊いたんだ――とは、言わなかった。言わないほうがいい気がした。


 リラは、この春から、王都の仕立て屋に見習いとして住みこんでいるのだという。


「まだ、ボタン付けと、裾かがりばっかりだけど。……でもね、おかみさんが、刺繍の糸を、少しずつ任せてくれるの」


 指先に、針の痕が、いくつもあった。


 レオニスは、その指から、目を上げた。


「そっか。来たんだな」


「来たよ」


 リラは、胸を張った。


「出てくる朝も、父さん、泣いてたけど。……でも、また、『行ってこい』って」


 それから、村の話をした。焼けた家は、あれから一軒も傷んでいないこと。墓の前のおじいさんは、今も毎朝、娘の墓に花を持っていくこと。


「でもね、このごろは、帰りに、うちの父さんと林檎酒を飲んでるの。朝から」


 レオニスは、思わず笑った。


 悲しみを消してくれと、すがってきた老人だった。消さなかった。消さないまま、あの人は、毎朝、花を持っていく。


 帰りに、酒を飲んで。


 リラが、作業台のほうを振り返った。


「騎士さまは、ここで、パン屋さんを?」


 ミレイアは、生地に目を落とした。


「……捏ねるのだけは、うまいそうです」


 竈の前で、ユナが噴き出した。


 ユナが、こちらを振り返った拍子に、その前掛けのポケットから、白い布の端がのぞいた。


 青い糸で、小鳥が刺してある。


 リラの目が、まんまるになった。


「それ……」


 声が、少しだけ、震えた。


「私の、最初の」


 ユナは、前掛けを見下ろした。それから、レオニスのほうを、ちらりと見た。


「レオニスに、借りたまま」


 リラが、こちらを見る。


 レオニスは、目を逸らした。


「……貸しただけだ」


 ユナが、手巾(ハンカチ)を取り出した。きちんと畳んである。粉ひとつ、ついていなかった。何度も、洗ってあるのだろう。


 ユナはそれを、レオニスの前の卓に、そっと置いた。


「返す」


「……おう」


 リラが、こらえきれずに、くすくすと笑いだした。


 それから、竈の前のユナのそばに、しゃがみこんだ。


「あなたにも、縫ってあげる。……ユナちゃん、だっけ。好きな鳥、ある?」


 ユナは、少し考えた。


「……すずめ」


「すずめかあ。いいね。茶色の糸、たくさん使えるね」


 ユナの口の端が、ほんの少しだけ、上がった。


 帰りぎわ、リラは戸口で振り返った。


「ねえ。坂のとちゅうで、大きなおうちを建ててるでしょう。大工さんたちと、鎖をつけた、熊みたいな人が」


 レオニスは、少し笑った。


「陽だまりの家だ。親のいねえガキどもの、家」


 リラの目が、光った。


「……子供たちの、おうち」


 何かを測るように、指が、宙で小さく動いていた。針を持つときの手つきだった。


 鈴を鳴らして、栗色のおさげが、春の通りへ駆けていった。


 作業台では、ミレイアが、生地を捏ねなおしていた。ずいぶんと、力が入っている。


 レオニスは、頬杖をついた。


「……捏ねすぎじゃねえか」


「捏ねるのだけは、うまいそうですので」


 ミレイアは、生地から目を上げなかった。


 竈の前で、ユナが、また肩を震わせていた。


 レオニスは、卓の上の手巾を取って、外套の内側にしまった。


 四年前の紙切れの、隣に。


◆


 明くる朝、ミレイアは、塩を買いに、大聖堂前の広場を通った。


 夜明け前の仕込みを終えた、帰り道だった。春の朝の陽ざしが、白い石畳を、まぶしく照らしている。


 白い礼拝堂の前に、列ができていた。


 ミレイアは、足を止めた。


