「悠と直哉」
「行人……お前、なんでここに」
「なんで? 決まってるじゃないか。劇団の事務所に来たんだ、出演依頼だよ。そこにいる劇団員たちにね」
行人の視線が、つむぎ、直哉、そして悠に送られる。そこでふと、困惑を見せた。
「なんだ、この間見た時とは別人だな。悪い意味で」
足音がない。いつの間にか悠の目の前に立っていた。誰も動けなかった。
「空っぽ……ではないな。何か入ってることには違いないが──」
「おい、悠から離れろ!」
直哉が行人の腕をつかんだ。二人の間に割って入る。
「先生の義弟だかなんだか知らねえが、この場所で勝手なことするんじゃねえ」
行人の目が大きく開いた。まるで初めて見る虫を観察するような、不気味な視線だった。
「君は……凄いな」
「はあ?」
「いや、なんというか、ここまで”凡庸”な人間は見たことがない。君は自分のことを何でもできる器用な奴と思っていないか? 違うぞ、何をやっても底が知れているだけだ」
直哉の腕から、力が抜ける。行人は虫を払うように直哉の手をどけた。
「ああ、そこの二人。ちょうどいいや、君らにはこれを渡しておこう」
愛城行人の手に二枚の封筒があった。何処から取り出したのか分からない。いつの間にか手に持っていた。
その封筒を有馬と真壁に渡した。二人とも言葉が出なかった。
「おい、行人!」
巌が叫んだ。ようやく、その目が巌に向けられた。
「ああ、その声、その顔。むかつくなあ。まだくるべきじゃなかったか……」
行人はそう言うと一瞬だけ響に視線を走らせた。
「帰るよ。期待外れだった。じゃあね」
誰も何も言えなかった。天災には逆らえないかのように。ただ、過ぎ去っていくのを見送った。
*
「なんだったの……今の」
長い沈黙の後、響が言った。
「彼が、権藤の言っていた愛城グループのトップだよ」
巌はひどく苦しそうに言った。
「そして、響の母親、一ノ瀬澄の実弟。つまり、お前の叔父になるな」
「あれが……」
響は自分がどういうリアクションをすればよいのか定まらなかった。
「直哉、悠、大丈夫なの?」
つむぎが心配そうに声を上げた。
有馬に肩を借りながら直哉は立ち上がる。言葉が出てこない。愛城に言われた言葉が、まだ腹の底に沈んでいるようだ。
「今日は、いったん解散しよう。有馬、真壁、すまんな。社長にはあとで連絡しておくよ」
巌はそう言って稽古場を出た。
***
それから一週間、悠は事務所に来なかった。
響の書類の山は増えている。直哉の台本の付箋も増えている。つむぎのPCの画面も光っている。
ただ、悠の席だけが、空いていた。
「……ほっといていいんですか」
直哉が響に聞いた。
「ほっとくしかないでしょ」
響の声は平坦だった。しかしその目は、一度だけ悠の席を見た。
巌は何も言わなかった。台本を開いたまま、ページをめくらなかった。
*
深夜のコンビニ。悠はレジの中に立っていた。
前髪が目の上まで垂れている。伊達メガネのフレームが、視界の下端に薄く映っている。
スキャンして、袋に入れて、お釣りを返して。それだけでいい。
客はまばらで、有線から流れる無難なポップスが店内に溶け込んでいる。
──石ころには、声がない。
呼吸が、静かだ。
誰も悠に話しかけてこない。誰も悠を見ない。誰も悠に気づかない。
──だから、安全だ。
自動ドアが、開いた。
「よお」
直哉だった。
私服姿。ジーンズに白いパーカー。買い物に来たわけではないことは、一目で分かった。
悠はレジの中から、直哉を見た。
「……いらっしゃいませ」
「それだけか」
「何か、お買い求めですか」
「お前と話しに来た」
「……仕事中です」
「分かってる。終わるまで待つ」
直哉はそう言って、雑誌コーナーの前に立った。雑誌を手に取る。読んでいない。背表紙を眺めているだけだった。
*
コンビニを出たのは、二時間後だった。
自動販売機の前。直哉が缶コーヒーを二本買って、一本を悠に渡した。
「飲め」
「……ありがとうございます」
そう言って悠はコーヒーを一口飲んだ。何の味もしなかった。
二人で並んで、缶を持ったまま、しばらく何も言わなかった。
夜風が吹いた。
「愛城に言われたこと」
直哉が口を開いた。
「凡庸だって。何をやっても底が知れてるって」
悠は答えなかった。
「たぶん、合ってるんだろうな」
直哉は缶コーヒーを一口飲んだ。
「俺には才能がない。稽古すればするほど、それが分かる。先生の横に立つたびに、分かる。お前の目が変わる瞬間を見るたびに、分かる」
「……何が言いたいんですか? それは僕と関係がない」
直哉が悠を見た。その目の前で掌を叩いた。
バチン、と派手な音が鳴った。
直哉が悠の目を正面から見つめた。
「あれ? 変わらねえな。先生はこうやってたんだけど」
両手を大きく広げた。
バチン。
さらに大きな音が鳴った。
「ちょっと、うるさ──」
「お前が石ころに戻るのは、俺が許さない」
悠は、直哉の顔を見た。
「なんで、ですか」
「才能がない俺が言っても説得力ないかもしれない。でも俺は、本物になりたくて劇団一ノ瀬にきたんだ。先生の舞台を見た時みたいに、息ができなくなるような瞬間を、俺自身が見せたくてここにいる」
直哉はそう言って頭を掻いた。その仕草がどことなく巌に似ていた。
「お前が石ころになったら、それが見れなくなる。だから許さない。それだけだ」
「なりたいなら勝手になればいいじゃないですか、僕には関係がない」
「はあ? ライバルが石ころじゃ張り合いがないだろう」
静かな声。
「ライバル……僕が?」
悠は、缶コーヒーを握ったまま、下を向いた。
澄の話が、頭の中にある。役に飲まれて、戻ってこなかった女優の話が。
自分も同じだと思った。役者になれば、いつかそうなると思った。だから石ころに戻った。石ころなら、安全だ。誰にも見られない。誰も傷つかない。
でも。
──石ころには、声がない。
石ころは、芝居ができない。
だから安全だ。
(──安全。それは、何だ?)
