第一章 昼のランタン
新しい材木は、陽だまりの匂いがする。
坂の途中に積み上げられた、角材の山だった。そのてっぺんで、レオニスは、刃のない古い鉄剣を枕に、仰向けに寝転がっていた。
削りたての木の香りが、春の風に乗って、鼻の先をくすぐっていく。見上げた空は、薄くかすんで、やわらかい。坂の下では、川沿いの柳が、いっせいに芽吹きはじめていた。
完璧だった。
――と、思ったのだが。
「おう、欲張り」
材木の山の下から、太い声がした。
「そこは、俺の材木だ」
片目だけを開ける。
大柄な男が、肩に角材を一本担いだまま、こちらを見上げていた。無造作に束ねた黒髪に、無精髭。鋼色の目。左の手首で、色褪せた茜色のリボンが揺れている。
足首には、鉄の鎖が巻かれていた。
ガルドだった。
「……お前の材木じゃねえだろ。伯爵の金で買った材木だ」
「担いでんのは、俺だ」
ガルドは鼻を鳴らして、角材を担ぎなおした。足首の鎖が、じゃらりと鳴る。
坂の上のほうでは、牢番が、積んだ板に背中をあずけて、日向で居眠りをしていた。毎朝、牢からガルドを連れてきては、日が暮れるまで、ああして寝ている。見張りのはずだが、起きているところは、ほとんど見たことがない。
昼寝の腕なら、向こうのほうが上かもしれなかった。
焼け落ちた陽だまりの家の跡は、冬のあいだに片づけられた。煤けた白い壁も、黒く焦げた骨組みも、もうどこにもない。春になって新しい柱が立ち、梁が渡され、家の形が、日ごとに空へ伸びていく。
大工たちに混じって、ガルドは、誰よりも重い材木を担いだ。字の手習いと、同じくらい熱心に。その字も、エルナの子供たちの手紙を、ひとりで読めるところまで来ている。
組み上がった梁に、白墨の字が並んでいた。
大きさも傾きもばらばらな、子供の手習いのような字だ。梁の一本に、ひとつずつ。――名前だった。
この家で暮らすことになる、子供たちの名前。
「……あれ、お前が書いたのか」
訊くと、ガルドは梁を見上げもせずに答えた。
「寝床の真上に来る梁にな。そいつの名前を、書いとくんだ」
「なんで」
「帰ってきていい家だって、わかるようにだ」
それだけ言って、坂を上っていった。
レオニスは、梁の字を、ひとつずつ眺めた。
どの名前も、ちゃんと、その子の名前になっていた。エになっているのは、もともとエで始まる名前だけだ。
坂の下の柵の外に、白い服が、いくつも並んでいた。
陽だまりの家の子供たちだった。今も大聖堂の宿舎で暮らしていて、手習いや祈りの合間に、こうして建て直しを見に来る。柵に顔をくっつけて、梁が一本渡されるたびに、わあ、と声を上げる。
いちばん小さな女の子が、柵の隙間から、ガルドの背中に声をかけた。
「まど、おおきい?」
ガルドが、足を止めた。
振り返って、女の子を見る。それから、建てかけの壁の、ぽっかりと空いた四角い穴を見た。
「……窓は、でかくしとくか」
女の子が、ぱっと笑った。
冬至の夜、宿舎の子供たちは、それぞれに泣いたのだという。この子だけは泣かずに、窓の外の夜を、ずっと見上げていた――と、柵ごしに、ほかの子供たちが口々に教えてくれた。
レオニスは、材木の上で、寝返りを打った。
「……でかくしとけ。それと、窓掛けの紐は、ガキの手が届くとこにな」
ガルドが、眉を寄せる。
「注文の多い欲張りだ」
ぶつくさ言いながら、それでも、大工の親方のほうへ歩いていった。窓の寸法の話でも、しに行くのだろう。
白い部屋の窓掛けは、夕べの祈りが終わると、白い法衣の司祭たちが閉めて回った。――夜は、冷えますからね。
今度の家の窓は、開けるのも閉めるのも、あいつら自身が決めればいい。
冬至の夜から、七十五日が経っていた。
教会は、追ってこない。手配書は剥がされたきりで、騎士がパン屋の戸を叩くこともない。夜の王都では、窓を開けたまま眠る家が、少しずつ増えている。
悪くない春だった。
レオニスは、外套の内側に手を入れた。
指先に、紙の感触が触れる。四年前から、そこに入れっぱなしの紙切れだ。
