「一ノ瀬澄という役者」
稽古場に沈黙が流れる。
「……え、なに? 澄って、”お母さん”のこと?」
響が、有馬を見て言った。有馬は巌に伺うような視線を向けた。
しばらくして、巌はゆっくりと息を吐きながら言った。
「そうだな……もう、話してもいい頃だな」
巌から、いつもの飄々とした雰囲気は消えていた。代わりに、一人の父親としての顔が出ていた。
「響だけじゃない、他のみんなも聞いてくれ……特に、悠くんには非常に関係のある話だ」
*
もう、30年ほど前のことだった。
"天才"という肩書を欲しいままにした役者がいた。
後に巌の妻となり、響を産んだ女性──それが、澄だった。
当時、巌は売れない舞台役者だった。売れない。しかしその実力は誰もが一目を置いていた。
そんな彼に、学生時代の後輩が澄を紹介したのだ。その後輩は澄の弟だった。
「学生時代の先輩に凄い役者さんがいると聞いて」
弟に連れられた澄はそう言った。
巌は驚愕した。世間を騒がせている天才が目の前に現れたのだから当然だ。
テレビや舞台で見る印象よりもずっと小柄な女性だった。
地味な格好だが、その瞳が──部屋の空気を、静かに塗り替えていた。
役者として感じたのは、畏怖と敬意。一人の人間として感じたのは──恋だった。
*
澄の芝居は、巌が見てきたどの役者とも違った。
舞台に立てば、客席の空気が変わり、言葉を発すれば、観客の呼吸が揃った。
泣けば、見ている全員が泣き。笑えば、劇場が明るくなった。
だが、楽屋に戻ってくる澄は、いつも少しだけ遠かった。
「大丈夫か?」
「ええ。ただ……少し、時間をください」
役から戻ってくるのに、時間がかかるのだと、澄は言った。
舞台が大きくなるほど、その時間は長くなっていった。
巌は気づいていた。澄の芝居が、常人のそれとは根本的に違うことを。降りてくる人格の密度が、澄自身を少しずつ削っていた。
それでも──止めなかった。
彼女自身が、舞台に立つことを誰よりも欲していたから。そして巌は、そんな澄を愛していたから。
*
結婚して数年が経った頃。思いがけない話が舞い込んだ。
海外の映画監督からの、直接オファーだった。それは世界規模の大作。主演に指名されたのは、澄だった。
撮影地は遠く、長期にわたる。
「行くべきだ」
巌は言った。迷いなく。
「澄のための舞台だ。世界が、待っている」
澄は、しばらく響の顔を見ていた。
それから、巌の手を握って、頷いた。
「一緒に、行ってくれますか?」
「当然だよ」
二人で、渡った。
生まれて間もない響は、澄の弟と両親が預かることになった。
*
リハーサルは順調だった。
澄の才能は、言語も、文化も、関係なかった。現地のスタッフが、口々に言った。この女優は何者だ、と。
だが巌は、撮影が進むにつれて、澄の様子が変わっていくのを感じていた。
楽屋に戻る時間が、長くなった。
食事の量が、減った。
夜中に目が覚めると、澄がベッドの端に座って、窓の外を見ていた。
「澄」
「……ごめんなさい。起こしてしまって」
「剝がれないのか、今回の役は」
「……ええ」
澄は微笑んだ。だがその微笑みは、澄のものではなかった。
巌は、その夜、澄の手を握ったまま、朝まで眠れなかった。
(止めるべきか)
何度も、考えた。
だが。
本番前夜。澄が言った。
「巌さん、私ね、この役が好きなんです。怖いけど。でも──この役の見ている世界が、好きなんです」
澄の目には、恐怖と歓喜が同居していた。
巌は、何も言えなかった。
*
本番当日。
澄は、完璧だった。
カメラの前に立った瞬間から、澄はそこにいなかった。役だけがいた。それでいて、スクリーンの中に閉じ込めるには眩しすぎる何かが、そこにあった。
監督が、呼吸を忘れていた。
スタッフが、息を呑んでいた。
巌は、モニターの前で、澄を見ていた。
──見たい、だが、見たくない。
最後のシーン。澄は、崖から身を投げる。当然下にはネットが張られており、事故が起こる可能性は、万に一つもなかった。
だが、事故は起きた。いや、事故ではない。澄は崖下のネットに落ちた後、さらにそこから、”自ら落ちに行った”のだ。
巌はそれをずっと見ていた。足が動かなかった。あまりにも、美しかった。
そして、澄はもう、戻ってこなかった。
*
澄の弟が飛んできたのは、三日後だった。
「なぜ、止めなかったんですか!」
義弟の叫びに、巌は答えられなかった。
「あなたがいれば。一緒にいれば、姉さんが役に飲まれる前に、止められたはずだろう!」
義弟の声は、震えていた。怒りではなかった。悲鳴だった。
「……すまない」
巌が言えたのは、それだけだった。
弟は、それきり巌を見なかった。
踵を返して、歩き去った。
その背中が、空港の人混みに消えるまで、巌は動けなかった。
それから三十年。
二人の間に、言葉はなかった。
*
稽古場に、沈黙が満ちていた。
巌が語り終えた後、誰も口を開かなかった。
母親の顔を、響は知らない。写真でしか見たことがない。それでも──今、初めて、その人が響の胸の中に降りてきた気がした。
有馬と真壁は、目を伏せていた。二人にとって、澄は姉のような存在だった。
直哉は、巌の横顔を見ていた。いつもと変わらない顔だった。それが──今日だけは、途方もなく重く見えた。
つむぎは、静かに目を閉じていた。
悠は。悠だけが、俯いたまま、動かなかった。
「……悠くん」
響が呼んだ。
返事がなかった。
「おい」
直哉が呼んだ。
悠は、ゆっくりと顔を上げた。
その目を見て、直哉は息を呑んだ。
感情がなかった。
怒りも、悲しみも、恐怖も。
響たちと出会う前の、石ころの目だった。
「僕は──」
悠の言葉を遮るかのように、稽古場の扉が、開いた。
ノックはなかった。
長身の影が、入口に立っていた。
フレームレスの眼鏡。爬虫類めいた細い目。存在感がないのに、目が離せない。
「やあ、久しぶりだね。”義兄さん”」
愛城行人が、そこにいた。




