プロローグ 雪の上の昼寝
昼寝がしたい。
葉を落とした楡の根もとに腰を下ろし、骨ばった長身を幹にあずけ、すっかり白くなった無精髭をさすりながら、オズワルドは心の底からそう思った。
黒き母の子にとっては、これも立派な祈りのうちだ。
――昼寝も、立派な信仰の実践だろ。
そう言って木陰に転がる弟子に、何度、拳骨をくれてやったかわからない。そのくせ自分も昼寝には目がないのだから、世話はなかった。
オズワルドは、ひとりで苦笑した。
冬の終わりの街道だった。
刈り株の並ぶ畑に、汚れた雪が、まだらに残っている。吹く風は、まだ冷たい。それでも陽ざしには、どこか、ゆるんだところがあった。楡の枝の先では、固い芽が、春を待っている。
隣で、弟子が眠っていた。
――師匠。ちょっとだけ、寝る。
腰を下ろすなりそう言って、返事も待たずに寝息を立てはじめたのだ。ちょっとで済んだためしは、一度もない。
楡の根を枕に、口を半開きにして。寝癖のついた黒髪が、好き勝手な方角を向いている。口の端から、よだれがひと筋。
《光の闇司祭》――叙階の夜に鏡を白く燃やして、こいつは、そう呼ばれるようになった。この寝顔のどこが、と思う。
十八になった。背丈ばかり伸びて、寝顔は、雪の路地裏で拾った晩から少しも変わらない。
よく食って、よく寝て、よく笑う。
泣いたところは、見たことがない。泣きそうな顔をしたと思うと、決まって、腹が減ったと言いだす。
毎朝、蹴飛ばして起こしてきた。
――起きろ、寝坊助。
ふだんは「坊主」と呼んでいる。寝坊助と呼ぶのは、朝、蹴飛ばすときだけだ。叙階の朝にも、こいつは寝坊した。その夜の儀の最中には、供物の黒パンを齧っていやがった。
――寝坊助が。
左の肩が、疼いた。
北の谷の村はずれで、白い外套の騎士に射られた。古い、矢の痕だ。雪の降る前の晩には、決まって疼く。このところは、晩でなくても疼く。剣を担ぐのも、つらくなった。
咳が出た。弟子を起こさないよう、袖で口を押さえる。この冬のあいだに、咳が抜けなくなった。
……起きるわけがねえか。
思い直して、口の端で笑った。くわえたパイプに火を入れる気には、なれなかった。
懐の手紙は、ゆうべ、ようやく書き終えた。字を書くのは、昔から苦手だ。弟子の寝息を聞きながら、三晩かかった。
北の谷の話は、こいつに一度もしたことがない。こいつも、逃げてきた孤児院の話を、一度もしない。訊かなかったし、訊かれなかった。おあいこだ。
だから、字にした。
昼寝は、あとだ。
オズワルドは、幹に立てかけておいた鉄剣を手に取った。
鞘のない、古い剣だ。刃は丸く潰してあって、何も斬れない。
――斬るためじゃねえ。断つための剣だ。
弟子には、そう教えてきた。
その剣を、眠る弟子の頭の横に、そっと置いた。
ゆうべの焚き火から拾っておいた炭のかけらで、紙切れに書きつける。
――剣は枕にしろ。
汚い字だった。
――おまえの字は、みみずが昼寝してるみたいだね。
白墨の粉で白くなった袖口で口もとを隠して、兄貴は、よくそう笑った。
紙切れは、剣の下に挟んだ。
寝癖頭に、手を伸ばしかけて――やめた。
三年前の叙階の夜にも、この頭に手を置いた。眠る小僧に、見届けてやると言った。
今、置いたら、手が離れなくなる気がした。
昼寝の邪魔は、しちゃいけねえ。
行き先は、書かなかった。
書けば、こいつはついてくる。
……ついてきてほしくないわけでも、なかった。
オズワルドは、立ち上がった。
背を向けて、二歩、三歩と歩いたところで、うしろから声がした。
「……あと、半刻……」
