「空木悠の呼吸」
「……120。いや、もう少し上かな。128、くらいですかね」
権藤が、固まった。
「……頻脈、震え。胸部に不快感はありませんか? パニック障害を起こしかけています」
悠は権藤の首筋から指を離した。
空木悠のその目の色を──権藤は一生忘れないだろう。
感情がない目ではなかった。むしろ逆だ。あらゆる感情を蒸留して、残った”本質だけ”を抽出したような目だった。
値踏みする目。解剖する目。
「権藤さん──でいいですか?」
悠は、淡々と続けた。
「彼女に断られたのが怖かった。自分の思い通りにならない相手が、怖かった。だから大声を出して、恐怖で解決しようとしてる。でも、それをすることで──もっと怖くなってきていませんか」
権藤の顔色が変わった。
悠は、ほんの少しだけ──表情を動かした。笑みとも言えない、哀れみとも違う、”理解した”という顔。
「あなたは今、自分がやっていることの意味に、気づき始めているからですよ。これは──脅しですよね。深夜のコンビニで、女性の腕を掴んで怒鳴っている。録画されていたとして、それが流れたとして──どうなるか。あなたのご職業だと、相当、困りませんか」
権藤の視線が、店内の防犯カメラに向いた。
悠は何も言わなかった。
ただ、静かに、権藤を見ていた。
観察するように。記録するように。
権藤が──震えた。
「……っ」
権藤の体が悠から離れた。
一歩、二歩と後ずさり、自動ドアに背中をぶつけ、それでも目線を悠から外せないまま、コンビニから出て行った。
そして、静寂だけが残った。
***
糸が、切れた。
空木悠の膝が、音もなく折れた。
レジカウンターの角を掴み、床に片膝をついた格好になった。
「……はぁ、はぁ……」
呼吸が荒い。手が震える。さっきまで止まっていたはずの震えが、今頃になって全部まとめて押し寄せてきた。
「すみません……僕、なんか、変なことを……」
声がかすれる。自分が何をしたのか、断片的にしか分からない。夢遊病みたいな感覚。舞台袖に戻ってきたら、どんな芝居をしたか半分忘れているような──
目の前に、ハイヒールが現れた。
見上げると、響が立っていた。
「今の……演技だったの?」
交錯した表情。
それは恐怖であり、忌避であり、好奇であり、満ち足りているようにも見えた。
その目は確かに悠を見ていた。
悠の輪郭を、悠の内側を──丁寧に、確かめるように。
響の口が、かすかに動いた。声にはならなかったが、悠には読めた。
(いた──)
響はそう言った。
片膝をついて。目線の高さを、悠に合わせた。
その目が、近い。
まるで子供に向き合うような姿勢で、響は震える悠の肩に両手を置いた。強く、でも乱暴じゃない力で。
「……あなた」
響が言った。
「名前、教えてくれる?」
「……空木……悠……です」
「悠くん」
響の声は、さっきまでの鋭さと違う、高くて落ち着いたトーンだった。
緋色のリップが、弧を描いた。
「私、一ノ瀬響。エコー・エンタテインメントって芸能事務所の代表をやってるの」
名刺が差し出された。
「悠くん。あなた、うちの事務所に来てみない? さっきの豹変ぶり、あなたには俳優としての才能がある」
コンビニの蛍光灯が、白く照らしている。
「俳優……僕が?」
悠は、カウンターを掴んだまま、響の顔を見た。
恐怖がある。断る理由は、いくらでもある。むしろ断る理由しかない。
見ず知らずの女性だ。事務所の実態も分からない。
そもそも自分は、人前に出るのが怖くてメガネをかけて前髪を伸ばして、石ころのように生きることを選んだ人間だ。
でも──
(変わってしまった僕を見ても、この人は逃げなかった)
それどころか、スカウトしようとしている。
「あなたの”演技”を私と一緒に、使いこなしてみない?」
脳裏に、さっきの感覚が戻ってきた。
本棚が崩れて、人格がダウンロードされて、震えが止まった、あの瞬間。
あの数分間だけ──悠は、生きていた。
もう”石ころ”や”背景”じゃなくていいと、許された気がした。
(この人と一緒にいれば、あの感覚を自由にできるかもしれない)
悠の指先が、名刺の角に触れた。
冷たかった。
それでも──悠は、ゆっくりと名刺を胸ポケットにしまった。
***
「ここが私の事務所よ」
深夜のコンビニでの出会いから二日後。
”演劇の街”とも呼ばれる、東京都世田谷区、下北沢。エコー・エンタテインメントは、その街の雑居ビルの2階にあった。
響の案内で事務所に入る。
──ガチャ。
中に入った瞬間。場の空気が悠の全身に流れ込んできた。
冷たいコンクリートの匂い。鉄格子の向こうで、初老の男がうずくまっている。若い看守が、それを無表情に見下ろしていた。
そこは刑務所だった。
悠の脳が、一瞬で塗り替えられる。
足が、後ろに引いた。
「──ちょっと、どこ行くの」
思わず逃げ出そうとした悠の腕を響が掴んだ。
「練習中なのよ。よく見みなさい」
言われて、ようやく見えてくる。
コンクリートに見えたのは、古びたグレーの壁紙だった。
鉄格子は、折り畳み式のパーテーション。
それでも──悠の肌の粟立ちは、なかなか収まらなかった。
(……演技だった? 今のが?)
