星降る湖
「星降る湖……」
ヴァンは、もう一度その名前を口にした。星が降る湖。夜空から星が落ちてくるのだろうか。それとも、湖そのものが星のように輝いているのだろうか。頭の中に、見たこともない景色が広がっていく。
「あの! それって、どこにあるんですか!?」
身を乗り出すと、エリシアは少し驚いたように瞬きをした。
「……それが、分からないんです。古い伝承には残されているのですが、正確な場所は分かっていなくて」
「そうなんですか……」
肩を落としかけて、すぐに顔を上げる。
「じゃあ、まだ誰も見つけていないんですか?」
「私が調べた記録には、実際に辿り着いたという確かな証拠はありませんでした」
「……すごい」
「え?」
「だって、まだ誰も知らない場所が、どこかにあるかもしれないってことですよね!」
エリシアが、わずかに目を見開いた。
どんな湖なんだろう。本当に星が降ってくるのかな。古代文明の何かが関係しているのかもしれない。どんな生き物が暮らしているんだろう。疑問が、次々に浮かんでくる。
「……見てみたいなぁ」
ぽつりと、言葉が漏れた。
「……まだ誰も知らない、場所」
エリシアが、その言葉をなぞるように小さく繰り返した。
「あっ! す、すみません! また一人で盛り上がっちゃって……!」
「いえ」
首を振って、エリシアは窓の外へ視線を向けた。昼下がりの光が、青銀色の髪を淡く照らしている。
「俺も、名前くらいは聞いたことがあるぜ」
黙っていたバルドが口を開いた。
「本当ですか!?」
「お前は少し落ち着け」
「す、すみません!」
バルドは苦笑して、エリシアの手元の紙に目を落とした。
「酒の席で、年寄りが話してるのを聞いただけだ。行ったこともねえし、場所も知らねえ。ずいぶん古い書式の記録だが、俺に読み解けるのはそこまでだな」
「……そうですか」
エリシアは静かに紙を折り畳んだ。
「名前をご存じなだけでも、十分です。ありがとうございます」
その手つきは落ち着いていた。けれど、ヴァンには、ほんの一瞬だけ彼女の目が伏せられたように見えた。
(……残念、だったんだろうな)
「夜になれば、いろんな連中が集まる。ほかの冒険者にも聞いてやるよ」
「ありがとうございます。それでは、しばらく待たせていただいても?」
「おう、好きなだけいろ。ヴァン、一番いい席に案内してやれ!」
「はい!」
窓際の席へ案内して、ヴァンは皿の片付けに戻る。その背中を、エリシアが見送った。
「……冒険者なんですか? 彼は」
「いや。まだだ」
「まだ……」
「ずっと、なりたがってるんだがな」
「あんなに楽しそうに、冒険の話をするのに」
「ああ」
バルドは厨房の方へ目を向けた。
「好きだからって、簡単に踏み出せるもんでもねえ」
「……何か、理由があるんですか?」
バルドは、少しだけ黙った。それから、いつものように笑った。
「まあ、いろいろとな」
エリシアは、それ以上は尋ねなかった。
ーーーー
夜になると、酒場はいつも以上に賑わった。バルドは酒を注ぎながら、客という客に星降る湖のことを尋ねて回った。返ってくるのは「聞いたことがある気がする」「年寄りの作り話だろ」といった答えばかりで、手掛かりと呼べるものは何も出てこない。エリシアは、そのたびに静かに頭を下げていた。
ヴァンは店内を走り回りながら、時折、窓際の席へ目をやった。煮込みを一口食べて、少しだけ目を瞬かせる。それから、味わうように二口目を運んでいる。
(……気に入ってもらえたのかな)
少し嬉しくなった。
やがて客足が引き、最後の常連が「また明日な!」と手を振って帰っていく。店の中に、静けさが戻った。
「ヴァン、ちょっと仕入れ先に顔を出してくる。あとは頼んだぞ」
外套を羽織りながら、バルドが言った。
「えっ、今からですか? 片付けがまだ……」
「帰ってから俺がやる。お前は少し休んどけ」
バルドはエリシアに目を向ける。
「嬢ちゃん、ゆっくりしていけよ」
「はい。ありがとうございます」
「じゃあな!」
裏口から出ていく背中。扉の閉まる音が、やけに大きく響いた。
「…………」
「…………」
沈黙が落ちる。
(どうしよう。憧れの人と、二人きりだ……!)