寝言だった。毎朝、蹴飛ばすたびに聞かされてきた台詞だ。
足は、止めなかった。
「……ああ。好きなだけ、寝てろ」
街道を、北へ歩いた。
楡の木が見えなくなるまで、一度も、振り返らなかった。振り返れば、そこから先へは、一歩も行けなくなる気がした。
剣のない肩が、軽かった。軽すぎて、どうにも落ち着かなかった。
◆
北へ向かう街道は、日ごとに雪が深くなった。
宿場の飯屋で、隣の卓の若い衆が、飯を三人前平らげていた。あいつなら、四人前だ。
こっちの皿は、ひとりぶんで足りた。それだけのことが、妙にこたえた。
夜は、宿の寝台で、咳をこらえて天井を見ていた。隣から寝息の聞こえない夜は、ひどく長かった。
麓の町に着いたのは、何日かあとのことだった。
北の山の、いちばん手前の町だ。町はずれの丘の上に墓地があって、雪をかぶった墓標のあいだに、藁で包んだ箱が、いくつも並んでいる。
蜂の巣箱だった。春になれば、墓地に咲く花に、蜂が来る。
墓地の番をしているのは、そばの小屋に住む、小柄な婆さんだ。蜂を飼っているのも、その婆さんだった。綿入れを着ぶくれて、今日も素手で、巣箱の藁を直している。蜂に刺されても眉ひとつ動かさない手だと、オズワルドは知っている。
四十年、この婆さんから蜂蜜を買ってきた。村へ帰る冬ごとに。帰る村がなくなってからも、思い出したように。
四十年前から、もう婆さんだった気がする。
婆さんが、顔を上げた。
「……なんだい。まだ、生きてたのかい」
「まだな」
婆さんの目が、オズワルドの肩で止まった。
「剣は、どうしたい」
「置いてきた」
婆さんは、それ以上は訊かなかった。
オズワルドは、小屋の戸口へ顎をしゃくった。
「蜂蜜を、ひと壺」
頷きが返ってくる。
「……それと、穴をひとつ」
藁を直す手が、止まった。
今度も、何も訊かれなかった。皺の奥の目が、オズワルドの顔を、しばらく見ていただけだった。
「土が凍ってるからね。掘るのは、春になってからだよ」
「急がねえよ」
オズワルドは、丘の端のほうへ目をやった。墓標の列が途切れたあたりに、冬の陽が、いちばん長く当たっている。
「場所は、あそこがいい。日当たりがな」
「……昼寝でもする気かい」
「まあな」
無精髭をさすって、付け足す。
「長え付きあいだ。穴のぶんくらい、まけちゃくれねえか」
「値切るんじゃないよ」
ぴしゃりと言われた。四十年、一度も、まけてもらったことがない。
懐から、手紙を出した。表には、汚い字で「寝坊助へ」とだけ書いてある。
――読むころには、さすがに起きてるだろう。
「寝坊助が来たら、渡してくれ。来なけりゃ、燃やしていい」
「寝坊助?」
「……弟子だ。来るかどうかは、わからねえ」
「来たって、あたしにゃ、見分けがつかないよ」
「寝癖のひでえ、黒髪の若造だ。……見りゃ、わかる」
婆さんは宛名を眺めて、ふんと鼻を鳴らし、手紙を前掛けの下にしまった。
オズワルドは、丘の端の日だまりへ、もういちど目をやった。
「名前は、彫るな。寝てるのを、起こされたくねえ」
「……勝手な爺さんだよ」
ぶつぶつ言いながら小屋へ入った婆さんが、壺をひとつ抱えて出てきた。押しつけるように、渡される。
「冬の蜜だからね。じき、固まるよ」
「湯につけりゃ、とける」
代金は、穴のぶんまで、きっちり取られた。
壺を腰の網に入れて、丘を下りかけたところで、オズワルドは足を止めた。
「春になっても戻らなかったら、谷の入り口を見に来てくれ」
婆さんの顔が、初めて動いた。
この町で谷といえば、ひとつしかない。北の、あたたかい雪の谷だ。入った者は、笑って帰ってきて、悲しいことを忘れている。土地の者は、誰も近づかない。
