一人の少女
扉の前に立っていた少女は、静かに店内を見渡していた。
淡い青銀色の髪を、低い位置で一つに結んでいる。白いフード付きのマントの下には、動きやすそうな濃紺の探索服。腰には、白い鞘に収められた細身の剣が一本。
年齢は、ヴァンとそう変わらないように見えた。けれど、その立ち姿には、どこか不思議な落ち着きがある。
「……おい、あれ、もしかして」
「間違いねえ。あの白い鞘……エリシア・アストレインだ」
「本物かよ……!」
ヴァンの耳が、ぴくりと動いた。
エリシア・アストレイン。何度も聞いた名前だ。十七歳でティアⅥに到達した上級冒険者で、未知の土地を探索し、数々の発見を重ねてきた人物。
(自分と、一つしか違わないのに……)
いつか話を聞いてみたいと思っていた、その本人が目の前にいる。
周囲の視線を気にした様子もなく店内を見渡していたエリシアが、ヴァンと目を合わせた。
「あの、すみません」
「は、はいっ!」
「こちらに、バルドという方はいらっしゃいますか?」
「店主のバルドさんですね! 少々お待ちください!」
厨房へ声を張る。
「バルドさーん! お客様です!」
「ああ? 俺にか?」
顔を出したバルドに、エリシアは丁寧に頭を下げた。
「初めまして。エリシア・アストレインと申します。突然お訪ねして申し訳ありません」
「いや、構わねえよ。俺に何か用か?」
「少し、お聞きしたいことがありまして。以前、ティアⅤの冒険者として活動されていたと伺ったのですが」
「…………」
バルドの笑顔が固まった。
「……ん?」
ヴァンが首を傾げる。近くの席で、誰かが盛大にむせた。別の常連は突然天井を見上げ、その隣では、飲みかけの酒杯をそっと置く男がいる。
バルドがゆっくりと周囲を見渡すと、常連たちが一斉に目を逸らした。
「……お前ら」
「どうかなさいましたか?」
「い、いや、何でもねえ! 嬢ちゃん、そいつは昔の話だ!」
「はい。ですから、その頃のお話を――」
「まあまあ! せっかく来たんだ、まずは飯でも食っていけ! ヴァン、この子に水を持ってきてやってくれ!」
「は、はい!」
反射的に返事をして、けれど、足が動かなかった。
「……あの、バルドさん。今、ティアⅤって」
バルドの額に、うっすらと汗が浮かんだ。
「……聞こえたか?」
「はい。はっきりと。……バルドさんが、ティアⅤ?」
もう一度、バルドを見上げる。
大きな樽も軽々と運ぶし、重い鍋を片手で持ち上げることもある。でも、それは体が大きいからだと思っていた。毎日美味しい料理を作ってくれて、客と酒を飲んでは、豪快に笑っている。そんなバルドが。
「……ええっ!?」
「声がでけえ!」
「だ、だって! バルドさん、冒険者だったんですか!?」
店内が、一瞬静まり返った。
そして。
「ぶわっはっはっは!」
誰かが堪えきれずに笑い出した。
「お前、本当に知らなかったのかよ!」
「そりゃそうだろ! バルドがずっと黙ってたんだから!」
「いつ気づくかと思ってたんだがなぁ!」
「おい! お前ら!」
バルドが声を張り上げたが、もう遅かった。酒場中が笑い声に包まれている。
「えっ!? 皆さん、知ってたんですか!?」
「おう!」「もちろん!」「知らなかったの、お前だけだぞ!」
「えええっ!?」
昨日も、一昨日も、その前も。この人たちは、バルドが元冒険者だと知りながら、普通に酒を飲んでいたのだ。
ヴァンはゆっくりと、バルドへ振り返った。
「……バルドさん。なんで黙ってたんですか!?」
「あー……いや、その、なんだ。ほら、聞かれなかったからな」
「六年ですよ!? 六年も一緒に暮らしてるのに!」
「聞かれなかったもんは、言わなくていいだろ」
「そんな理屈、通りません!」
「はっはっは! もっと言ってやれ!」「バルド、観念しろ!」
「お前らも同罪だろうが!」
「俺たちは、いつかお前が自分で話すだろうと思って、待ってただけだぜ?」
「そうそう。こういうのは、本人の口から言うもんだ」
バルドが言葉に詰まる。
ヴァンは、少しだけ唇を結んだ。
「……ちょっとだけ、寂しいです」
バルドの表情が変わった。
「……悪かった。いつかは話そうと思ってたんだ。ただ、タイミングを逃しちまってな」
ヴァンはしばらくバルドを見つめて、ふっと肩の力を抜いた。
「……分かりました。許します」
「……そうか」