取り出しはしない。読まなくても、書いてあることは知っている。汚い炭の字で、ひと言だけ。
――剣は枕にしろ。
四年前の、冬の終わりだった。
街道沿いの楡の木の下で、昼寝をした。
――師匠。ちょっとだけ、寝る。
そう言ったのは、覚えている。返事は、なかった。いつものことだった。
目を覚ますと、日が傾いていた。頭の横に、師匠の鉄剣が置いてあった。その下に、この紙切れが挟んであった。
師匠は、いなかった。
日が暮れるまで、楡の下で待った。次の日も、待った。
戻らなかった。
その年の夏、古いつてを辿って、報せが届いた。北の麓の町で、パイプの爺さんが、雪の上で眠ったまま死んでいた、と。
それきりだった。
北へは、行かなかった。
泣きも、しなかった。
……行って、どうすんだよ。
何を見たところで、腹がふくれるわけでもない。
レオニスは、紙切れから指を離した。
鉄剣の上に頭を戻して、目を閉じる。
四年、言われたとおりにしてきた。
◆
川沿いのパン屋に戻ったのは、昼を過ぎたころだった。
店の奥の、卓が三つきりの小さな食堂。開け放った窓の外を、春の川が、光りながら流れていく。
焼き場の竈の前では、ユナが、天板の丸パンをひっくり返していた。今日も、頬に白い粉をつけている。その手前の作業台では、ミレイアが、袖をまくって生地を捏ねていた。
レオニスは、窓際の卓に腰を下ろした。
焼きたての丸パンを、ひとつ、かじる。
焦げていない。
「……また、材木の上?」
竈の前から、ユナが訊いた。
「おう」
ユナは、天板に目を落としたまま、少しのあいだ、口をつぐんでいた。
「……あいつ、ちゃんと食べてる?」
あいつ、が誰のことなのかは、訊かなくてもわかった。
「誰よりも重いの、担いでたぞ」
「ふうん」
それきり、ユナは何も言わなかった。けれど、焼き上がった丸パンのなかから、いちばん形のいいのをひとつ選んで、布に包んで、棚の端に取りのけた。
明日の朝、坂の上へ届ける分だろう。
戸口の鈴が、けたたましく鳴った。
「――レオニスさん!」
栗色のおさげが、店の奥まで、まっすぐに飛びこんできた。
娘だった。そばかすの散った頬を真っ赤にして、息を弾ませている。町ふうの、こざっぱりとした前掛け姿。けれど、その笑い顔には、見覚えがあった。
トルカ村の、リラだった。村では、司祭さま、と呼ばれていた気がする。
リラは、卓の前まで駆けてきた。
「やっと見つけた! 寝癖の闇司祭さんなら、川沿いのパン屋だって、仕立て屋のおかみさんが――」
言いながら、背伸びをした。
村を救ったあの日と、同じだった。そばかすの顔が、こちらの頬へ寄ってきて――
止まった。
リラの目が、レオニスの肩ごしの、どこかで止まっていた。
振り返ると、作業台のミレイアと、目が合った。
粉だらけの指が、生地に、深く沈んでいた。
「……どなたですか」
平らな声だった。
生地が、泣いている気がした。
リラが、ぱっと踵を下ろした。耳まで、赤くなっている。
それから、目を瞬いた。
「あ……井戸のところの、騎士さま?」
ミレイアの指が、生地から抜けた。
「……トルカ村の、リラさん、でしたね」
覚えているなら、なんで訊いたんだ――とは、言わなかった。言わないほうがいい気がした。
リラは、この春から、王都の仕立て屋に見習いとして住みこんでいるのだという。
「まだ、ボタン付けと、裾かがりばっかりだけど。……でもね、おかみさんが、刺繍の糸を、少しずつ任せてくれるの」
指先に、針の痕が、いくつもあった。
レオニスは、その指から、目を上げた。
「そっか。来たんだな」
「来たよ」
リラは、胸を張った。
「出てくる朝も、父さん、泣いてたけど。……でも、また、『行ってこい』って」
それから、村の話をした。焼けた家は、あれから一軒も傷んでいないこと。墓の前のおじいさんは、今も毎朝、娘の墓に花を持っていくこと。
「でもね、このごろは、帰りに、うちの父さんと林檎酒を飲んでるの。朝から」
