「一ノ瀬巌という存在」
一ノ瀬巌は、いつの頃からか仮面を被るようになっていた。好々爺。ご隠居さん。そう呼ばれることが増えていった。
”舞台なんか、いくらでも作り出せる”
”権藤だろうが、愛城グループだろうが、誰にも邪魔はさせない!”
実の娘が言った言葉だ。何と頼もしい娘だろうか。
巌は、誰もいない稽古場に立った。役者の癖というのは、抜けないものだ。感情が動いた時、気づけば身体が動いている。
両腕を、静かに広げた。その腕の中に小さな光が四つ、入っていく。
胸の中に、顔が浮かんだ。響、直哉、つむぎ。最後に——悠。
全部、ここにいる。巌はゆっくりと腕を下ろした。
誰かに見られていたら、恥ずかしいことこの上ない。でも、誰もいなかった。
──だからいい。
仮面を被り続ける理由があった。だが、もうそれは必要ないのだと確信した。
(──さて、始めるとしようか)
***
「あんたから連絡貰えるとは思いませんでしたわ」
嘘臭い関西弁。はち切れそうなスーツのボタン。権藤稔は、嫌味な薄笑いを浮かべながら言った。
「娘が粗相をしたみたいで申し訳ない」
「ああ、ええんや。やっぱあんたは話が早いな」
権藤が煙草に火をつける。テレビ局の会議室は禁煙だったはず。しかし、それが許されてしまう力が権藤にはある。人格や倫理観といったものを除いてしまえば、この男は有能なのだ。
「会合は問題ないんや、俺が別のを納めといてやったからな。けどな、これは大きな貸しだということを認識してもらわなあかん」
「と、いうと?」
権藤は、顎でしゃくるようにして巌に近づいた。耳を貸せ、という仕草だった。
巌は、動かなかった。
数秒の沈黙。
折れたのは権藤だった。舌打ちを一つして、強引に距離を詰める。
「STAR RIVER、知っとるな?」
「新興の芸能事務所だね」
「……“だね”やないやろ」
権藤の目が細くなる。笑っているのに、笑っていない目だった。
「あんた、あそこに自分の弟子を回しとるやろが。有馬修一、真壁礼二、あそこで活躍しとるのは、みんなあんたの劇団出身やないか」
「劇団を離れたあとは、私が関知することではないよ」
煙草が短くなる。権藤は飲みかけの缶コーヒーに、その吸殻を捨てた。
「まあ、ええわ。あいつらを愛城グループの事務所に移籍させい。あんたの一言で済む話やろ?」
有無を言わせない目つき。
──だが。
「権藤さん」
巌が口を開いた。ただ、名前を呼んだだけだ。なのに権藤の手が、膝の上で止まった。
「ひとつ、確認していいか」
「ああ?」
巌は、ゆっくりと椅子から立ち上がった。動作は緩慢だった。なのに権藤の目には、気づいた時には立っていた、としか映らなかった。
座っていた男が、いつの間にか目の前にいる。その間の動作が、どこかに消えていた。
「”俺”が今日ここにきた理由だ」
巌の目が、権藤を捉えた。
その瞬間、権藤は奇妙な感覚に襲われた。
見られている、ではない。測られている、だ。値踏みでも観察でもなく、もっと根本的な何かを——品定めされている感覚。
まるで、標本になったような。
「そのツラを、俺の家族の前に二度と晒すなと——言いにきただけだ」
「……は?」
権藤の口から、間の抜けた声が漏れた。
目の前にいるのは、小柄な老人のはずだった。くたびれたカーディガンを着た、もう終わった役者。その認識が、今、音を立てて崩れていく。
「劇団員は、家族だ」
巌が一歩、踏み出した。
権藤の背中が、椅子にぶつかった。逃げたつもりはなかった。だが気づいた時には、身体が勝手に後退していた。
「響だけじゃない。つむぎも、直哉も、あの新人も——全部だ」
巌の口元が、わずかに動いた。笑みだった。
だがそれは、穏やかさとは全く別の種類の表情だった。人が他人に向ける笑みではなく、獲物の急所を見つけた時の、肉食動物のあの静けさに近い。
「つむぎに、ホステスの真似事をさせようとしたってな」
言葉が、権藤の腹に落ちた。重石のように、胃の底に沈んでいく。
「いい度胸だ」
権藤の鼓膜の奥で、何かが軋んだ。
巌の輪郭が、一瞬だけ滲んだ。
小柄な老人の影の向こうに、もっと大きな何かが透けて見えた気がした。
あり得ない。
だが権藤の身体は、それを感じていた。
「愛城グループに移籍させろ、だ?」
巌は権藤から視線を外した。興味を失ったように。それが、単純な暴力よりもずっと、恐ろしく感じた。
「できるだろうな。俺の一声で」
淡々とした口調だった。脅しではなく、ただ世間話でもするような。これで終わりだと、会議室の扉に手をかける。
「意味を分かって言ってるのか?」
巌は振り返らないまま言う。
「俺が動けば、お前の局に、誰一人出なくなる。それが出来るということだ」
権藤は、言葉を探した。
見つからなかった。
喉が、動かなかった。
「俺はな」
肩越しに、ほんの少しだけ首が動いた。
「お前みたいなのを、何百人と”消してきた男”だ」
権藤の喉から、短い音が漏れた。椅子が傾いた。
「……舞台の上で、だけどね」
巌の殺気が消える。扉が閉まった。その音は、やけに静かだった。
会議室に残されたのは、倒れかけた椅子と、動けない男、それだけだった。
***
「……おや、間に合わなかったか」
恐怖から冷めやらぬ権藤の前に、一人の男が現れた。ノックもなく、まるで扉など初めからなかったかのように入ってくる。
権藤よりも少し年上くらい。しかし、その容姿はまるで正反対の男だった。
長身、痩躯。白髪交じりの髪の毛はキッチリと後ろに流されている。フレームレスの眼鏡の奥は、爬虫類のような細い目。形容しがたい独特の気配。存在感がないのに──近寄りがたい。
「あ、愛城はん……」
権藤の掠れた声。その声にただならぬ緊張が籠っていた。
「その様子だと、一ノ瀬巌の弟子の件は失敗したようだね」
「ああ、面目あらへん。まさかあのロートル爺さんが逆らうなんて……」
愛城は権藤の目を見て言った。
「彼を舐めてはいけないよ。まあ、あなたにどうこうできる存在だとは思ってなかったから、まあいいや」
独特のリズム。抑揚のない声。
「いや、それにしても──」
権藤は椅子に座り直して懐から煙草を出取り出した。愛城に一本渡そうとするが手を上げて断られる。
「あの爺さんといい、コンビニの男といい、あの劇団には恐ろしい奴らばかりや」
「コンビニの男?」
「ええ、響にあんたんところの会合の件を伝えたあとコンビニに逃げ込まれて……そこにいたんや、たぶん劇団の新人やと思うが、あいつも一ノ瀬巌のような化け物やったわ」
権藤が思い返したように震える。愛城はしばらくそれを観察するようにして──。
「それは、どこのコンビニだ?」
静かに、底冷えするような声で尋ねた。