自分の心臓の音が聞こえそうだった。何か話さなきゃ。でも、何を?
「あの……!」
勢いよく声を出してしまい、エリシアが顔を上げた。
「はい?」
「お、お口に合いましたか? その、煮込み……」
「はい。とても美味しかったです。温かい味がしました」
「よかった! バルドさんの煮込みは、僕も大好きなんです。六年間、ほとんど毎日食べてますけど、飽きなくて」
「……それは、すごいですね」
ヴァンの緊張が、ほんの少し解けた。せっかく、こんなすごい冒険者と話せるんだ。聞きたいことなら山ほどある。
「あの、エリシアさん! 今まで行った中で、一番驚いた場所って、どこですか?」
エリシアは、少し考えた。
「……たくさんあります。どこが一番かと聞かれると、すぐには答えられません。初めて見る景色も、不思議な生き物も……昔は、新しい場所へ行くたびに胸が躍っていました」
「昔は?」
聞き返すと、エリシアは視線を落とした。
膝の上で、両手を組む。
言葉を探すような間があった。
ヴァンは何も言わず、続きを待った。
「……今は、探しているものが見つかるかどうかばかり、考えてしまって」
寂しそう、というのだろうか。けれど、何かを諦めた人のようには見えなかった。
(……何を、探してるんだろう)
少し迷ってから、ヴァンは口を開いた。
「エリシアさんは、どうして、その湖を探しているんですか?」
エリシアの視線が、ゆっくりとヴァンへ向いた。
しばらく、何も言わなかった。それから、小さく息を吸う。
「……会いたい人がいるんです」
ヴァンは、はっとした。
誰なのか。どんな人なのか。どうして会えないのか。エリシアは、そのどれも口にしなかった。ただ、膝の上の両手が、少しだけ強く握られていた。
「……見つかるといいですね」
静かに言うと、エリシアが顔を上げた。
「その湖も、会いたい人も」
少しの沈黙のあと、エリシアは、ほんの小さく微笑んだ。
「……ありがとうございます」
それから、静かに続けた。
「星降る湖には、伝承があります。人が亡くなると、その魂は星へ還ると言われています」
ヴァンは、思わず窓の外を見た。夜空に、数え切れないほどの星が瞬いている。
「そして、星降る湖は、星へ還った魂が、地上へ降りてくる場所だと。その湖では、亡くなった人と、もう一度会うことができる。そんな伝承が残されているんです」
「…………」
亡くなった人と。もう一度、会える。
その言葉が、頭の中で何度も繰り返された。
六年前。ヴァンは、家の前で二人の帰りを待っていた。日が暮れ、星が見え始めても、そこを離れられなかった。
帰ってきた父は、いつも大きな手で頭をぐしゃぐしゃに撫でてくれた。
『もう、そんなにしたら髪がぼさぼさになっちゃうでしょう?』
そう言って、母が優しく髪を整えてくれる。
二人が帰ってきたら、話したいことがたくさんあった。素振りを、いつもより十回多くできたこと。新しく覚えた魔物のこと。
それなのに、あの日、二人は帰ってこなかった。
「……それって」
気づけば、口を開いていた。
「本当に、会えるんですか?」
エリシアはヴァンを見つめ、ゆっくりと首を横に振った。
「分かりません。伝承は、伝承です。本当にそんな場所があるのかも、会えるのかも、私には分かりません」
そこで言葉を切って、小さく、けれどはっきりと言った。
「だから、確かめたいんです」
ヴァンは、エリシアを見つめた。
分からない。それでも、彼女は探している。どこにあるのかも、本当に存在するのかも分からない湖を。
(……僕は)
昼間の光景が浮かんだ。冒険者ギルドの大きな扉。何度も足を運んで、一度も開けられなかった扉。
怖い。やっぱり、怖い。
それでも。
(……父さん)
(……母さん)
もう一度、会いたい。ずっと心の奥にしまい込んでいた願いが、少しずつ形を持ち始めていた。
「……ヴァンさん」
顔を上げると、エリシアがまっすぐこちらを見ていた。
「ヴァンさんにも、いらっしゃるんですか。会いたい方が」
ヴァンは、すぐには答えられなかった。
窓の外で、星が静かに瞬いている。
やがて、小さく、けれどはっきりと頷いた。
「……はい」




