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「変化」



巌の背中に、つむぎが額を寄せる。辛いとき、彼女はそうやって巌の体温を感じる。すると次第に、落ち着きを取り戻す。


巌が振り返り、つむぎと視線が交わる。二人は、引き寄せられるように身体を合わせた。


「はい、カット!」


響の合図で巌とつむぎの身体が離れた。


悠はその様子を見て、なぜか胸を撫で下ろしていた。


「これ、どうぞ」


そう言って悠はつむぎにタオルとスポーツドリンクを渡す。


「あら、気が利くようになったじゃない」


つむぎの言葉に悠は少し照れながら笑った。今までに感じたことのない、こそばゆい感覚だった。


少し後ろで巌が直哉から飲み物を受け取っていた。その視線に違和感があった。なにか、計っているような視線。


「これで20話分まで撮影が終わったわね」


「そうですね。友達から続きの台本送ってもらうよう言っておきますね」


「うん。編集作業もあるから、急がなくていいわよ。それと、Nutsさんだっけ、正式な契約もしたいから一度本人に会わせてくれる?」


「え? ええ、その……伝えておきます」


つむぎは乾いた声で返事をした。


「ところで──」


巌のよく通る声。響と、他全員の視線が集まる。


「あまり詳しく話を聞いていなかったが、会社として、劇団として、ショートドラマからどんな方向性を打ち出すのかを共有したいな」


「そうっすね。響さんのことだから何か考えがあるんですよね」


響は当然、といったように腕を組んで、「一度事務所に戻って話そう」と言った。


「あ、すみません。僕、バイトの時間が……」


腕時計を見ると18時を過ぎた頃だった。夜のシーンの撮影だったので遅くなってしまった。


「そっか、じゃあ悠くんにはあとでメールを送るわね」


そう言って、悠を除いたメンバーは事務所に戻った。



   ***



「プラットフォーマー? 芸能事務所じゃなくて?」


「芸能事務所であることは変わらない。劇団一ノ瀬もね」


響は全員の顔を見渡した。


「ただ、誰かの舞台を借りる時代は終わりにする。自分たちで作って、自分たちで流す。それだけよ」


「私たちだけってのは人手が足りんのでは?」


「募集する。Nutsみたいな書き手が、世の中にはまだいる。役者も同じ。悠くんみたいに、どこかに埋もれてる人間が、きっといる」


巌は腕を組み、わずかに息を吐く。


「……大勢を抱え込めば、資金が持たん」


「雇うんじゃないの、委託するの。台本を、役者を。採用されれば撮影回数によって委託料を払う」


間を置き、言葉を重ねる。


「副業でも良いし、力のある人なら専業にもできる。ブランクのある人のセカンドキャリアにもなれるわ」


直哉が腕を組んだ。


「つまり、俺たちが最初の土台を作って、埋もれてる奴らの居場所になるってことですか」


「そう。旗を立てる感じかな」


巌が、静かに口を開いた。


「スピード勝負だね」


「分かってるじゃない」


響は笑った。


「大手が気づく前に、一気にやる」


しばらく、誰も喋らなかった。


「俺たちで作る居場所、か」


直哉が、ぽつりと言った。


悪くない、という顔だった。



   ***



「なんか空木くん、雰囲気変わったね」


22時過ぎ。悠の働くコンビニ。店長が物珍しそうな声で言った。。


「そう、ですか?」


悠にその自覚はなかった。役者として経験を積むことによって変化があったのだろうか。


「ああ、こういっちゃなんだが……君って背景みたいに存在感がなかったじゃん? でも今は、明るいとまでは言わないけど、まっすぐな青年って感じがする」


40歳過ぎの店長は遠い目をしていた。自分の過去を思い出しているのだろう。


「好きな人でもできたか?」


「好きな人?」


「ああ、男の子の雰囲気が変わる時ってのは、だいたい女の子が原因だからね」


「いえ、そういったのは全然」


一瞬、つむぎの顔が浮かんだ。しかし、それは恋愛対象としてではなく、同じ劇団の、家族、姉弟、のような……存在。


──ズキッ。と、悠の頭が痛む。後頭部の、どこか深いところ。


(違う。そういうのじゃない。僕は、つむぎさんの弟ではない。それは、ただの役割──僕は、演じてるだけ)


コンビニの自動ドアが開く。店長が「いらっしゃいませ」と声をかける。もうその時には、男は悠の前に立っていた。


「君が一ノ瀬の劇団の新人かい?」


背の高い、爬虫類のような目をした壮年の男だった。


「私は愛城行人(あいしろ ゆきと)。君は……空木、悠くんか」


愛城は悠の胸の名札を見て言った。うすら寒くなるような声だった。


店内の音が遠のく。電子音も、冷蔵庫の駆動音も、すべてが水の底のように鈍くなる。


愛城は舐めまわすように、悠を観察した。心の奥深くまで侵入してくるような目だった。


「おいおい、ちょっと中身が歪んでいるねえ。面白い。深い、随分と深いところまで、魂を受け渡しているのか……」


独り言のように、愛城は続ける。頭痛。彼の声を聴くだけで、悠の頭に痛みが走る。


「役が、侵食している。いいね。”役割に侵食されたもの(ロールハッカー)”というわけか」


視界の端で、棚に並んだ商品が歪んで見える。整然と並ぶそれらが、まるで舞台の書き割りのように薄く感じられた。


(僕は……僕の名前は、さっき、この男が言った、僕の名前……)


愛城は大きく息を吸って、両手を悠の前で広げた。そして。


──バチン。


音が、やけに鮮明に響いた。


悠の頭から痛みが消えた。あの時、巌に白雪姫から引き剝がされたのと同じように。


呼吸が落ち着いてくる。いつも通りの、石の呼吸。世界の輪郭が、はっきりと形を取り戻す。


「空木悠くん。君には期待してるよ。どんどん、色々な役を降ろしなさい。そしていつの日か──」


眼鏡の奥で、その目が鋭く光った。


「一ノ瀬巌の役者人生を、終わらせてくれ」


愛城は、そう言って踵を返した。


その背中が、扉に消える直前。


悠には見えた。愛城の横顔に浮かんだそれは——どこか、悲しみに近い色をしていた。



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