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光の闇司祭③ 白夜の教皇  作者: parupuntist


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1/10

プロローグ 雪の上の昼寝

 昼寝がしたい。


 葉を落とした楡(にれ)の根もとに腰を下ろし、骨ばった長身を幹にあずけ、すっかり白くなった無精髭をさすりながら、オズワルドは心の底からそう思った。


 黒き母の子にとっては、これも立派な祈りのうちだ。


 ――昼寝も、立派な信仰の実践だろ。


 そう言って木陰に転がる弟子に、何度、拳骨をくれてやったかわからない。そのくせ自分も昼寝には目がないのだから、世話はなかった。


 オズワルドは、ひとりで苦笑した。


 冬の終わりの街道だった。


 刈り株の並ぶ畑に、汚れた雪が、まだらに残っている。吹く風は、まだ冷たい。それでも陽ざしには、どこか、ゆるんだところがあった。楡の枝の先では、固い芽が、春を待っている。


 隣で、弟子が眠っていた。


 ――師匠。ちょっとだけ、寝る。


 腰を下ろすなりそう言って、返事も待たずに寝息を立てはじめたのだ。ちょっとで済んだためしは、一度もない。


 楡の根を枕に、口を半開きにして。寝癖のついた黒髪が、好き勝手な方角を向いている。口の端から、よだれがひと筋。


 《光の闇司祭》――叙階の夜に鏡を白く燃やして、こいつは、そう呼ばれるようになった。この寝顔のどこが、と思う。


 十八になった。背丈ばかり伸びて、寝顔は、雪の路地裏で拾った晩から少しも変わらない。


 よく食って、よく寝て、よく笑う。


 泣いたところは、見たことがない。泣きそうな顔をしたと思うと、決まって、腹が減ったと言いだす。


 毎朝、蹴飛ばして起こしてきた。


 ――起きろ、寝坊助。


 ふだんは「坊主」と呼んでいる。寝坊助と呼ぶのは、朝、蹴飛ばすときだけだ。叙階の朝にも、こいつは寝坊した。その夜の儀の最中には、供物の黒パンを齧(かじ)っていやがった。


 ――寝坊助が。


 左の肩が、疼(うず)いた。


 北の谷の村はずれで、白い外套(がいとう)の騎士に射られた。古い、矢の痕だ。雪の降る前の晩には、決まって疼く。このところは、晩でなくても疼く。剣を担ぐのも、つらくなった。