レオニスは、思わず笑った。
悲しみを消してくれと、すがってきた老人だった。消さなかった。消さないまま、あの人は、毎朝、花を持っていく。
帰りに、酒を飲んで。
リラが、作業台のほうを振り返った。
「騎士さまは、ここで、パン屋さんを?」
ミレイアは、生地に目を落とした。
「……捏ねるのだけは、うまいそうです」
竈の前で、ユナが噴き出した。
ユナが、こちらを振り返った拍子に、その前掛けのポケットから、白い布の端がのぞいた。
青い糸で、小鳥が刺してある。
リラの目が、まんまるになった。
「それ……」
声が、少しだけ、震えた。
「私の、最初の」
ユナは、前掛けを見下ろした。それから、レオニスのほうを、ちらりと見た。
「レオニスに、借りたまま」
リラが、こちらを見る。
レオニスは、目を逸らした。
「……貸しただけだ」
ユナが、手巾を取り出した。きちんと畳んである。粉ひとつ、ついていなかった。何度も、洗ってあるのだろう。
ユナはそれを、レオニスの前の卓に、そっと置いた。
「返す」
「……おう」
リラが、こらえきれずに、くすくすと笑いだした。
それから、竈の前のユナのそばに、しゃがみこんだ。
「あなたにも、縫ってあげる。……ユナちゃん、だっけ。好きな鳥、ある?」
ユナは、少し考えた。
「……すずめ」
「すずめかあ。いいね。茶色の糸、たくさん使えるね」
ユナの口の端が、ほんの少しだけ、上がった。
帰りぎわ、リラは戸口で振り返った。
「ねえ。坂のとちゅうで、大きなおうちを建ててるでしょう。大工さんたちと、鎖をつけた、熊みたいな人が」
レオニスは、少し笑った。
「陽だまりの家だ。親のいねえガキどもの、家」
リラの目が、光った。
「……子供たちの、おうち」
何かを測るように、指が、宙で小さく動いていた。針を持つときの手つきだった。
鈴を鳴らして、栗色のおさげが、春の通りへ駆けていった。
作業台では、ミレイアが、生地を捏ねなおしていた。ずいぶんと、力が入っている。
レオニスは、頬杖をついた。
「……捏ねすぎじゃねえか」
「捏ねるのだけは、うまいそうですので」
ミレイアは、生地から目を上げなかった。
竈の前で、ユナが、また肩を震わせていた。
レオニスは、卓の上の手巾を取って、外套の内側にしまった。
四年前の紙切れの、隣に。
◆
明くる朝、ミレイアは、塩を買いに、大聖堂前の広場を通った。
夜明け前の仕込みを終えた、帰り道だった。春の朝の陽ざしが、白い石畳を、まぶしく照らしている。
白い礼拝堂の前に、列ができていた。
ミレイアは、足を止めた。
扉から延びた列は、正面の石段の前を過ぎて、広場の噴水のあたりまで続いていた。冬のあの列ほど長くはない。けれど、誰もが同じように、黙って順番を待っている。
白い石の掲示板に、真新しい紙が貼られていた。白銀の太陽の紋章の下に、二行。
――聖女の故郷より、聖なる雪の恵み。
――泣く者は、白き礼拝堂にて、小瓶を受けよ。
礼拝堂の脇の小さな扉が開いて、人が、ひとりずつ出てきた。
誰もが、首から細い紐を下げていた。紐の先に、指の先ほどの硝子の小瓶が揺れている。中に、白いものが、ほんのひとつまみ、詰めてあった。
女がひとり、小瓶を両手で握りしめて、ほうっと息をついた。
目もとが、ゆるんでいく。泣き腫らしたあとの、まぶたのまま。
女は、握った手を胸に当てたまま、石段を下りていった。下りきったところで、紐を直そうとして、小瓶から手を離した。
顔が、曇った。
女は、あわてたように、また小瓶を握りしめた。
冬の列の人々は、扉から出てくるとき、誰もが同じ顔で笑っていた。穏やかに、どこまでも優しく。
今度の人々は、笑ってはいなかった。ほっとした顔をして、小瓶を握りしめているだけだった。手を離すたびに、また、もとの顔に戻りながら。
ミレイアは、胸の聖印に、指をやった。
白銀の太陽は、ぬるかった。
浄化の場の、火にかざした銅貨のような熱さではない。けれど、冷たくもない。牢の面会室で、片腕の男の話を聞いていたときと、同じぬるさだった。