うずくまっている男がゆっくりと立ち上がった。
小柄で細身。くたびれたベージュのカーディガン。一見するとどこにでもいる好々爺。その姿は、先程うずくまっていた男と同一人物だとは思えなかった。
「お父さん」
男がこちらに目を向ける。
それだけで、部屋の空気の重心が、その男に向かって動いた。
「おお、その子が例の?」
「ええ。お父さんに勝るとも劣らない。逸材よ」
男は、悠に右手を差し出した。
「一ノ瀬巌、61歳だ。エコー・エンタテインメント所属。劇団一ノ瀬主宰。よろしくな」
「あ……空木、悠です。19歳。よろしくお願いします」
その手を握り返すと、巌はにっこり笑った。人の良さそうな笑顔だった。
さっきまでの圧が、煙のように消えた。
(今のは、なんだったんだ)
悠はようやく幻覚の刑務所から抜け出すことができた。
「響さん、私も紹介してもらっていい?」
パーテーションの手前、若い女性が立っていた。看守に見えていた人だ。
「初めまして。私は苗代つむぎ、23歳」
小柄な女性。ボーイッシュな黒髪のショートヘア。黒い上下のジャージ姿。愛嬌のある顔立ちだが目が少しだけ冷たい。悠を値踏みしているようだった。
「演技の経験は?」
「……ありません」
「ふぅん、そっか」
感情の読めない相槌だった。
その時。
悠が入ってきた入口の方から、足音が近づいてきた。大きな足音だった。
──バタンッ!
と激しい音を立ててドアが開いた。
「響さん、今日の新人って──」
入ってきたのは、長身の男だった。悠の姿を見て言葉を止める。
歳は悠と同じくらい。整った顔に気の強そうな表情、鋭い目つき。汗が染みたグレーのTシャツに黒いスウェットパンツ。手には付箋だらけの丸めた台本を持っていた。
「司馬直哉くんよ」
響が悠に向かって紹介する。
悠と目が合った瞬間、直哉の目に感情が走った。驚き。値踏み。嫉妬。それから──悔恨。
どれもこれも全部、隠せていなかった。
(この人は、全部、顔に出る)
悠は少し、羨ましいと思った。
「司馬直哉、20歳。”怪優”一ノ瀬巌の一番弟子だ」
声が、真っ直ぐだった。
「空木悠です」
直哉が響を見る。
「……響さん」
声が、一段低くなっていた。
「昨日言ってた人ですよね。先生と同じタイプの役者だって」
「言ったわ」
「本気ですか」
「本気よ」
直哉の目が、悠に戻ってきた。
怒鳴らない。嘲笑うこともない。
ただ、真っ直ぐに見ている。
「一つ、提案があるんですけど」
つむぎが、静かに口を開いた。
「見せてもらえませんか? その逸材の演技ってやつ。聞けば未経験だって言うじゃないですか」
悠の意思とは無関係に話が進んでいく。つむぎから向けられる視線は明らかな挑発。巌はその様子を楽しそうな目で見ている。
(やっぱり来るんじゃなかった……)
しかし、響は悠の思いを許さなかった。
「そうね。 悠くん、何か即興でやってみてくれる?」
「……え?」
「何でもいいわ。 あ、でもこの間みたいな怖い感じは無しでお願いね」
そう言って響はウインクをした。
あの時の感覚。悠は深く、潜り込むように目を閉じた。脳の奥の、暗い書庫。天井まで届く棚に、数千冊の背表紙が並んでいる。
一陣の風が吹き、通り過ぎたあとに一冊の本が残った。
幾度もページを繰り、読み返してきた一冊だった。
(これなら……いける)
──悠の、呼吸が変わった。




