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「一ノ瀬澄という役者」



稽古場に沈黙が流れる。


「……え、なに? 澄って、”お母さん”のこと?」


響が、有馬を見て言った。有馬は巌に伺うような視線を向けた。


しばらくして、巌はゆっくりと息を吐きながら言った。


「そうだな……もう、話してもいい頃だな」


巌から、いつもの飄々とした雰囲気は消えていた。代わりに、一人の父親としての顔が出ていた。


「響だけじゃない、他のみんなも聞いてくれ……特に、悠くんには非常に関係のある話だ」



もう、30年ほど前のことだった。


"天才"という肩書を欲しいままにした役者がいた。


後に巌の妻となり、響を産んだ女性──それが、澄だった。


当時、巌は売れない舞台役者だった。売れない。しかしその実力は誰もが一目を置いていた。


そんな彼に、学生時代の後輩が澄を紹介したのだ。その後輩は澄の弟だった。


「学生時代の先輩に凄い役者さんがいると聞いて」


弟に連れられた澄はそう言った。


巌は驚愕した。世間を騒がせている天才が目の前に現れたのだから当然だ。


テレビや舞台で見る印象よりもずっと小柄な女性だった。


地味な格好だが、その瞳が──部屋の空気を、静かに塗り替えていた。


役者として感じたのは、畏怖と敬意。一人の人間として感じたのは──恋だった。



澄の芝居は、巌が見てきたどの役者とも違った。


舞台に立てば、客席の空気が変わり、言葉を発すれば、観客の呼吸が揃った。


泣けば、見ている全員が泣き。笑えば、劇場が明るくなった。


だが、楽屋に戻ってくる澄は、いつも少しだけ遠かった。


「大丈夫か?」


「ええ。ただ……少し、時間をください」


役から戻ってくるのに、時間がかかるのだと、澄は言った。


舞台が大きくなるほど、その時間は長くなっていった。


巌は気づいていた。澄の芝居が、常人のそれとは根本的に違うことを。降りてくる人格の密度が、澄自身を少しずつ削っていた。


それでも──止めなかった。


彼女自身が、舞台に立つことを誰よりも欲していたから。そして巌は、そんな澄を愛していたから。



結婚して数年が経った頃。思いがけない話が舞い込んだ。


海外の映画監督からの、直接オファーだった。それは世界規模の大作。主演に指名されたのは、澄だった。


撮影地は遠く、長期にわたる。


「行くべきだ」


巌は言った。迷いなく。


「澄のための舞台だ。世界が、待っている」


澄は、しばらく響の顔を見ていた。


それから、巌の手を握って、頷いた。


「一緒に、行ってくれますか?」


「当然だよ」


二人で、渡った。


生まれて間もない響は、澄の弟と両親が預かることになった。



リハーサルは順調だった。


澄の才能は、言語も、文化も、関係なかった。現地のスタッフが、口々に言った。この女優は何者だ、と。


だが巌は、撮影が進むにつれて、澄の様子が変わっていくのを感じていた。


楽屋に戻る時間が、長くなった。


食事の量が、減った。


夜中に目が覚めると、澄がベッドの端に座って、窓の外を見ていた。


「澄」


「……ごめんなさい。起こしてしまって」


「剝がれないのか、今回の役は」


「……ええ」


澄は微笑んだ。だがその微笑みは、澄のものではなかった。


巌は、その夜、澄の手を握ったまま、朝まで眠れなかった。


(止めるべきか)


何度も、考えた。


だが。


本番前夜。澄が言った。


「巌さん、私ね、この役が好きなんです。怖いけど。でも──この役の見ている世界が、好きなんです」


澄の目には、恐怖と歓喜が同居していた。


巌は、何も言えなかった。



本番当日。


澄は、完璧だった。


カメラの前に立った瞬間から、澄はそこにいなかった。役だけがいた。それでいて、スクリーンの中に閉じ込めるには眩しすぎる何かが、そこにあった。


監督が、呼吸を忘れていた。


スタッフが、息を呑んでいた。


巌は、モニターの前で、澄を見ていた。


──見たい、だが、見たくない。


最後のシーン。澄は、崖から身を投げる。当然下にはネットが張られており、事故が起こる可能性は、万に一つもなかった。


だが、事故は起きた。いや、事故ではない。澄は崖下のネットに落ちた後、さらにそこから、”自ら落ちに行った”のだ。


巌はそれをずっと見ていた。足が動かなかった。あまりにも、美しかった。


そして、澄はもう、戻ってこなかった。



澄の弟が飛んできたのは、三日後だった。


「なぜ、止めなかったんですか!」


義弟の叫びに、巌は答えられなかった。


「あなたがいれば。一緒にいれば、姉さんが役に飲まれる前に、止められたはずだろう!」


義弟の声は、震えていた。怒りではなかった。悲鳴だった。


「……すまない」


巌が言えたのは、それだけだった。


弟は、それきり巌を見なかった。


踵を返して、歩き去った。


その背中が、空港の人混みに消えるまで、巌は動けなかった。


それから三十年。


二人の間に、言葉はなかった。



稽古場に、沈黙が満ちていた。


巌が語り終えた後、誰も口を開かなかった。


母親の顔を、響は知らない。写真でしか見たことがない。それでも──今、初めて、その人が響の胸の中に降りてきた気がした。


有馬と真壁は、目を伏せていた。二人にとって、澄は姉のような存在だった。


直哉は、巌の横顔を見ていた。いつもと変わらない顔だった。それが──今日だけは、途方もなく重く見えた。


つむぎは、静かに目を閉じていた。


悠は。悠だけが、俯いたまま、動かなかった。


「……悠くん」


響が呼んだ。


返事がなかった。


「おい」


直哉が呼んだ。


悠は、ゆっくりと顔を上げた。


その目を見て、直哉は息を呑んだ。


感情がなかった。


怒りも、悲しみも、恐怖も。


響たちと出会う前の、石ころの目だった。


「僕は──」


悠の言葉を遮るかのように、稽古場の扉が、開いた。


ノックはなかった。


長身の影が、入口に立っていた。


フレームレスの眼鏡。爬虫類めいた細い目。存在感がないのに、目が離せない。


「やあ、久しぶりだね。”義兄さん”」


愛城行人が、そこにいた。



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