表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/12

「空木悠の呼吸」



「……120。いや、もう少し上かな。128、くらいですかね」


権藤が、固まった。


「……頻脈、震え。胸部に不快感はありませんか? パニック障害を起こしかけています」


悠は権藤の首筋から指を離した。


空木悠のその目の色を──権藤は一生忘れないだろう。


感情がない目ではなかった。むしろ逆だ。あらゆる感情を蒸留して、残った”本質だけ”を抽出したような目だった。


値踏みする目。解剖する目。


「権藤さん──でいいですか?」


悠は、淡々と続けた。


「彼女に断られたのが怖かった。自分の思い通りにならない相手が、怖かった。だから大声を出して、恐怖で解決しようとしてる。でも、それをすることで──もっと怖くなってきていませんか」


権藤の顔色が変わった。


悠は、ほんの少しだけ──表情を動かした。笑みとも言えない、哀れみとも違う、”理解した”という顔。


「あなたは今、自分がやっていることの意味に、気づき始めているからですよ。これは──脅しですよね。深夜のコンビニで、女性の腕を掴んで怒鳴っている。録画されていたとして、それが流れたとして──どうなるか。あなたのご職業だと、相当、困りませんか」


権藤の視線が、店内の防犯カメラに向いた。


悠は何も言わなかった。


ただ、静かに、権藤を見ていた。


観察するように。記録するように。


権藤が──震えた。


「……っ」


権藤の体が悠から離れた。


一歩、二歩と後ずさり、自動ドアに背中をぶつけ、それでも目線を悠から外せないまま、コンビニから出て行った。


そして、静寂だけが残った。



   ***



糸が、切れた。


空木悠の膝が、音もなく折れた。


レジカウンターの角を掴み、床に片膝をついた格好になった。


「……はぁ、はぁ……」


呼吸が荒い。手が震える。さっきまで止まっていたはずの震えが、今頃になって全部まとめて押し寄せてきた。


「すみません……僕、なんか、変なことを……」


声がかすれる。自分が何をしたのか、断片的にしか分からない。夢遊病みたいな感覚。舞台袖に戻ってきたら、どんな芝居をしたか半分忘れているような──


目の前に、ハイヒールが現れた。


見上げると、響が立っていた。


「今の……演技だったの?」


交錯した表情。


それは恐怖であり、忌避であり、好奇であり、満ち足りているようにも見えた。


その目は確かに悠を見ていた。


悠の輪郭を、悠の内側を──丁寧に、確かめるように。


響の口が、かすかに動いた。声にはならなかったが、悠には読めた。


(いた──)


響はそう言った。


片膝をついて。目線の高さを、悠に合わせた。


その目が、近い。


まるで子供に向き合うような姿勢で、響は震える悠の肩に両手を置いた。強く、でも乱暴じゃない力で。


「……あなた」


響が言った。


「名前、教えてくれる?」


「……空木……悠……です」


「悠くん」


響の声は、さっきまでの鋭さと違う、高くて落ち着いたトーンだった。


緋色のリップが、弧を描いた。


「私、一ノ瀬(いちのせ)(ひびき)。エコー・エンタテインメントって芸能事務所の代表をやってるの」


名刺が差し出された。


「悠くん。あなた、うちの事務所に来てみない? さっきの豹変ぶり、あなたには俳優としての才能がある」


コンビニの蛍光灯が、白く照らしている。


「俳優……僕が?」


悠は、カウンターを掴んだまま、響の顔を見た。


恐怖がある。断る理由は、いくらでもある。むしろ断る理由しかない。


見ず知らずの女性だ。事務所の実態も分からない。


そもそも自分は、人前に出るのが怖くてメガネをかけて前髪を伸ばして、石ころのように生きることを選んだ人間だ。


でも──


(変わってしまった僕を見ても、この人は逃げなかった)


それどころか、スカウトしようとしている。


「あなたの”演技”を私と一緒に、使いこなしてみない?」


脳裏に、さっきの感覚が戻ってきた。


本棚が崩れて、人格がダウンロードされて、震えが止まった、あの瞬間。


あの数分間だけ──悠は、生きていた。


もう”石ころ”や”背景”じゃなくていいと、許された気がした。


(この人と一緒にいれば、あの感覚を自由にできるかもしれない)


