「日常とその崩壊」
「あの、空木悠さんですよね? ショートドラマに義弟役で出演してる」
女性の二人組が悠に声をかける。下北沢の事務所近く、映画を見た帰りだった。
軽めの会釈を交わし足早に事務所へ向かう。せめて愛想笑いくらいはするべきだったろうと、自省の念にかられた。
(ああいうのにはまだ慣れない……)
重めに垂らした前髪と黒ぶち眼鏡は変わらない。猫背はこの半年でだいぶ改善されたようだ。もう、あと一月も経てば悠も20歳になる。
エコー・エンターテインメントの発信したショートドラマは、結論から言えば大成功だった。
普段舞台を見ない視聴者からすれば劇団一ノ瀬の知名度は高いとは言えなかっただろう。
しかし、ショートドラマにこそ舞台で鍛え上げた芝居が映えた。セリフではなく、間の取り方や視線の誘導、仕草。舞台を構成する全ての技術がショートドラマというメディアにかっちりと嵌まったのだ。
事務所の扉を開けると響が書類の山に埋もれていた。
「それ、全部応募者の書類ですか?」
「……そう」
反応が薄い。奥の稽古場から巌が手招きしている。
「昨夜から新しい台本の選考で寝てないんだ。今は触れない方がいい」
巌がそう耳打ちした。
稽古場に入ると直哉とつむぎが真新しい台本を持っていた。
「次の台本決まったわよ」
「今度はサスペンスものだってよ。主演は──もちろん、俺だ」
直哉が上機嫌で言った。
「サスペンスもの……。出演者は四人でいけるんですか?」
「それがな、今回はとある芸能事務所との共同企画なんだ」
「STAR RIVERって知ってるだろ? あそこに所属している俳優が劇団一ノ瀬のOBなんだよ。その縁で合同企画が立ち上がったんだ」
「へえ。巌さんの……あれ? 直哉さんたしか、自分のことを一番弟子って言ってませんでした?」
「直哉は最後から数えた方が早いでしょ。私よりも後なんだから」
「”期待値が一番”の弟子ってことだからいいんっすよ!」
話を聞いていたつむぎが吹き出す。悠もつられて笑った。
***
『初めて触れた時、思ったより温かかった。 人間というのは、内側に熱を持っている。それが当たり前のことだと、みんな知っている。 でも僕は、その温かさがひどく異物のように思えた。熱を持つから、人は騒ぐ。熱を持つから、人は泣く。 冷たくなれば——静かになる。 僕はずっと、静かなものが好きだった。』
*
Nutsの台本に書かれた一文。新作のサスペンスもの。悠が演じるのは殺人鬼の少年だった。
新しい台本には、Nutsが書いた登場人物の設定や世界観などの参考資料が付属していた。
殺人鬼の少年。温かみが異物と感じられる。深く息を吸って、吐いた。
拍子抜けするほどあっさりと、悠の探していたものは見つかった。意識の奥底にある図書館。立派な肘掛けの付いた椅子に座り、ページを開く。
***
「有馬修一くんと真壁礼二くんだ。よろしくな」
エコーエンターテインメント事務所。STARRIVERから巌の弟子という二人がやってきた。
二人ともテレビドラマや映画でよく見る一流の俳優だった。
有馬修一は、40代前半。目元に知性の光る、端整な顔立ち。物腰の柔らかい男だった。
真壁礼二は有馬より少し若い。がっしりとした体格で、人懐っこい笑顔が印象的だった。
「つむぎ以外は初めましてかな。今日はよろしくお願いします」
有馬が丁寧に頭を下げる。その所作に、巌の稽古の痕跡を悠は感じた。
「悠くんは初めましてだね。ショートドラマ、見たよ」
真壁が悠に握手を求めた。大きな手だ。
「……ありがとうございます」
「義弟の役、良かった。特にラストの命がけで姉を助ける場面はドキドキさせられたよ」
褒め言葉のはずなのに、悠の耳にはうるさく聞こえた。熱が、温度がありすぎる。そう思った。
*
本読みが始まる。
直哉が演じるのは主人公で容疑者の青年。初めての主演に気合が入っていた。
