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「一ノ瀬響の決意」



再び悠が目を開けた瞬間。直哉とつむぎは、同時に言葉を失った。


森の匂いを感じた。湿った腐葉土と、朝露をまとった草木の、冷たくて青い匂いが。


つむぎは、足元を見た。苔むした石畳の欠片が見えた気がして、慌てて顔を上げた。


そこに、少女がいた。


白雪の肌。伏せられた睫毛。血の色をした唇。


蛍光灯の白い光が、いつの間にか木漏れ日に変わっていた。葉の隙間から差し込む金色の光が、少女の頬に斑模様を落としている。


風が吹いた。


窓は閉まっていた。でも確かに、どこかから風が来て、少女の黒髪をかすかに揺らした。


少女は二人に向かって、優雅に頭を垂れた。


王宮の礼儀作法で育てられた者だけが持つ、あの所作で。


二人の頭の中に、同じ言葉が浮かんでいた。


(──白雪姫)



──バチンッ!


弾かれるような音で悠の意識が戻った。


「よし。そこまでにしよう」


一ノ瀬巌が言った。彼が手を叩いた音だった。


コンビニの時と比べ、疲労が少ない。すぐにいつも通りの、静かな背景の呼吸に戻った。


「メソッド演技法(アクティング)……とはまた違うな。役柄の内面を捉えるというより、降りてくる感じだろう?」


「え……はい」


「今、どんなイメージをしたんだ?」


巌の目は、好奇心にあふれた少年のようだった。


悠は正直に答えた。気持ち悪いと思われるかもしれない。だが、巌の目にはそういう色は感じられなかった。


「脳の奥に、僕が今まで読んだ本が収められている書庫があるんです。そこから、本の登場人物がそのまま降りてきて……」


巌はしばらく、悠の話を黙って聞いていた。そして。


超共感能力(エンパス)というやつだな。小説の登場人物以外にも何かあるか?」


「……強いて言うなら、音と匂い、ですね」


「HSPの特性もあるのか……」


ここで響が口を挟む。


「何? 悠くんって超能力者なの?」


「それはESPな。HSP──これは病気や超能力じゃない。持って生まれた気質だな」


「ふん。つまりは努力一つなしに、芝居でもなんでもできちまう天才ですよって話ですか」


直哉がふてくされたように言った。


「いや、エンパスもHSPも心理学的な用語だからな、天才と言うには違うだろう」


それに、と巌は付け加える。


「良いことばかりではない。共感力が高いというのは、なかなか生き辛いもんだぞ」


悠は思い出していた。中学時代、いじめを受けていたこと。あの時からだ、やたらと匂い、音が近くに感じるようになったのは。廊下のワックス、昇降口の下駄箱、上履きで蹴られる音。もう何年も、耳から離れてくれない。