石段の下で、年配の女が二人、小瓶を見せあっていた。
「ほら、あったかいんだよ、これ。雪なのにさ」
「溶けないねえ。不思議だねえ」
――あったけえのに、溶けねえ雪だった。
面会室の蝋燭の火の向こうで、ボルグは、そう言った。
二十五年前の冬。北の山奥の、谷の村。先生と呼ばれた男が、泣きやまない娘を抱いて白くなり、崩れて、雪になった。
聖女の故郷の、雪。
ボルグは今、北の鉱山にいる。魚みたいな木剣を、荷に差して発っていった。
ミレイアは、白い礼拝堂を見上げた。
その雪の降った谷を、ヘルミは、訪ねると言っていた。父の墓があるかどうかも、わからないけれど、と。
――あの人は、このことを、知っているのだろうか。
広場の端の塩屋で、塩をひと袋、買った。
量り売りの台の向こうで、塩屋のおかみが、目を細めた。この冬に、亭主を亡くした人だった。冬至を過ぎてからも、目を赤くして店を開けていたのを、ミレイアは知っている。
おかみの胸もとで、小さな硝子が揺れていた。
「このごろ、よく眠れるんだよ」
おかみは、小瓶を握ったまま、少し笑った。
よかったですね、とは、言えなかった。なぜ言えないのかも、うまく言葉にならなかった。
胸の聖印は、袋を受け取るあいだも、ぬるいままだった。
ずしりと重い袋を抱えて、パン屋へ戻った。
店の前に、白い法衣の若い司祭がひとり、立っていた。腕に、浅い籠を提げている。籠の中で、小さな硝子の瓶が、いくつも、ちりちりと鳴っていた。
「お店にも、恵みを置いていただけませんか。泣いている方がいらしたら、おひとつずつ――」
粉だらけの親父が、戸口に立ちふさがっていた。
「うちは、置かねえ」
司祭は、少しも気を悪くした様子もなく、にこにこと笑った。
「では、お気が変わりましたら」
軽く会釈をして、隣の店へ歩いていった。
親父は、その背中を見送りもせずに、店の奥へ戻った。生地の桶を抱えて、ミレイアの横を通りしなに、ぼそりと言った。
「……泣くのを止める薬なんざ、パン屋の売りもんじゃねえ」
焼き場で、ユナが、薪をくべながら言った。
「鍛冶屋のおじさん、このごろ、来ないね」
冬至の前、夜ごと裏口を叩いた人たちのひとりだった。息子を亡くした、大きな手の鍛冶屋。冬至のあとは、毎朝、黒パンをひとつ買いに来ていた。
この四日ほど、姿を見ていない。
親父は、何も答えなかった。
ミレイアは、作業台の前で、懐から革表紙の帳面を取り出した。
罪状帳。
ゆうべ書いた頁が、開いた。
――本日:材木の上で、昼寝。
一行きりだった。
栗色のおさげのことは、書かなかった。
罪状では、ないので。
◆
真昼の王都を、ランタンを提げた少年が歩いていた。
灰色の髪に、白い審問官の衣。真鍮の覆いを開けたランタンの中で、白い火が、音もなく燃えている。
すれ違う人が、振り返る。春の陽ざしの中で灯された火は、ひどく目立った。それでも、少年は、覆いを閉じなかった。
聖都から来た、教皇の審問官――アルバンだった。
王都の大聖堂の検分は、午前のうちに済ませた。地の底の神殿へ続く隠し階段も、黒い扉の前まで、降りてみた。扉を埋める古い文字のなかに、鑿で深く抉られた名がひとつあるのも、この目で確かめた。
残る務めは、ひとつだけだった。
白い闇司祭を、見届けること。
手配書の人相書きは、聖都で読んだ。冬のあいだに王都から送られてきた、報告の束のなかの一枚だった。
――寝癖のある黒髪。琥珀色の目。黒い外套。
この務めは、自分から、猊下に願い出た。
確かめたいことが、あった。
石畳に、自分の影が落ちていた。
くっきりと、黒い影だった。すれ違う人々の足もとにも、軒先の籠にも、春の陽ざしが、濃い影をひとつずつ落としている。
聖都では、見たことのない濃さだった。
川沿いの通りに出た。
家と家とのあいだの路地は、どこも、昼でも薄暗い。アルバンは、その細い隙間を、ひとつずつ覗いた。暗がりの奥に、誰かがうずくまっていないか。置き去りにされた誰かが、いないか。