オズワルドは、北の山のほうを見た。
「……たぶん、寝てる」
婆さんは、長いこと黙っていた。
それから背を向けて、巣箱の藁に、また手をかけた。
「……風邪、ひくんじゃないよ」
丘を下りるあいだ、腰の網で、壺がことことと鳴っていた。
あの冬と、同じ音だった。あの冬の壺は、谷で割れた。
◆
峠の修道院に、ひと晩、宿を借りた。
谷から半日ほどのぼった、峠の上の修道院だ。白の高原へ出る前の、最後の宿だという。冬のあいだは峠の向こうへの道が雪で閉ざされるから、巡礼の姿はなかった。
谷の入り口の前は、来る途中で通り過ぎた。見なかった。先に、峠だ。
年老いた修道女が、黙って、豆のスープを出してくれた。
薄かった。
「……肉は、ねえのか」
「ございません」
修道女は、オズワルドの顔を見た。
「巡礼の方では、ありませんね」
「ああ。……見物だ」
黒鉄の聖印は、襟の内側に押しこんである。闇司祭が、光の教会の修道院で、薄いスープをすすっている。兄貴に聞かれたら、腹を抱えて笑われる。
咳をすると、修道女は何も言わずに奥へ消えて、毛布を一枚、余分に持ってきた。
日が傾くころ、門を出て、峠のいちばん高いところまで、雪を踏んでのぼった。
峠の向こうが、ひらけていた。
白い野だった。
雪をかぶっているのか、もとから白いのか、遠目にはわからない。どこまでも平らな白が、地平まで続いている。その果てに、光がひとつ、灯っていた。
星ではない。夕日でもない。
ただ、白い光だった。見ていると、それはゆっくりと、息をするように膨らんでは、またしぼんだ。
あの日、谷を呑んだ白に、よく似ていた。
日が、西の尾根に落ちた。
背中のほうから、夜が来た。谷が暗くなり、修道院の窓に、小さな明かりがともる。見上げれば、空の高いところに、星がひとつ、ふたつと瞬きはじめていた。
峠の向こうの空だけが、暗くならなかった。
乳を溶かしたように、白く濁ったまま。そちらの空には、星がひとつもない。
オズワルドは、その白を、長いこと見ていた。
谷じゅうで、ひとりだけ泣いた夜があった。
暗くて、よかった、と思った夜だ。
「……あれじゃあ、泣く場所もねえな」
喉の奥で、節が鳴った。
兄貴の子守唄だった。一行目。二行目。三行目。
その先に、もうひと行ある。
村の子供たちは知らない、もうひと行が。若いころ、師匠の前に兄貴と並んで座らされて、声をひそめて教わった行だ。
――いつか、届けてやらなきゃね。
兄貴は、ときどき峠のほうを見上げては、そう言っていた。
オズワルドは、白い空に向かって、口を開いた。
声には、ならなかった。
あの夜と、同じだった。節だけが、喉の奥でかすかに鳴って、それきりだった。
咳が、出た。
「……届かねえな」
遠い光は、何も知らないふうに、ゆっくりと息をしていた。
白い空は、ひと晩じゅう、暗くならなかった。
明くる朝、オズワルドは、谷へ下りた。年老いた修道女が、門のところで、黙って見送っていた。
◆
谷の入り口は、白かった。
両側から迫る尾根のあいだを、ひとつながりの白が埋めている。風の音もしない。足跡は、ひとつもない。
二十年あまり、溶けずにいる雪だった。
目を凝らすと、白い雪原の下に、屋根の形がいくつも、うっすらと浮いて見えた。
この下に、村が眠っている。茅葺きの屋根も、兄貴の家も、竈も。あの冬の日、どこの家の竈の上でも、蓋の下で昼寝をしていた鍋も。笑ったまま火に呑まれた、村の連中も。
オズワルドは、雪の上に、腰を下ろした。
あたたかかった。