 扉から延びた列は、正面の石段の前を過ぎて、広場の噴水のあたりまで続いていた。冬のあの列ほど長くはない。けれど、誰もが同じように、黙って順番を待っている。


 白い石の掲示板に、真新しい紙が貼られていた。白銀の太陽の紋章の下に、二行。


 ――聖女の故郷より、聖なる雪の恵み。


 ――泣く者は、白き礼拝堂にて、小瓶を受けよ。


 礼拝堂の脇の小さな扉が開いて、人が、ひとりずつ出てきた。


 誰もが、首から細い紐を下げていた。紐の先に、指の先ほどの硝子(ガラス)の小瓶が揺れている。中に、白いものが、ほんのひとつまみ、詰めてあった。


 女がひとり、小瓶を両手で握りしめて、ほうっと息をついた。


 目もとが、ゆるんでいく。泣き腫らしたあとの、まぶたのまま。


 女は、握った手を胸に当てたまま、石段を下りていった。下りきったところで、紐を直そうとして、小瓶から手を離した。


 顔が、曇った。


 女は、あわてたように、また小瓶を握りしめた。


 冬の列の人々は、扉から出てくるとき、誰もが同じ顔で笑っていた。穏やかに、どこまでも優しく。


 今度の人々は、笑ってはいなかった。ほっとした顔をして、小瓶を握りしめているだけだった。手を離すたびに、また、もとの顔に戻りながら。


 ミレイアは、胸の聖印に、指をやった。


 白銀の太陽は、ぬるかった。


 浄化の場の、火にかざした銅貨のような熱さではない。けれど、冷たくもない。牢の面会室で、片腕の男の話を聞いていたときと、同じぬるさだった。


 石段の下で、年配の女が二人、小瓶を見せあっていた。


「ほら、あったかいんだよ、これ。雪なのにさ」


「溶けないねえ。不思議だねえ」


 ――あったけえのに、溶けねえ雪だった。


 面会室の蝋燭の火の向こうで、ボルグは、そう言った。


 二十五年前の冬。北の山奥の、谷の村。先生と呼ばれた男が、泣きやまない娘を抱いて白くなり、崩れて、雪になった。


 聖女の故郷の、雪。


 ボルグは今、北の鉱山にいる。魚みたいな木剣を、荷に差して発っていった。


 ミレイアは、白い礼拝堂を見上げた。


 その雪の降った谷を、ヘルミは、訪ねると言っていた。父の墓があるかどうかも、わからないけれど、と。


 ――あの人は、このことを、知っているのだろうか。


 広場の端の塩屋で、塩をひと袋、買った。


 量り売りの台の向こうで、塩屋のおかみが、目を細めた。この冬に、亭主を亡くした人だった。冬至を過ぎてからも、目を赤くして店を開けていたのを、ミレイアは知っている。


 おかみの胸もとで、小さな硝子が揺れていた。


「このごろ、よく眠れるんだよ」


 おかみは、小瓶を握ったまま、少し笑った。


 よかったですね、とは、言えなかった。なぜ言えないのかも、うまく言葉にならなかった。


 胸の聖印は、袋を受け取るあいだも、ぬるいままだった。


 ずしりと重い袋を抱えて、パン屋へ戻った。


 店の前に、白い法衣の若い司祭がひとり、立っていた。腕に、浅い籠を提げている。籠の中で、小さな硝子の瓶が、いくつも、ちりちりと鳴っていた。


「お店にも、恵みを置いていただけませんか。泣いている方がいらしたら、おひとつずつ――」


 粉だらけの親父が、戸口に立ちふさがっていた。


「うちは、置かねえ」


 司祭は、少しも気を悪くした様子もなく、にこにこと笑った。


「では、お気が変わりましたら」


 軽く会釈をして、隣の店へ歩いていった。


 親父は、その背中を見送りもせずに、店の奥へ戻った。生地の桶を抱えて、ミレイアの横を通りしなに、ぼそりと言った。