いつもの、癖だった。
パン屋は、すぐにわかった。軒先の籠に、丸パンが山と積まれている。
戸を押すと、鈴が鳴った。
焼けたパンの匂いがした。奥の焼き場で、頬に粉をつけた女の子が、竈の前から振り返った。作業台の前には、肩で切りそろえた銀髪の娘。報告にあった、見習いを辞した娘だろう。
粉だらけの前掛けの、太った男が、店先の台の向こうから、こちらを見た。
ランタンを見て、それから、白い衣を見た。太い眉が、寄った。
「……何の用だ」
アルバンは、答えなかった。
店の奥の食堂が、目に入っていた。
卓が三つきりの、小さな食堂だった。川に面した窓は、開け放たれている。それなのに、奥の隅だけが、昼だというのに、ひどく暗かった。窓からの光が、そこまで届いていない。
その暗がりに、人がいた。
大柄な男だった。隅の卓に、背中を丸めて座りこんでいる。煤の染みた太い指が、何かを握りこむように、固く拳を作っていた。
大きな肩が、小刻みに、揺れていた。
――暗がりに、ひとり。
考えるより先に、足が動いていた。
アルバンは、食堂へ踏みこんで、ランタンを高く掲げた。
光が、満ちた。
冷たい光だった。火のようには、揺らがない。白く、まっすぐに、隅々までを照らしていく。卓の下の影が消えた。椅子の影が消えた。壁ぎわの暗がりが、ひと息に、拭い去られた。
男の背中の影も。伏せた顔の影も。
影という影が消えた食堂で、男の顔が、店じゅうに晒された。
泣いていた。
頬が、濡れていた。目のふちが、赤く腫れあがっている。握りしめた拳の、指と指のあいだから、白いものが光っていた。
硝子の、小瓶だった。
焼き場で、女の子が、口を押さえた。
店先の男の手が、止まった。
アルバンは、静かに言った。
「……隠すことは、ありません」
男の唇が、震えた。
何かを言うまいとするように、一度、固く閉じられて――
ひとりでに、開いた。
「……四日前が、せがれの、誕生日だった」
嗄れた声だった。男は、自分の口から出た言葉に、目を見開いていた。
「生きてりゃ、十六だ。……新月の晩に、死んだ。あれから、ずっと、ひとりで飯を食ってる」
十六。
自分と、同じ年だった。
男の声は、止まらなかった。
「その晩、どうにも、ならなくなっちまった。……礼拝堂に、並んだ」
拳が、小瓶ごと、震えていた。
「握ってるとな。遠くなるんだ。あいつの顔が。……楽に、なっちまうんだよ」
男は、店の奥の、作業台のほうを見た。それから、店先の、粉だらけの太った男を。
「ここの連中には、言えなかった。冬のあいだ、みんなで、聖女さまのところへは行かねえって、決めてたのに。……俺だけ」
声が、崩れた。
大きな背中が、丸まった。
誰も、何も言わなかった。
自分の光だから、わかる。この光の下では、何ひとつ、隠しておけない。
それでいい、とアルバンは思った。暗がりで、ひとりで泣くよりは、ずっといい。
「光の下では、誰も、置き去りにされませんから」
そのときだった。
食堂の奥の階段が、ぎしりと鳴った。
寝癖の頭が、降りてきた。
黒い髪が、好き勝手な方角を向いていた。片手で、目もとを覆っている。
「……眩しいんだよ」
寝起きの、不機嫌な声だった。
青年は、階段を降りきると、まっすぐに隅の卓へ歩いていった。歩きながら、黒い外套を脱いだ。
そして、泣いている男の頭から、ばさりと、かぶせた。
外套の下に、ひとりぶんの暗がりができた。
ランタンの光は、そこにだけ、届かなかった。
隅々まで照らされた白い食堂の、片隅に――小さな夜が、ひとつ、うずくまっていた。
暗がりを、わざわざ、こしらえる人がいる。
アルバンは、ランタンの提げ手を、握りなおした。
外套の内側から、押し殺した嗚咽が、聞こえた。
青年は、外套の上から、男の背中に一度だけ手を置いた。それから、こちらを振り返った。
「泣いてる顔ってのはな」
低い声だった。
「見えなくていいときも、あるんだよ」