 咳が出た。弟子を起こさないよう、袖で口を押さえる。この冬のあいだに、咳が抜けなくなった。


 ……起きるわけがねえか。


 思い直して、口の端で笑った。くわえたパイプに火を入れる気には、なれなかった。


 懐の手紙は、ゆうべ、ようやく書き終えた。字を書くのは、昔から苦手だ。弟子の寝息を聞きながら、三晩かかった。


 北の谷の話は、こいつに一度もしたことがない。こいつも、逃げてきた孤児院の話を、一度もしない。訊(き)かなかったし、訊かれなかった。おあいこだ。


 だから、字にした。


 昼寝は、あとだ。


 オズワルドは、幹に立てかけておいた鉄剣を手に取った。


 鞘(さや)のない、古い剣だ。刃は丸く潰してあって、何も斬れない。


 ――斬るためじゃねえ。断つための剣だ。


 弟子には、そう教えてきた。


 その剣を、眠る弟子の頭の横に、そっと置いた。


 ゆうべの焚き火から拾っておいた炭のかけらで、紙切れに書きつける。


 ――剣は枕にしろ。


 汚い字だった。


 ――おまえの字は、みみずが昼寝してるみたいだね。


 白墨の粉で白くなった袖口で口もとを隠して、兄貴は、よくそう笑った。


 紙切れは、剣の下に挟んだ。


 寝癖頭に、手を伸ばしかけて――やめた。


 三年前の叙階の夜にも、この頭に手を置いた。眠る小僧に、見届けてやると言った。


 今、置いたら、手が離れなくなる気がした。


 昼寝の邪魔は、しちゃいけねえ。


 行き先は、書かなかった。


 書けば、こいつはついてくる。


 ……ついてきてほしくないわけでも、なかった。


 オズワルドは、立ち上がった。


 背を向けて、二歩、三歩と歩いたところで、うしろから声がした。


「……あと、半刻(はんとき)……」


 寝言だった。毎朝、蹴飛ばすたびに聞かされてきた台詞(せりふ)だ。


 足は、止めなかった。


「……ああ。好きなだけ、寝てろ」


 街道を、北へ歩いた。


 楡の木が見えなくなるまで、一度も、振り返らなかった。振り返れば、そこから先へは、一歩も行けなくなる気がした。


 剣のない肩が、軽かった。軽すぎて、どうにも落ち着かなかった。


◆


 北へ向かう街道は、日ごとに雪が深くなった。


 宿場の飯屋で、隣の卓の若い衆が、飯を三人前平らげていた。あいつなら、四人前だ。


 こっちの皿は、ひとりぶんで足りた。それだけのことが、妙にこたえた。


 夜は、宿の寝台で、咳をこらえて天井を見ていた。隣から寝息の聞こえない夜は、ひどく長かった。


 麓の町に着いたのは、何日かあとのことだった。


 北の山の、いちばん手前の町だ。町はずれの丘の上に墓地があって、雪をかぶった墓標のあいだに、藁(わら)で包んだ箱が、いくつも並んでいる。


 蜂の巣箱だった。春になれば、墓地に咲く花に、蜂が来る。


 墓地の番をしているのは、そばの小屋に住む、小柄な婆さんだ。蜂を飼っているのも、その婆さんだった。綿入れを着ぶくれて、今日も素手で、巣箱の藁を直している。蜂に刺されても眉ひとつ動かさない手だと、オズワルドは知っている。