「これは、治るものなのでしょうか」


「うーん。さっきも言った通り、病気ではないから治るものじゃない。ただ、付き合い方を考えれば、きみの感じる苦痛を和らげることができるかもしれない」


巌は直哉とつむぎを見た。直哉はそっぽを向き、つむぎは目を伏せた。巌は肩をすくめて、短い溜息を吐く。


「芝居……か。うん、向いてるかもしれないな。空木悠くん、私が君を一流の役者にすると約束しよう。一緒に、この劇団を盛り上げていこうじゃないか」


巌が手を大きく広げて言った。それが妙に”芝居がかっていて”、悠は目を細めて──笑った。



「あ、そうそう。もう舞台は出れないと思うからよろしくね」


響のあっけらかんとした声で、事務所の空気にヒビが入った。


「響さん、どういうことっすか?」


直哉が問い詰める。


「権藤さん、知ってるでしょ? 舞台の協賛になってるテレビ局の」


「ああ、あの厭らしい目つきのおじさんですか」


「権藤さんがどうしたんだ?」


「ちょっとね、無理難題を言ってきたのよ。舞台のスポンサーとの会合につむぎちゃんを出せって」


その言葉に一瞬、つむぎがピクリと反応した。すぐに冷静な表情を取り戻したが、その表情に一瞬だけ恐怖が浮かんでいたのを悠は見逃さなかった。


「スポンサーって、もしかして愛城(あいしろ)グループの?」


「そう。あそこの役員たちが集まる会合。会合というよりもはっきり言って、ただの乱痴気騒ぎの場ね。だからそんなところにうちの子を出せないって断ったのよ」


悠と響が出会ったコンビニ。そこに乗り込んできた権藤。その経緯を、悠は初めて知った。


「なんで断るんですか? 私だったら問題ないですよ」


つむぎは何でもないように言う。


「冗談じゃないわ。あなたは役者なの、うちの子にそんなマネはさせられない」


「響さん、グッジョブです」


直哉が親指を立てて言った。


「でも……それじゃ劇団一ノ瀬は」


つむぎが俯きながら呟く。彼女の心に、安堵と自責の念が共存している。


巌は何も言わない。ただ、静かに目を閉じている。


「でもね、安心して。舞台には出れなくなったかもしれない。けどそもそも舞台はそこだけじゃない」


「何か、アイデアがあるのか?」


「ええ。エコー・エンタテインメントは、舞台を捨てて”ショートドラマ”の制作に注力する!」



   ***



あれは、響が中学一年生の頃の出来事だった。


響は、客席の一番後ろに座っていた。父の舞台を観るのは、これで何度目だろう。数えたことがなかった。


物心ついた時から、劇場は響にとって第二の家だった。


その夜の演目は、大手プロダクションとの合同公演だった。


主演は、当時飛ぶ鳥を落とす勢いのアイドル俳優。整った顔。鍛えられた身体。事務所が用意した演技指導を受けた、水準以上の芝居だった。


客席は、開演前から熱気に包まれていた。


──でも。


巌が舞台に現れた瞬間。客席の空気が、変わった。


音が消えたわけではない。照明が変わったわけでもない。ただ──観客の視線が、巌に吸い寄せられた。


主演のアイドルが台詞を言っている間も、客席の目は巌を探していた。巌が舞台の端に立っているだけで、そこが「視線の中心」になった。


父が誇らしかった。


世界で一番すごいものを、自分だけが知っているような気がした。


──だが。


舞台の翌週。巌はいつもと変わらない顔で帰ってきた。くたびれたカーディガンのまま、台所でお茶を入れて、座卓の前に座った。


「ねえ、次の舞台はいつなの?」


「ああ、次の仕事、なくなったよ」


それだけだった。


響は、耳を疑った。


「……なんで」


「まあ、色々とね」


曖昧に濁す。その言い方に、胸の奥がざわつく。


「色々ってなに? お父さん、あの舞台で一番上手だったじゃない」


「上手いのと、仕事があるのは、別の話だよ」


巌は苦笑した。怒りも、嘆きも、そこにはなかった。


「舞台は商売だから。裏では色々な思惑があるのさ。主役の子を立てないといけない。仕方ないよ」


”仕方ない”。その言葉が、胸の奥に沈んだ。石塊のように。冷たく、重く。


理解はできる。理屈も、分かる。舞台は商売。主役を立てるのは当然だ。父の言っていることは、全部正しい。


──でも。気に食わない。


納得だけが、どうしてもできなかった。


なぜ、一番上手い人間が、追いやられる。舞台は一人じゃ成り立たない。チームワークも大事だ。でも、なぜ本物が偽物に遠慮する。


喉の奥に何かが引っかかって、言葉にならないまま、じりじりと熱を持ち続けていた。


巌はもう次の台本を開いていた。さっきの話などなかったかのように、新しい役を静かに読み込んでいる。


その横顔を見た時、響は気づいた。この人は、諦めていない。ただ──受け入れている。怒りも、悔しさも、全部飲み込んで。それでも次の役に向かっている。その穏やかさが、余計に腹立たしかった。


(違う)


心の奥で、何かが軋んだ。


(そんな終わり方でいいはずがない)


拳を握った。爪が掌に食い込む。その痛みだけが、やけに鮮明だった。


言葉は、出なかった。父に、何も言えなかった。でも。


胸の奥に沈んだその石塊は、解けて消えることはなかった。


消えるどころか──静かに、確かに、熱を帯び始めていた。


いつか。


この”仕方ない”を、ひっくり返す。方法は、まだ分からない。言葉にもならない。


それでも。


13歳の響の胸の中で、その夜──何かが、産声を上げた



   ***



「ショートドラマって……本気ですか」


「本気よ」


響は全員の顔を見渡した。直哉。つむぎ。悠。そして最後に──父、巌を見た。


目を閉じていた。その顔は、いつものように飄々としていた。響は父から視線を外して、立ち上がった。


(お父さんはあの時、”仕方ない”って言った)


誰に言うでもなく、響は思った。


(私は一生、その言葉が許せない)


「舞台なんか、いくらでも作り出せるわ。権藤だろうが、愛城グループだろうが、誰にも私たちの邪魔はさせない!」


事務所が、静かになった。


巌は何も言わなかった。ただ、目を閉じたまま、口元だけがかすかに動いた。


それが笑みだと気づいたのは──悠だけだった。



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