アルバンは、答えなかった。
見えなくていい顔など、あるはずがない。暗がりで泣いている者に、いったい誰が、気づいてやれるというのだろう。
粉だらけの太った男が、店先から黙って歩いてきた。
黒パンをひとつ、外套のそばの卓に、置いた。
何も言わずに、また店先へ戻っていった。
アルバンは、青年を見ていた。
外套を脱いだシャツの胸もとで、黒い鉄の聖印が揺れていた。小さなランタンの形をしている。
寝癖の下の目が、まっすぐに、こちらを見返していた。
琥珀色だった。
――十年、忘れたことのない色だった。
アルバンは、ゆっくりと、微笑んだ。
硬く、整った、いつもの微笑みを。
「白い闇司祭さま、ですね」
青年の眉が、寄った。
アルバンは、ランタンを胸の前に下ろして、頭を下げた。
「聖都の審問官、アルバンと申します」
顔を上げて、続ける。
「猊下より、お言葉を預かってまいりました」
一字一句、たがえずに伝えた。
「――白は、白を呼ぶ。来るかどうかは、汝が決めよ」
食堂が、静まりかえった。
青年は、しばらく黙っていた。
「……行かねえよ」
「承知いたしました」
アルバンは、もう一度、頭を下げた。
「では、見届けます。……夏至の、満陽祭の日まで。そう申しつかっておりますので」
作業台の前から、銀髪の娘が、一歩、進み出た。
「監視役は、私です」
アルバンは、娘に向き直った。
「存じております。ミレイア・セレスさん」
にこやかに、言い添えた。
「罪状帳の方ですね」
娘の頬が、ひくりと引きつった。
戸口で、鈴が、小さく鳴った。
開いた戸の隙間に、子供がひとり、立っていた。
裸足だった。継ぎだらけの上着の袖から、細い手首がのぞいている。軒先の籠のパンを、じっと見上げていた。
太った男が、籠から丸パンをひとつ取って、アルバンの手に押しつけた。
「……坊主にも、パンくらいは出す」
ぶっきらぼうな声だった。目は、まだ怒っていた。
アルバンは、手の中のパンを見下ろした。
まだ、温かかった。
そのまま、アルバンは、戸口まで歩いていった。裸足の子供の前に膝をついて、パンを、そっと置く。
「こちらが、先です」
子供が、目をまるくして、アルバンを見上げた。
アルバンは、肩ごしに、青年のほうを振り返った。喉もとまで、言葉が来ていた。
――あなたの言葉です。
そう、言いかけて――
青年は、こちらを見ていなかった。いつのまにか店先まで出てきて、籠から丸パンをもうひとつ取り、子供のほうへ、ひょいと放っているところだった。
「ほらよ。二つ目だ」
子供は、両手でそれを受け止めた。二つのパンを胸に抱えこんで、通りへ駆けていった。
アルバンは、言いかけた言葉を、呑みこんだ。
立ち上がって、膝の土を払う。
隅の卓の外套の下から、パンをかじる小さな音が、聞こえていた。
アルバンは、外套を見て、それから、青年を見た。
「あの方の小瓶の雪が何なのか、お訊きにならないのですか」
青年は、子供の駆けていった通りを見たまま、答えた。
「……知ってる」
訊かれれば、答えるつもりだった。
白陽の聖女さまの、父君の白だと。二十五年前、北の谷で崩れて雪になった男の、白だと。
隠すことなど、何もない。
アルバンは、ランタンの覆いを、閉じなかった。
◆
明くる日の朝、レオニスは、屋根裏の寝床で、天井の梁を見上げていた。
――こちらが、先です。
昨日から、ずっと、耳の奥に引っかかっている。
どこかで、聞いた言い回しだった。
どこで聞いたのかは、思い出せない。
鍛冶屋は、夕方まで外套をかぶったまま、隅の卓にいた。帰りぎわに外套を返して、黙って頭を下げていった。卓の上の黒パンは、なくなっていた。首の小瓶は、下げたままだった。
返ってきた外套は、鉄と煤の匂いがした。
あの審問官は、店を出たあと、通りの向かいの軒下に立っていた。日が暮れるころには、どこかへ消えていた。
階段を降りると、店先の戸の向こうに、白い火がひとつ、灯っていた。通りの向かいの、昨日と同じ軒下だった。