「……泣くのを止める薬なんざ、パン屋の売りもんじゃねえ」


 焼き場で、ユナが、薪をくべながら言った。


「鍛冶屋のおじさん、このごろ、来ないね」


 冬至の前、夜ごと裏口を叩いた人たちのひとりだった。息子を亡くした、大きな手の鍛冶屋。冬至のあとは、毎朝、黒パンをひとつ買いに来ていた。


 この四日ほど、姿を見ていない。


 親父は、何も答えなかった。


 ミレイアは、作業台の前で、懐から革表紙の帳面を取り出した。


 罪状帳。


 ゆうべ書いた頁(ページ)が、開いた。


 ――本日:材木の上で、昼寝。


 一行きりだった。


 栗色のおさげのことは、書かなかった。


 罪状では、ないので。


◆


 真昼の王都を、ランタンを提げた少年が歩いていた。


 灰色の髪に、白い審問官の衣。真鍮(しんちゅう)の覆いを開けたランタンの中で、白い火が、音もなく燃えている。


 すれ違う人が、振り返る。春の陽ざしの中で灯された火は、ひどく目立った。それでも、少年は、覆いを閉じなかった。


 聖都から来た、教皇の審問官――アルバンだった。


 王都の大聖堂の検分は、午前のうちに済ませた。地の底の神殿へ続く隠し階段も、黒い扉の前まで、降りてみた。扉を埋める古い文字のなかに、鑿(のみ)で深く抉(えぐ)られた名がひとつあるのも、この目で確かめた。


 残る務めは、ひとつだけだった。


 白い闇司祭を、見届けること。


 手配書の人相書きは、聖都で読んだ。冬のあいだに王都から送られてきた、報告の束のなかの一枚だった。


 ――寝癖のある黒髪。琥珀色の目。黒い外套。


 この務めは、自分から、猊下(げいか)に願い出た。


 確かめたいことが、あった。


 石畳に、自分の影が落ちていた。


 くっきりと、黒い影だった。すれ違う人々の足もとにも、軒先の籠にも、春の陽ざしが、濃い影をひとつずつ落としている。


 聖都では、見たことのない濃さだった。


 川沿いの通りに出た。


 家と家とのあいだの路地は、どこも、昼でも薄暗い。アルバンは、その細い隙間を、ひとつずつ覗いた。暗がりの奥に、誰かがうずくまっていないか。置き去りにされた誰かが、いないか。


 いつもの、癖だった。


 パン屋は、すぐにわかった。軒先の籠に、丸パンが山と積まれている。


 戸を押すと、鈴が鳴った。


 焼けたパンの匂いがした。奥の焼き場で、頬に粉をつけた女の子が、竈の前から振り返った。作業台の前には、肩で切りそろえた銀髪の娘。報告にあった、見習いを辞した娘だろう。


 粉だらけの前掛けの、太った男が、店先の台の向こうから、こちらを見た。


 ランタンを見て、それから、白い衣を見た。太い眉が、寄った。


「……何の用だ」


 アルバンは、答えなかった。


 店の奥の食堂が、目に入っていた。


 卓が三つきりの、小さな食堂だった。川に面した窓は、開け放たれている。それなのに、奥の隅だけが、昼だというのに、ひどく暗かった。窓からの光が、そこまで届いていない。


 その暗がりに、人がいた。


 大柄な男だった。隅の卓に、背中を丸めて座りこんでいる。煤の染みた太い指が、何かを握りこむように、固く拳を作っていた。


 大きな肩が、小刻みに、揺れていた。


 ――暗がりに、ひとり。


 考えるより先に、足が動いていた。


 アルバンは、食堂へ踏みこんで、ランタンを高く掲げた。


 光が、満ちた。


 冷たい光だった。火のようには、揺らがない。白く、まっすぐに、隅々までを照らしていく。卓の下の影が消えた。椅子の影が消えた。壁ぎわの暗がりが、ひと息に、拭い去られた。