春の陽だまりに座っているようだった。燃える家の前で、村の連中が目を細めていたのも、このあたたかさのせいだったのだろう。
「……来たぜ、兄貴」
雪が、囁いた。
――もう、泣かなくていい。
兄貴の声に、よく似ていた。あの日も、そう思った。
「……やらねえよ」
オズワルドは、鼻で笑った。
「こいつは、俺のだって、言ったろ」
指先に、火が、かすかに灯った。
藍と金を溶かしあわせたような、夕暮れの色の火。あのころより、ずいぶん細い。それでも、白には呑まれなかった。
その火を、パイプに移した。久しぶりの煙が、白い谷に、細くのぼっていく。
腰の網から、蜂蜜の壺を出した。
蓋を取って、匙でひと匙すくい、雪の上に垂らす。
とろりとした金色が、白の上に、小さく灯った。
「……ヘルミの分だ」
匙を、もういちど壺に差し入れかけて――止めた。
ひと匙じゃ足りないと、あの子は泣いた。ふた匙目で、ようやく泣きやんだ。
ふた匙目を垂らしてやるのは、いつも兄貴だった。
「……ふた匙目は、兄貴の役目だったな」
壺に蓋をして、そばの雪の上に置いた。
それから、仰向けに寝転がった。
雪が、背中にあたたかい。
兄貴の手みてえだ、と思った。頬に落ちてきたあの雪も、こんなふうに、あたたかかった。
空が、高かった。冬の終わりの薄い雲が、ゆっくりと流れていく。目の端で、雪の上のひと匙の蜂蜜が、陽を受けて光っていた。
寝坊助は、もう起きたか。
……あいつのことだ。まだ寝てるかもしれねえ。
剣、枕にしてるか。
あいつのシチューは、いつも、昼寝が足りねえ。こっちは、ひと晩寝かせてから食わせてたんだ。あいつは決まって先に寝ちまうから、知らねえだけで。
……教えずじまいだったな。まあ、いい。自分で見つけりゃいい。
あの晩の、路地裏のちび。あいつも、どこかで、腹いっぱい食ってりゃいいが。
行き場をなくして、抱えて歩くしかなかった鍋。あれを、底まで、からにしやがったガキども。
それから、ヘルミの泣き顔。
六年前、王都の白い門の向こうで見たあの子は、白い服を着て、笑っていた。
それでも、思い出すのは、いつも泣き顔だった。ひと匙じゃ足りないと口をへの字に曲げて、こっちへ両手を伸ばしてくる顔だ。
――これはね、泣きやませる歌じゃないんだ。
娘を抱いて夜ごと子守唄を歌いながら、兄貴は、そう言っていた。泣き疲れて眠るまで、そばにいてやる歌なんだよ、と。
パイプをくわえたまま、鼻歌で、節をなぞった。
一行目。二行目。三行目。
それから、一行目と同じ節を、もういちど。
背中の雪が、また囁いた。
――もう、泣かなくていい。
「泣いてねえよ」
左の肩が、もう、疼かなかった。この冬は、もう、降らねえらしい。
「……少しだけ、寝る」
目を閉じた。
まぶたの裏に、陽が透けていた。
夕暮れの色だった。夜になる、手前の色。
……悪くねえ。
◆
四年前の、冬の終わりのことだった。
春が来て、麓の町の雪が消え、丘の墓地の巣箱から蜂が飛びはじめたころ、墓守の婆さんは、頼まれていたとおり、谷の入り口を見に行った。
谷の外では、雪解けの水が、音を立てて流れていた。谷の雪だけが、溶けずに残っていた。
老人は、あたたかい雪の上で、眠っていた。
パイプを、くわえたまま。そばに、蓋をした蜂蜜の壺がひとつ。
ひどく、よく寝ている顔だった。
婆さんは、しばらく、その寝顔を見下ろしていた。
「……風邪、ひくんじゃないよって、言ったろうに」
それきり、何も言わなかった。
誰も、その昼寝を起こさなかった。
それが、オズワルドという男の、最後の昼寝だった。