レオニスは、大きな欠伸をした。
「……暇な奴だな」
「あなたが言いますか」
作業台のミレイアが、顔も上げずに言った。
親父が、店先から、封書を一通、持ってきた。
「兄ちゃん。北から来た荷馬車の御者が、置いてったぞ。あんた宛てだとよ」
受け取った。
表に、宛名が書いてあった。一字一字、丁寧に、まっすぐに並んだ、几帳面な字。
――王都、川沿いのパン屋、レオニスさま。
裏を返す。
――ヘルミ。
封を、切った。
――レオニスさま。
――父の村は、白い雪の下にありました。教会の方々が、柵で囲っていらっしゃいました。
横から覗きこんでいたミレイアが、小さく息を呑んだ。
「……小瓶の、雪」
レオニスは、答えなかった。続きを読んだ。
――父のお墓は、ありませんでした。
――麓の町の、丘の上の墓地に、オズワルドさまのお墓がありました。
指が、止まった。
もう一度、その行を読んだ。
墓が、あった。
死んだことは、知っていた。四年前の夏から、知っていた。けれど――墓があるということは、誰かが、あの人を埋めてくれたということだ。
そんなことを、四年、考えもしなかった。
――墓守のおばあさまが、オズワルドさまのお手紙を、預かっていらっしゃいます。宛名は、「寝坊助へ」と。お弟子さまのことだと、うかがいました。
手紙。
あの人が、手紙。
字を書くのが、何より面倒くさそうな人だった。何か言い残すにしても、紙切れ一枚、汚い字でひと言――それで済ませる人だった。
――剣は枕にしろ。
その人が、手紙を書いた。
四年も、黙っていたくせに。
――私とシエルは、ゴドフロワと一緒に、北の峠の修道院に、身を寄せております。峠は静かで、毎日、とても穏やかです。
――お越しになるかどうかは、レオニスさまが、お決めください。
――ヘルミ。
その下に、字の大きさが、まるで揃っていない一行があった。覚えたての子供が書いたような、大きな、たどたどしい字だった。ずいぶん力をこめて書いたらしく、紙が、ところどころ、へこんでいた。
――レオにいちゃん。きて。――シエル。
レオニスは、便箋を持ったまま、しばらく動かなかった。
「……決めろってのと、来いってのが、一枚に書いてあるぞ」
ようやく、それだけ言った。
ミレイアは、粉だらけの手を前掛けで拭って、少しも迷わずに答えた。
「両方、読めばいいのです」
レオニスは、もう一度、便箋に目を落とした。
寝坊助。
そう呼ばれたことがある。
ひとりにだけ。
毎朝、毎朝、脇腹を蹴飛ばされて。
――起きろ、寝坊助。
ふだんは坊主と呼ぶくせに、朝だけ、そう呼んだ。煙草くさい、嗄れた声で。
四年、聞いていない声だった。
ミレイアが、作業台へ戻っていった。懐から、革表紙の帳面を取り出す。
ペンを持ったまま、戸口の向こうの、白い火を見た。
それから、ペン先を下ろした。
――満陽祭まで百五日:
レオニスは、眉を寄せた。
「……なんで、満陽祭なんだよ」
「あの方が、そうおっしゃいましたので。満陽祭の日まで、見届ける、と」
「……行かねえよ」
「数えるだけです」
ミレイアは、それきり、黙ってペンを走らせた。
――満陽祭まで百五日:手紙を、三度読む。
「……二度だ」
「三度です」
ミレイアは、帳面を閉じた。
レオニスは、何も言い返さなかった。
その晩、屋根裏の寝床で、便箋を、もう一度開いた。
几帳面な字を、終わりの、たどたどしい大きな字まで、読んだ。
数えてみれば、三度目だった。
便箋を畳んで、外套の内側にしまった。青い小鳥の手巾の、隣に。
その奥の古い紙切れを、久しぶりに、取り出した。
――剣は枕にしろ。
汚い炭の字を、指先でなぞった。
……行って、どうすんだよ。
四年前と同じことを、もう一度、思ってみた。
今度は、うまく思えなかった。
枕もとには、今夜も、刃のない鉄剣が置いてある。
あの日、楡の木の下で、ちょっとだけ寝ると言って、目を閉じた。
四年前の昼寝から、まだ、覚めていない気がした。