有馬が演じるのは刑事。真壁はその相棒。つむぎは被害者の娘。巌が被害者。そして悠は——殺人鬼の少年だった。
巌の役は登場してすぐに死亡するので、響の事務仕事を手伝いに行った。
最初は淡々と進んだ。
有馬の声は安定していた。さすがに場数を踏んでいる。真壁も自然体で台本に入っていく。
直哉は容疑者役を丁寧に組み立てていた。セリフのニュアンス、感情の起伏、間の確認。
殺人鬼の少年が、刑事の尋問に答える場面。悠は台本を見ながら、ゆっくりと息を吸った。
「──覚えていますよ。全部」
声が変わった。
感情がなかった。怒りも、恐怖も、後悔も。ただ事実を述べるような、透明な声だった。
「温かかった。それだけが、妙に記憶に残っています」
有馬の手が、台本の上で一瞬止まった。
「なぜそんなことをしたんだ」
刑事の問い。
「なぜ、と言われても」
悠は台本から目を上げた。その瞬間。直哉の背筋が、冷たくなった。
悠の目が、悠の目ではなくなっていた。
感情がないのではない。感情という概念そのものが、存在していない目。そこにあるのに、何もない。石ころに似ていた。でも石ころとは違う。石ころは何もしない。この目は——何かを、しようとしている。
(……これは、まずい)
「なぜというのが、よく分からない」
悠の声が部屋に染み込んでいく。
「人間というのは、内側に熱を持っている。みんな、それが当たり前だと知っている」
有馬が台本を置いた。読み合わせではなく、本能的に。
真壁の顔からも笑顔が消えていた。
「でも僕には、その熱がずっと——異物に思えた」
悠が立ち上がった。台本を持っていない。
「熱を持つから、人は騒ぐ。熱を持つから、人は泣く」
一歩、踏み出す。
「冷たくなれば——静かになる」
「おい、新人!」
直哉が立ち上がった。
悠が振り返る。その顔が直哉を捉えた瞬間——直哉の全身に、鳥肌が立った。
見られている。だが、人間として見られていない。
「入り込みすぎだ!」
直哉が悠の肩を掴んだ。
「なぜあなたは息をするんですか」
悠の声は穏やかだった。それが余計に怖かった。
「なぜ食べるんですか。なぜ眠るんですか」
悠の手が直哉の腕を掴み返した。力が強い。普段の悠からは考えられない力で、直哉の腕を握りしめている。
「僕にとっては、同じことです。僕はずっと——静かなものが好きだった」
直哉が悠の両肩を掴んで、床に押さえ込もうとする。体格差がある。それでも悠は動こうとする。
「先生っ!」
叫んだ。事務所に届くよう大声で。有馬と真壁が一緒になって悠を抑え込む。
すぐに稽古場の扉が開き巌が入ってくる。響も一緒だ。事態を理解するのに5秒も必要なかった。
巌が悠の前に立った。何も言わなかった。ただ、悠の顔を、真っ直ぐに見た。
──バチン。
巌の手が、悠の頬を包んだ。叩いたのではない。両手で、顔を挟むように。
「悠」
低く、静かな声だった。
「お前の名前は、空木悠だ」
悠の呼吸が、乱れた。
視界の靄が、ゆっくりと晴れていくように、表情が戻っていく。
「……巌さん」
「ああ」
巌が手を離す。悠の膝から力が抜ける。それを直哉が支えた。
しばらく、誰も何も言わなかった。悠の荒い呼吸だけが、部屋に残っていた。
*
「……すみません、皆さん。びっくりさせてしまって」
悠が頭を下げた。声がまだかすれている。
「いや」
有馬は真壁を見た。真壁も有馬を見ていた。二人の間に、言葉にならない何かが通った。
有馬の口が、一度閉じた。何かを飲み込むように。それからもう一度、開いた。
「真壁」
「……ああ」
——どこか、痛みをこらえるような目だった。
「先生」
有馬が巌を見た。
「この子……」
言葉が、途切れた。
有馬の喉が、動いた。
「澄さんと、同じですか?」
部屋の空気が、固まった。
巌は動かなかった。
表情も、変わらなかった。
ただ——その目だけが、一瞬だけ、遠くを見た。