 男の背中の影も。伏せた顔の影も。


 影という影が消えた食堂で、男の顔が、店じゅうに晒(さら)された。


 泣いていた。


 頬が、濡れていた。目のふちが、赤く腫れあがっている。握りしめた拳の、指と指のあいだから、白いものが光っていた。


 硝子の、小瓶だった。


 焼き場で、女の子が、口を押さえた。


 店先の男の手が、止まった。


 アルバンは、静かに言った。


「……隠すことは、ありません」


 男の唇が、震えた。


 何かを言うまいとするように、一度、固く閉じられて――


 ひとりでに、開いた。


「……四日前が、せがれの、誕生日だった」


 嗄(しゃが)れた声だった。男は、自分の口から出た言葉に、目を見開いていた。


「生きてりゃ、十六だ。……新月の晩に、死んだ。あれから、ずっと、ひとりで飯を食ってる」


 十六。


 自分と、同じ年だった。


 男の声は、止まらなかった。


「その晩、どうにも、ならなくなっちまった。……礼拝堂に、並んだ」


 拳が、小瓶ごと、震えていた。


「握ってるとな。遠くなるんだ。あいつの顔が。……楽に、なっちまうんだよ」


 男は、店の奥の、作業台のほうを見た。それから、店先の、粉だらけの太った男を。


「ここの連中には、言えなかった。冬のあいだ、みんなで、聖女さまのところへは行かねえって、決めてたのに。……俺だけ」


 声が、崩れた。


 大きな背中が、丸まった。


 誰も、何も言わなかった。


 自分の光だから、わかる。この光の下では、何ひとつ、隠しておけない。


 それでいい、とアルバンは思った。暗がりで、ひとりで泣くよりは、ずっといい。


「光の下では、誰も、置き去りにされませんから」


 そのときだった。


 食堂の奥の階段が、ぎしりと鳴った。


 寝癖の頭が、降りてきた。


 黒い髪が、好き勝手な方角を向いていた。片手で、目もとを覆っている。


「……眩しいんだよ」


 寝起きの、不機嫌な声だった。


 青年は、階段を降りきると、まっすぐに隅の卓へ歩いていった。歩きながら、黒い外套を脱いだ。


 そして、泣いている男の頭から、ばさりと、かぶせた。


 外套の下に、ひとりぶんの暗がりができた。


 ランタンの光は、そこにだけ、届かなかった。


 隅々まで照らされた白い食堂の、片隅に――小さな夜が、ひとつ、うずくまっていた。


 暗がりを、わざわざ、こしらえる人がいる。


 アルバンは、ランタンの提げ手を、握りなおした。


 外套の内側から、押し殺した嗚咽(おえつ)が、聞こえた。


 青年は、外套の上から、男の背中に一度だけ手を置いた。それから、こちらを振り返った。


「泣いてる顔ってのはな」


 低い声だった。


「見えなくていいときも、あるんだよ」


 アルバンは、答えなかった。


 見えなくていい顔など、あるはずがない。暗がりで泣いている者に、いったい誰が、気づいてやれるというのだろう。


 粉だらけの太った男が、店先から黙って歩いてきた。


 黒パンをひとつ、外套のそばの卓に、置いた。


 何も言わずに、また店先へ戻っていった。


 アルバンは、青年を見ていた。


 外套を脱いだシャツの胸もとで、黒い鉄の聖印が揺れていた。小さなランタンの形をしている。


 寝癖の下の目が、まっすぐに、こちらを見返していた。


 琥珀色だった。