「ただし」
「ん?」
「いっぱい聞かせてください!」
ヴァンの目が、きらきらと輝き始める。
「未開拓の場所にも行ったことがあるんですか!? 古代遺跡とか! まだ誰も知らない魔物とか!」
「お、おい、ヴァン」
「どんな武器を使ってたんですか!? 魔法も使えたんですか!? それに、ティアⅤになるまで、どれくらい冒険したんですか!? やっぱり何十年も――」
「ヴァン!」
「はいっ!」
「……一度に聞くな」
常連たちが、また笑い出した。
「こりゃ、しばらく質問攻めだな!」「今まで隠してたツケが回ってきたんじゃねえか?」
「うるせえ!」
バルドは苦笑しながら、ヴァンの頭を軽く小突いた。
「ほら、仕事に戻れ。話は、仕事が終わったらな」
「本当ですか!? はい!」
ヴァンは嬉しそうに、厨房へ駆けていった。
その背中を見送って、バルドは小さく息を吐いた。
「……まったく」
「本当に、申し訳ありませんでした」
エリシアがもう一度頭を下げた。
「秘密にされているとは知らず……」
「いや、嬢ちゃんが悪いわけじゃねえ」
「……冒険がお好きなんですね。彼は」
厨房の入口を見つめて、エリシアが言った。
「ああ。昔から、ああいうやつなんだ」
「……いいお店ですね」
バルドが、嬉しそうに笑った。
「自慢の店だ。……ところで、どこで俺のことを聞いたんだ?」
「別の酒場です。古い探索記録について尋ねたところ、こちらを教えていただきました。昔の冒険に詳しい方がいる、と。以前はティアⅤだったとも」
「……余計なことまで教えてくれたもんだな」
「その方は、とても親切でした」
「……そうかい」
近くの常連が、また肩を震わせた。
「おい、笑うな!」
エリシアは二人を交互に見て、小さく首を傾げた。何がおかしいのか、分からないらしい。
バルドは苦笑して、空いた席を指さした。
「まあ、座れ。話はそれからだ」
ーーーー
しばらくして、ヴァンが水の入った杯を持って戻ってきた。
「お待たせしました!」
「ありがとうございます」
エリシアは丁寧に受け取った。
「ヴァンさん、ですよね?」
「はい! ヴァン・エンデリオンです!」
「改めまして、エリシア・アストレインです。よろしくお願いします」
「こ、こちらこそ、よろしくお願いします!」
勢いよく頭を下げると、エリシアが目を丸くした。
「あっ、すみません! あの、お名前は、何度も聞いたことがあります! 十七歳でティアⅥになったって!」
「……ありがとうございます」
エリシアは少し戸惑ったように答えた。
「僕、ずっとお話を聞いてみたくて! いろんな場所を探索されてるんですよね!? すごいです、本当に!」
ヴァンが満面の笑みを浮かべると、エリシアは、そんな彼をじっと見つめた。
「……先ほどは、驚かせてしまってすみませんでした。バルドさんのことです」
「あっ、いえいえ! むしろ、教えてもらえて嬉しかったです! バルドさんが冒険者だったなんて、全然知りませんでしたから!」
エリシアの表情が、わずかに和らいだ。
「……素敵ですね」
「え?」
「いえ。何でもありません」
そこへ、バルドがやってきた。
「さて、嬢ちゃん。それで、今日は何を聞きに来たんだ?」
エリシアの表情が、静かに引き締まった。
「……実は、探しているものがあるんです」
「探しているもの?」
「はい」
膝の上に置いた小さな鞄へ手を伸ばし、エリシアは一枚の古びた紙を取り出した。端が擦り切れ、何度も折り畳まれた跡がある。そこには、古い文字で何かが書かれていた。
バルドは紙を覗き込んだ。
「……こいつは」
その声が、少しだけ低くなった。
ヴァンも、思わず身を乗り出した。
「何が書いてあるんですか?」
「……ある湖についての記録です」
「湖……ですか?」
「はい。とても古い伝承に残されている場所なんです」
ヴァンの胸が、小さく高鳴った。まだ知らない場所。まだ見たことのない景色。それだけで、心が躍る。
「どんな湖なんですか?」
エリシアは、ゆっくりと顔を上げた。
「――星降る湖、と呼ばれています」
「……星降る、湖?」
その名前を、ヴァンは小さく繰り返した。聞いたことのない名前だった。けれど、何だかとても綺麗な響きだと思った。
星が降る湖。それは、いったいどんな場所なのだろう。
ヴァンは、エリシアの手元の古い紙から、目を離せなかった。