 四十年、この婆さんから蜂蜜を買ってきた。村へ帰る冬ごとに。帰る村がなくなってからも、思い出したように。


 四十年前から、もう婆さんだった気がする。


 婆さんが、顔を上げた。


「……なんだい。まだ、生きてたのかい」


「まだな」


 婆さんの目が、オズワルドの肩で止まった。


「剣は、どうしたい」


「置いてきた」


 婆さんは、それ以上は訊かなかった。


 オズワルドは、小屋の戸口へ顎をしゃくった。


「蜂蜜を、ひと壺」


 頷きが返ってくる。


「……それと、穴をひとつ」


 藁を直す手が、止まった。


 今度も、何も訊かれなかった。皺(しわ)の奥の目が、オズワルドの顔を、しばらく見ていただけだった。


「土が凍ってるからね。掘るのは、春になってからだよ」


「急がねえよ」


 オズワルドは、丘の端のほうへ目をやった。墓標の列が途切れたあたりに、冬の陽が、いちばん長く当たっている。


「場所は、あそこがいい。日当たりがな」


「……昼寝でもする気かい」


「まあな」


 無精髭をさすって、付け足す。


「長え付きあいだ。穴のぶんくらい、まけちゃくれねえか」


「値切るんじゃないよ」


 ぴしゃりと言われた。四十年、一度も、まけてもらったことがない。


 懐から、手紙を出した。表には、汚い字で「寝坊助へ」とだけ書いてある。


 ――読むころには、さすがに起きてるだろう。


「寝坊助が来たら、渡してくれ。来なけりゃ、燃やしていい」


「寝坊助?」


「……弟子だ。来るかどうかは、わからねえ」


「来たって、あたしにゃ、見分けがつかないよ」


「寝癖のひでえ、黒髪の若造だ。……見りゃ、わかる」


 婆さんは宛名を眺めて、ふんと鼻を鳴らし、手紙を前掛けの下にしまった。


 オズワルドは、丘の端の日だまりへ、もういちど目をやった。


「名前は、彫るな。寝てるのを、起こされたくねえ」


「……勝手な爺さんだよ」


 ぶつぶつ言いながら小屋へ入った婆さんが、壺をひとつ抱えて出てきた。押しつけるように、渡される。


「冬の蜜だからね。じき、固まるよ」


「湯につけりゃ、とける」


 代金は、穴のぶんまで、きっちり取られた。


 壺を腰の網に入れて、丘を下りかけたところで、オズワルドは足を止めた。


「春になっても戻らなかったら、谷の入り口を見に来てくれ」


 婆さんの顔が、初めて動いた。


 この町で谷といえば、ひとつしかない。北の、あたたかい雪の谷だ。入った者は、笑って帰ってきて、悲しいことを忘れている。土地の者は、誰も近づかない。


 オズワルドは、北の山のほうを見た。


「……たぶん、寝てる」


 婆さんは、長いこと黙っていた。


 それから背を向けて、巣箱の藁に、また手をかけた。


「……風邪、ひくんじゃないよ」


 丘を下りるあいだ、腰の網で、壺がことことと鳴っていた。


 あの冬と、同じ音だった。あの冬の壺は、谷で割れた。


◆


 峠の修道院に、ひと晩、宿を借りた。


 谷から半日ほどのぼった、峠の上の修道院だ。白の高原へ出る前の、最後の宿だという。冬のあいだは峠の向こうへの道が雪で閉ざされるから、巡礼の姿はなかった。


 谷の入り口の前は、来る途中で通り過ぎた。見なかった。先に、峠だ。


 年老いた修道女が、黙って、豆のスープを出してくれた。


 薄かった。


「……肉は、ねえのか」


「ございません」


 修道女は、オズワルドの顔を見た。


「巡礼の方では、ありませんね」


「ああ。……見物だ」


 黒鉄(くろがね)の聖印は、襟の内側に押しこんである。闇司祭が、光の教会の修道院で、薄いスープをすすっている。兄貴に聞かれたら、腹を抱えて笑われる。


 咳をすると、修道女は何も言わずに奥へ消えて、毛布を一枚、余分に持ってきた。


 日が傾くころ、門を出て、峠のいちばん高いところまで、雪を踏んでのぼった。


 峠の向こうが、ひらけていた。


 白い野だった。


 雪をかぶっているのか、もとから白いのか、遠目にはわからない。どこまでも平らな白が、地平まで続いている。その果てに、光がひとつ、灯っていた。


 星ではない。夕日でもない。


 ただ、白い光だった。見ていると、それはゆっくりと、息をするように膨らんでは、またしぼんだ。


 あの日、谷を呑んだ白に、よく似ていた。


 日が、西の尾根に落ちた。


 背中のほうから、夜が来た。谷が暗くなり、修道院の窓に、小さな明かりがともる。見上げれば、空の高いところに、星がひとつ、ふたつと瞬きはじめていた。


 峠の向こうの空だけが、暗くならなかった。


 乳を溶かしたように、白く濁ったまま。そちらの空には、星がひとつもない。


 オズワルドは、その白を、長いこと見ていた。


 谷じゅうで、ひとりだけ泣いた夜があった。


 暗くて、よかった、と思った夜だ。


「……あれじゃあ、泣く場所もねえな」


 喉の奥で、節が鳴った。


 兄貴の子守唄だった。一行目。二行目。三行目。


 その先に、もうひと行ある。


 村の子供たちは知らない、もうひと行が。若いころ、師匠の前に兄貴と並んで座らされて、声をひそめて教わった行だ。


 ――いつか、届けてやらなきゃね。


 兄貴は、ときどき峠のほうを見上げては、そう言っていた。


 オズワルドは、白い空に向かって、口を開いた。


 声には、ならなかった。


 あの夜と、同じだった。節だけが、喉の奥でかすかに鳴って、それきりだった。


 咳が、出た。


「……届かねえな」


 遠い光は、何も知らないふうに、ゆっくりと息をしていた。


 白い空は、ひと晩じゅう、暗くならなかった。


 明くる朝、オズワルドは、谷へ下りた。年老いた修道女が、門のところで、黙って見送っていた。


◆


 谷の入り口は、白かった。


 両側から迫る尾根のあいだを、ひとつながりの白が埋めている。風の音もしない。足跡は、ひとつもない。


 二十年あまり、溶けずにいる雪だった。


 目を凝らすと、白い雪原の下に、屋根の形がいくつも、うっすらと浮いて見えた。


 この下に、村が眠っている。茅葺(かやぶ)きの屋根も、兄貴の家も、竈(かまど)も。あの冬の日、どこの家の竈の上でも、蓋の下で昼寝をしていた鍋も。笑ったまま火に呑まれた、村の連中も。