 ――十年、忘れたことのない色だった。


 アルバンは、ゆっくりと、微笑んだ。


 硬く、整った、いつもの微笑みを。


「白い闇司祭さま、ですね」


 青年の眉が、寄った。


 アルバンは、ランタンを胸の前に下ろして、頭を下げた。


「聖都の審問官、アルバンと申します」


 顔を上げて、続ける。


「猊下より、お言葉を預かってまいりました」


 一字一句、たがえずに伝えた。


「――白は、白を呼ぶ。来るかどうかは、汝が決めよ」


 食堂が、静まりかえった。


 青年は、しばらく黙っていた。


「……行かねえよ」


「承知いたしました」


 アルバンは、もう一度、頭を下げた。


「では、見届けます。……夏至の、満陽祭の日まで。そう申しつかっておりますので」


 作業台の前から、銀髪の娘が、一歩、進み出た。


「監視役は、私です」


 アルバンは、娘に向き直った。


「存じております。ミレイア・セレスさん」


 にこやかに、言い添えた。


「罪状帳の方ですね」


 娘の頬が、ひくりと引きつった。


 戸口で、鈴が、小さく鳴った。


 開いた戸の隙間に、子供がひとり、立っていた。


 裸足だった。継ぎだらけの上着の袖から、細い手首がのぞいている。軒先の籠のパンを、じっと見上げていた。


 太った男が、籠から丸パンをひとつ取って、アルバンの手に押しつけた。


「……坊主にも、パンくらいは出す」


 ぶっきらぼうな声だった。目は、まだ怒っていた。


 アルバンは、手の中のパンを見下ろした。


 まだ、温かかった。


 そのまま、アルバンは、戸口まで歩いていった。裸足の子供の前に膝をついて、パンを、そっと置く。


「こちらが、先です」


 子供が、目をまるくして、アルバンを見上げた。


 アルバンは、肩ごしに、青年のほうを振り返った。喉もとまで、言葉が来ていた。


 ――あなたの言葉です。


 そう、言いかけて――


 青年は、こちらを見ていなかった。いつのまにか店先まで出てきて、籠から丸パンをもうひとつ取り、子供のほうへ、ひょいと放っているところだった。


「ほらよ。二つ目だ」


 子供は、両手でそれを受け止めた。二つのパンを胸に抱えこんで、通りへ駆けていった。


 アルバンは、言いかけた言葉を、呑みこんだ。


 立ち上がって、膝の土を払う。


 隅の卓の外套の下から、パンをかじる小さな音が、聞こえていた。


 アルバンは、外套を見て、それから、青年を見た。


「あの方の小瓶の雪が何なのか、お訊きにならないのですか」


 青年は、子供の駆けていった通りを見たまま、答えた。


「……知ってる」


 訊かれれば、答えるつもりだった。


 白陽の聖女さまの、父君の白だと。二十五年前、北の谷で崩れて雪になった男の、白だと。


 隠すことなど、何もない。


 アルバンは、ランタンの覆いを、閉じなかった。


◆


 明くる日の朝、レオニスは、屋根裏の寝床で、天井の梁を見上げていた。


 ――こちらが、先です。


 昨日から、ずっと、耳の奥に引っかかっている。


 どこかで、聞いた言い回しだった。


 どこで聞いたのかは、思い出せない。


 鍛冶屋は、夕方まで外套をかぶったまま、隅の卓にいた。帰りぎわに外套を返して、黙って頭を下げていった。卓の上の黒パンは、なくなっていた。首の小瓶は、下げたままだった。