悠は、ゆっくりと顔を上げた。
「……直哉さんは」
「ん」
「愛城さんに、凡庸だと言われて。辞めてやるとか考えなかったんですか?」
「なんで?」
「いや、だって……そんなこと言われたら自信を無くすじゃないですか」
「自信? 俺は端からそんなもん持ってねえよ」
まっすぐな言葉。直哉は出会った時からずっと、そういう男だった。
「だから俺は一人じゃダメなんだよ。お前や、つむぎさんや響さん。もちろん先生も。ライバルが居なきゃ燃え上がれないだろ」
「それだけですか」
「それだけだよ」
直哉は、缶コーヒーを飲み干した。自動販売機の横のゴミ箱に、放り投げる。乾いた音を立ててアスファルトを転がった。
「お前はなんで響さんについてきたんだ。芝居がやりたいからじゃないのか?」
それを拾い上げてゴミ箱に入れた。
「僕は、ただ……」
──ただ。
その後の言葉が出てこなかった。
「僕はなんで役者になろうと思ったんだ」
声が漏れる。
「響さんにスカウトされたからだろう」
「コンビニで、石ころのような老人以外を降ろして。その時覚えた感触。それを確かめたくて……」
「感触?」
「どこか懐かしい。昔は持っていたもの」
「昔、って?」
「中学の時。石ころになる前」
悠の声が、かすれた。
「あの頃は……いじめられて。それで石ころになって、そうしたら──」
「怖いという思いが無くなった」
直哉の言葉に、悠は顔を上げた。
「……そう、です」
「それだよ」
「え?」
「お前が探してる感触。それ、感情じゃないか」
悠の頭の中で、何かが止まった。
感情。
石ころになってからずっと、それを消してきた。消えた方が楽だった。消えている方が安全だった。だから消し方を覚えた。いつの間にか、消し方しか覚えていなかった。
「コンビニで権藤を追い払った時」
直哉が続ける。
「お前、膝ついて震えてたって、響さんから聞いた」
「……はい」
「怖かったんだろ」
「──はい」
「怖かった、っていうのは、感情だよな」
悠の喉が、動いた。
「お前が役を降ろせるのは、お前の中に器があるからだ。でも普段はその器を、感情のない石ころで満たしている」
「それが──安全だから」
「コンビニで別の人物を降ろした時、そいつは強い感情を持っていた。違うか?」
「あの時に感じたのは……怒り?」
「そしてそいつが器の中から消えた時、残ったのは誰だ?」
「……分からないです」
「バカ言ってんじゃねえ。残ったのは、空木悠、お前自身だろう」
悠は、しばらく黙った。
夜風が、また吹いた。
「なんでそんなことが分かるんですか。僕自身がよく分かってないのに」
直哉は少しだけ間を置いた。それから、鼻で笑った。
「才能がないから、見るしかないんだよ。お前のことも、先生のことも。ずっと、見てる」
悠は、缶コーヒーを一口飲んだ。もう冷めてしまっていた。
でも──今度は、ちゃんと冷たいと感じた。
悠は、直哉を見た。
整った顔に、気の強そうな表情。でも今夜は、その目がどこか違った。勝ち負けじゃない場所で、ただこちらを見ていた。
「……直哉さんは、僕のことが嫌いだと思ってました」
直哉は一瞬だけ目を細めた。
「嫌い? そんな奴を二時間も待つか」
「才能がある相手をライバルにするのは、しんどくないですか」
「お前のこと、今嫌いになった」
直哉が、悠の頭に手を置いた。乱暴に、ぐしゃっと。
「才能があるのに石ころやってる奴に、俺が負けたら洒落にならないだろ。だから余計に許せない。──それが、ライバルってことだ」
悠の頭の上に置かれた手が、離れた。直哉はジャケットのポケットに両手を突っ込んで、そっぽを向いた。
石ころになる前。役を降ろす前。空木悠という人間が、何かを欲しがっていた頃。
何が欲しかったのか、少しだけ思い出した。答えは目の前にあった。




