開けられない扉
あと、一歩。
たった一歩、踏み出せばいい。
それだけのはずなのに。
ヴァン・エンデリオンは、目の前の大きな扉を見上げていた。
冒険者ギルド。冒険者を志す者なら、誰もが一度は訪れる場所だ。重厚な樫の木に鉄の補強が施され、何百人もの手が触れてきたせいで、取っ手のあたりだけが鈍く光っている。
両開きの扉の向こうから、大勢の話し声が漏れていた。
「おい、聞いたか? 北の遺跡で新しい通路が見つかったらしいぞ!」
「本当かよ! あそこはもう調査が終わったんじゃなかったのか?」
「崩れた壁の奥に、階段があったんだと!」
ヴァンの耳が、ぴくりと動いた。
新しい通路? 崩れた壁の奥に、階段?
それって、まだ誰も足を踏み入れていない場所があるってことじゃ……!
気づけば、扉の隙間に顔を寄せていた。どんな階段なんだろう。地下へ続いているのかな。古代文明の遺物が、まだ眠っているかもしれない。
「……あっ」
慌てて身体を引き、誰にも見られていないか周りを見回す。
「いけない、いけない……」
今日は話を聞きに来たんじゃない。
ヴァンは鞄から一枚の紙を取り出した。冒険者登録申請書。名前、年齢、住所。何度も確かめた項目に、間違いはない。あとは受付に出すだけだ。
「……よし!」
小さく頷いて、扉へ向かう。一歩。もう一歩。あと少し。
手を伸ばした、そのとき。
「おっと、悪いな!」
「わっ!」
勢いよく扉が開き、大柄な冒険者が出てきた。ヴァンは慌てて飛び退く。
「す、すみません!」
「いやいや、こっちこそ! 怪我はねえか?」
「はい! 大丈夫です!」
「ならよかった!」
男は豪快に笑って、仲間たちと通りへ歩き出した。
「しかし、今日の依頼は危なかったなぁ!」
「まったくだ! あんな場所に魔物の群れがいるとはな!」
「一歩間違えりゃ、全員帰ってこられなかったぜ!」
笑い声が、遠ざかっていく。
ヴァンは、その背中を見つめていた。
――帰ってこられなかった。
その言葉だけが、耳に残った。
六年前。十歳だったヴァンは、家の前で両親の帰りを待っていた。
出発の朝、父のごつごつした手が、くしゃりと髪をかき回した。
「いい子にしてろよ」
あの手の重さを、今でも覚えている。
けれど、帰ってきたのは、見知らぬほど疲れ切った顔の冒険者たちだけだった。
『……すまない。二人は、仲間を守るために……』
その先は、何度思い返しても曖昧だ。父と母がもう帰ってこないと告げられたことだけが、はっきり残っている。
それでもヴァンは、しばらく家の前に座っていた。
「ただいま」を、待っていた。
その肩に、そっと上着をかけてくれたのが、酒場の店主だった。何も聞かず、何も言わず、ただ「飯、食うか」とだけ言って。
あの日から六年、ヴァンはその人の店で暮らしている。
気がつくと、申請書を握る指先が白くなっていた。
もし、自分も帰ってこられなかったら。もし、魔物に襲われたら。もし、誰かを守ろうとして――。
足が、動かなかった。
さっきまで胸が躍っていたのに。扉の向こうへ行きたいと、確かに思っていたのに。
(……また、駄目か)
この扉の前に立つのは、もう何度目だろう。初めて来た日は、扉に近づくことさえできなかった。
それでも、できることは続けてきた。酒場の冒険者たちに剣を教わり、魔物の習性を書き留め、何人もの冒険者に模擬戦の相手をしてもらった。少しずつ、できることは増えていったのに。
この扉だけは、何度来ても開けられない。
「……情けないなぁ」
ヴァンは申請書を丁寧に折り畳んで鞄にしまい、踵を返した。背後で、ギルドの扉が開いたり閉まったりしている。他の冒険者たちにとっては、何でもない扉。ヴァンにとっては、どうしても越えられない境界だった。
しばらく歩いたところで、前方から賑やかな声が聞こえてきた。
「だから、本当だって! 谷の奥に、夜になると光る花が咲いてたんだよ!」
「そんな花、聞いたこともねえぞ!」
「俺だって初めて見たんだ! 青白く光って、風が吹くたびに星みたいに揺れるんだ!」
「……え?」
ヴァンの足が止まった。
夜に光る花? 青白くて、星みたいに揺れる? 魔力を蓄える種類なのかな。それとも、花そのものが光を生み出しているのか。
「……すごい」
自然と、笑みがこぼれた。どこの谷に咲いているんだろう。できることなら、自分の目で見てみたい。
怖い。でも、知りたい。行ってみたい。
自分でも、どうしてこんなに矛盾しているのか分からなかった。
「……あっ!」
街の時計塔が目に入った。
「いけない! 仕込みに遅れる!」
ヴァンは鞄を抱え直した。バルドさん、一人で始めちゃってるかも。
石畳の通りを駆け出す。冒険者ギルドとは、反対の方向へ。
いつもの酒場へ。自分の帰る場所へ。