悠の指先が、名刺の角に触れた。


冷たかった。


それでも──悠は、ゆっくりと名刺を胸ポケットにしまった。



   ***



「ここが私の事務所よ」


深夜のコンビニでの出会いから二日後。


”演劇の街”とも呼ばれる、東京都世田谷区、下北沢。エコー・エンタテインメントは、その街の雑居ビルの2階にあった。


響の案内で事務所に入る。


──ガチャ。


中に入った瞬間。場の空気が悠の全身に流れ込んできた。


冷たいコンクリートの匂い。鉄格子の向こうで、初老の男がうずくまっている。若い看守が、それを無表情に見下ろしていた。


そこは刑務所だった。


悠の脳が、一瞬で塗り替えられる。


足が、後ろに引いた。


「──ちょっと、どこ行くの」


思わず逃げ出そうとした悠の腕を響が掴んだ。


「練習中なのよ。よく見みなさい」


言われて、ようやく見えてくる。


コンクリートに見えたのは、古びたグレーの壁紙だった。


鉄格子は、折り畳み式のパーテーション。


それでも──悠の肌の粟立ちは、なかなか収まらなかった。


(……演技だった? 今のが?)


うずくまっている男がゆっくりと立ち上がった。


小柄で細身。くたびれたベージュのカーディガン。一見するとどこにでもいる好々爺。その姿は、先程うずくまっていた男と同一人物だとは思えなかった。


「お父さん」


男がこちらに目を向ける。


それだけで、部屋の空気の重心が、その男に向かって動いた。


「おお、その子が例の?」


「ええ。お父さんに勝るとも劣らない。逸材よ」


男は、悠に右手を差し出した。


一ノ瀬巌(いちのせ いわお)、61歳だ。エコー・エンタテインメント所属。劇団一ノ瀬主宰。よろしくな」


「あ……空木、悠です。19歳。よろしくお願いします」


その手を握り返すと、巌はにっこり笑った。人の良さそうな笑顔だった。


さっきまでの圧が、煙のように消えた。


(今のは、なんだったんだ)


悠はようやく幻覚の刑務所から抜け出すことができた。


「響さん、私も紹介してもらっていい?」


パーテーションの手前、若い女性が立っていた。看守に見えていた人だ。


「初めまして。私は苗代(なえしろ)つむぎ、23歳」


小柄な女性。ボーイッシュな黒髪のショートヘア。黒い上下のジャージ姿。愛嬌のある顔立ちだが目が少しだけ冷たい。悠を値踏みしているようだった。


「演技の経験は?」


「……ありません」


「ふぅん、そっか」


感情の読めない相槌だった。


その時。


悠が入ってきた入口の方から、足音が近づいてきた。大きな足音だった。


──バタンッ! 


と激しい音を立ててドアが開いた。


「響さん、今日の新人って──」


入ってきたのは、長身の男だった。悠の姿を見て言葉を止める。


歳は悠と同じくらい。整った顔に気の強そうな表情、鋭い目つき。汗が染みたグレーのTシャツに黒いスウェットパンツ。手には付箋だらけの丸めた台本を持っていた。


司馬直哉(しば なおや)くんよ」


響が悠に向かって紹介する。


悠と目が合った瞬間、直哉の目に感情が走った。驚き。値踏み。嫉妬。それから──悔恨。


どれもこれも全部、隠せていなかった。


(この人は、全部、顔に出る)


悠は少し、羨ましいと思った。


「司馬直哉、20歳。”怪優”一ノ瀬巌の一番弟子だ」


声が、真っ直ぐだった。


「空木悠です」


直哉が響を見る。


「……響さん」


声が、一段低くなっていた。


「昨日言ってた人ですよね。先生と同じタイプの役者だって」


「言ったわ」


「本気ですか」


「本気よ」


直哉の目が、悠に戻ってきた。


怒鳴らない。嘲笑うこともない。


ただ、真っ直ぐに見ている。


「一つ、提案があるんですけど」


つむぎが、静かに口を開いた。


「見せてもらえませんか? その逸材の演技ってやつ。聞けば未経験だって言うじゃないですか」


悠の意思とは無関係に話が進んでいく。つむぎから向けられる視線は明らかな挑発。巌はその様子を楽しそうな目で見ている。


(やっぱり来るんじゃなかった……)


しかし、響は悠の思いを許さなかった。


「そうね。 悠くん、何か即興でやってみてくれる?」


「……え?」


「何でもいいわ。 あ、でもこの間みたいな怖い感じは無しでお願いね」


そう言って響はウインクをした。


あの時の感覚。悠は深く、潜り込むように目を閉じた。脳の奥の、暗い書庫。天井まで届く棚に、数千冊の背表紙が並んでいる。


一陣の風が吹き、通り過ぎたあとに一冊の本が残った。


幾度もページを繰り、読み返してきた一冊だった。


(これなら……いける)


──悠の、呼吸が変わった。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