 返ってきた外套は、鉄と煤の匂いがした。


 あの審問官は、店を出たあと、通りの向かいの軒下に立っていた。日が暮れるころには、どこかへ消えていた。


 階段を降りると、店先の戸の向こうに、白い火がひとつ、灯っていた。通りの向かいの、昨日と同じ軒下だった。


 レオニスは、大きな欠伸(あくび)をした。


「……暇な奴だな」


「あなたが言いますか」


 作業台のミレイアが、顔も上げずに言った。


 親父が、店先から、封書を一通、持ってきた。


「兄ちゃん。北から来た荷馬車の御者が、置いてったぞ。あんた宛てだとよ」


 受け取った。


 表に、宛名が書いてあった。一字一字、丁寧に、まっすぐに並んだ、几帳面な字。


 ――王都、川沿いのパン屋、レオニスさま。


 裏を返す。


 ――ヘルミ。


 封を、切った。


 ――レオニスさま。


 ――父の村は、白い雪の下にありました。教会の方々が、柵で囲っていらっしゃいました。


 横から覗きこんでいたミレイアが、小さく息を呑んだ。


「……小瓶の、雪」


 レオニスは、答えなかった。続きを読んだ。


 ――父のお墓は、ありませんでした。


 ――麓の町の、丘の上の墓地に、オズワルドさまのお墓がありました。


 指が、止まった。


 もう一度、その行を読んだ。


 墓が、あった。


 死んだことは、知っていた。四年前の夏から、知っていた。けれど――墓があるということは、誰かが、あの人を埋めてくれたということだ。


 そんなことを、四年、考えもしなかった。


 ――墓守のおばあさまが、オズワルドさまのお手紙を、預かっていらっしゃいます。宛名は、「寝坊助へ」と。お弟子さまのことだと、うかがいました。


 手紙。


 あの人が、手紙。


 字を書くのが、何より面倒くさそうな人だった。何か言い残すにしても、紙切れ一枚、汚い字でひと言――それで済ませる人だった。


 ――剣は枕にしろ。


 その人が、手紙を書いた。


 四年も、黙っていたくせに。


 ――私とシエルは、ゴドフロワと一緒に、北の峠の修道院に、身を寄せております。峠は静かで、毎日、とても穏やかです。


 ――お越しになるかどうかは、レオニスさまが、お決めください。


 ――ヘルミ。


 その下に、字の大きさが、まるで揃っていない一行があった。覚えたての子供が書いたような、大きな、たどたどしい字だった。ずいぶん力をこめて書いたらしく、紙が、ところどころ、へこんでいた。


 ――レオにいちゃん。きて。――シエル。


 レオニスは、便箋を持ったまま、しばらく動かなかった。


「……決めろってのと、来いってのが、一枚に書いてあるぞ」


 ようやく、それだけ言った。


 ミレイアは、粉だらけの手を前掛けで拭って、少しも迷わずに答えた。


「両方、読めばいいのです」


 レオニスは、もう一度、便箋に目を落とした。


 寝坊助。


 そう呼ばれたことがある。


 ひとりにだけ。


 毎朝、毎朝、脇腹を蹴飛ばされて。


 ――起きろ、寝坊助。


 ふだんは坊主と呼ぶくせに、朝だけ、そう呼んだ。煙草(たばこ)くさい、嗄れた声で。


 四年、聞いていない声だった。


 ミレイアが、作業台へ戻っていった。懐から、革表紙の帳面を取り出す。


 ペンを持ったまま、戸口の向こうの、白い火を見た。


 それから、ペン先を下ろした。


 ――満陽祭まで百五日:


 レオニスは、眉を寄せた。


「……なんで、満陽祭なんだよ」


「あの方が、そうおっしゃいましたので。満陽祭の日まで、見届ける、と」


「……行かねえよ」


「数えるだけです」


 ミレイアは、それきり、黙ってペンを走らせた。


 ――満陽祭まで百五日:手紙を、三度読む。


「……二度だ」


「三度です」


 ミレイアは、帳面を閉じた。


 レオニスは、何も言い返さなかった。


 その晩、屋根裏の寝床で、便箋を、もう一度開いた。


 几帳面な字を、終わりの、たどたどしい大きな字まで、読んだ。


 数えてみれば、三度目だった。


 便箋を畳んで、外套の内側にしまった。青い小鳥の手巾の、隣に。


 その奥の古い紙切れを、久しぶりに、取り出した。


 ――剣は枕にしろ。


 汚い炭の字を、指先でなぞった。


 ……行って、どうすんだよ。


 四年前と同じことを、もう一度、思ってみた。


 今度は、うまく思えなかった。


 枕もとには、今夜も、刃のない鉄剣が置いてある。


 あの日、楡の木の下で、ちょっとだけ寝ると言って、目を閉じた。


 四年前の昼寝から、まだ、覚めていない気がした。

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