 オズワルドは、雪の上に、腰を下ろした。


 あたたかかった。


 春の陽だまりに座っているようだった。燃える家の前で、村の連中が目を細めていたのも、このあたたかさのせいだったのだろう。


「……来たぜ、兄貴」


 雪が、囁いた。


 ――もう、泣かなくていい。


 兄貴の声に、よく似ていた。あの日も、そう思った。


「……やらねえよ」


 オズワルドは、鼻で笑った。


「こいつは、俺のだって、言ったろ」


 指先に、火が、かすかに灯った。


 藍と金を溶かしあわせたような、夕暮れの色の火。あのころより、ずいぶん細い。それでも、白には呑まれなかった。


 その火を、パイプに移した。久しぶりの煙が、白い谷に、細くのぼっていく。


 腰の網から、蜂蜜の壺を出した。


 蓋を取って、匙(さじ)でひと匙すくい、雪の上に垂らす。


 とろりとした金色が、白の上に、小さく灯った。


「……ヘルミの分だ」


 匙を、もういちど壺に差し入れかけて――止めた。


 ひと匙じゃ足りないと、あの子は泣いた。ふた匙目で、ようやく泣きやんだ。


 ふた匙目を垂らしてやるのは、いつも兄貴だった。


「……ふた匙目は、兄貴の役目だったな」


 壺に蓋をして、そばの雪の上に置いた。


 それから、仰向けに寝転がった。


 雪が、背中にあたたかい。


 兄貴の手みてえだ、と思った。頬に落ちてきたあの雪も、こんなふうに、あたたかかった。


 空が、高かった。冬の終わりの薄い雲が、ゆっくりと流れていく。目の端で、雪の上のひと匙の蜂蜜が、陽を受けて光っていた。


 寝坊助は、もう起きたか。


 ……あいつのことだ。まだ寝てるかもしれねえ。


 剣、枕にしてるか。


 あいつのシチューは、いつも、昼寝が足りねえ。こっちは、ひと晩寝かせてから食わせてたんだ。あいつは決まって先に寝ちまうから、知らねえだけで。


 ……教えずじまいだったな。まあ、いい。自分で見つけりゃいい。


 あの晩の、路地裏のちび。あいつも、どこかで、腹いっぱい食ってりゃいいが。


 行き場をなくして、抱えて歩くしかなかった鍋。あれを、底まで、からにしやがったガキども。


 それから、ヘルミの泣き顔。


 六年前、王都の白い門の向こうで見たあの子は、白い服を着て、笑っていた。


 それでも、思い出すのは、いつも泣き顔だった。ひと匙じゃ足りないと口をへの字に曲げて、こっちへ両手を伸ばしてくる顔だ。


 ――これはね、泣きやませる歌じゃないんだ。


 娘を抱いて夜ごと子守唄を歌いながら、兄貴は、そう言っていた。泣き疲れて眠るまで、そばにいてやる歌なんだよ、と。


 パイプをくわえたまま、鼻歌で、節をなぞった。


 一行目。二行目。三行目。


 それから、一行目と同じ節を、もういちど。


 背中の雪が、また囁いた。


 ――もう、泣かなくていい。


「泣いてねえよ」


 左の肩が、もう、疼かなかった。この冬は、もう、降らねえらしい。


「……少しだけ、寝る」


 目を閉じた。


 まぶたの裏に、陽が透けていた。


 夕暮れの色だった。夜になる、手前の色。


 ……悪くねえ。


◆


 四年前の、冬の終わりのことだった。


 春が来て、麓の町の雪が消え、丘の墓地の巣箱から蜂が飛びはじめたころ、墓守の婆さんは、頼まれていたとおり、谷の入り口を見に行った。


 谷の外では、雪解けの水が、音を立てて流れていた。谷の雪だけが、溶けずに残っていた。


 老人は、あたたかい雪の上で、眠っていた。


 パイプを、くわえたまま。そばに、蓋をした蜂蜜の壺がひとつ。


 ひどく、よく寝ている顔だった。


 婆さんは、しばらく、その寝顔を見下ろしていた。


「……風邪、ひくんじゃないよって、言ったろうに」


 それきり、何も言わなかった。


 誰も、その昼寝を起こさなかった。


 それが、オズワルドという男の、最後の昼寝だった。

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