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「石ころのように」



『老人はうずくまったまま、微動だにしなかった。街の喧騒も、彼の上を素通りした。誰も、老人を見なかった。誰も、老人に気づかなかった。彼は石であり、影であり、存在しない何かだった──』





昨晩手にとった小説のワンシーン。


息をのむほど見事な表現に、心を奪われた。


空木悠(うつぎ ゆう)は、老人の骨の軋みを、肺の縮んだ感触を、アスファルトの冷たさを、そのまま自分の身体で受け取っていた。


石ころには、声がない。感情がない。


石ころは、ただそこにある。


だが、それを誰にも気づかせない。


だから──安全だ。


中学二年生の冬。


廊下のワックスと、体育倉庫の埃。


昇降口の下駄箱。


その匂いばかり、やけに覚えていた。


関係ないはずの匂いが、次々と押し寄せてくる。


現実は、目の前にあるのに。意識だけが、勝手にずれていく。


うずくまる悠を囲むようにして、四人のクラスメイトが立っていた。


田端。岸本。それから……もう名前も思い出せない二人。


「なに?  泣いてんの?  キメェ」


声が頭上から降ってくる。


怖い。


怖い、怖い、怖い──。


身体ががたがたと震え、悠の指先が冷たくなる。


視界の端が涙で歪み、思考が溶けていく。


逃げろと身体が叫ぶのに、足が動かない。


声を出せば、もっと笑われる。


助けを呼べば、もっとひどくなる。


それを、もう十分すぎるくらい学習していた。


「女みたいな面しやがって。反吐が出るぜ」


悠の整いすぎた中性的な顔立ちは、クラスの不良たちにとって格好の的だった。


透き通るような白い肌に、さらりと流れる黒髪。


伏せられた前髪の隙間からこぼれる瞳は、今にも壊れてしまいそうなほど脆く見えた。


悠は自分でも気づかないうちに、呼吸を変えていた。


肩の力が、抜けた。


瞳の焦点が、ぼんやりと霞んだ。


膝の震えが──止まった。


身体に残っていた、石の呼吸。


極限の恐怖の中で、悠は自分のことを、昨晩読んだ小説の老人と重ねていた。


「……あ?」


田端の声が、不思議そうに変わる。


「どこ行った?」


「え、いや、いるじゃん」


「いや、なんか……」


首を傾げる。


悠は確かにそこにいた。


だが、田端の目からは、悠の意思や存在感が失われていた。


まるで、石ころのように。


田端の視線が、悠の輪郭をかすめて、廊下の先へ流れた。


「……まあいいか。行こうぜ」


四人の足音が、遠ざかっていく。


悠は、しばらくその場で動けなかった。


呼吸がゆっくりと戻ってくる。


頬に赤みがさす。そして気づく。


(──僕は、今、石ころだった)


恐怖とは別の、もっと奇妙な感覚が、心の底にわだかまっていた。


自分の体が、自分じゃない何かに乗っ取られたような。


でも同時に──その瞬間だけ、怖くなかった。


その怖くなかったという感触が、6年後の今でも、悠の身体に残っている。



   ***



深夜二時のコンビニは、静かなのがいい。


客はまばらで、有線から流れる無難なポップスが店内に溶け込んでいる。


レジの中に立っていれば、誰も悠に話しかけてこない。


挨拶だけすればいい。


お辞儀だけすればいい。


スキャンして、袋に入れて、お釣りを返して。


それだけでいい。


前髪が目の上まで垂れている。


伊達メガネのフレームが、視界の下端に薄く映っている。


石ころというよりも、名前のない登場人物のようだ、と自分でも思う。


極上の、完璧な、誰にも興味を持たれない”背景”。


それが空木悠、19歳の現在地だ。


読書だけが趣味で、友人はなく、アルバイトと図書館を往復する日々。


家にも本はある。置ききれないほどに。


それでも、足は決まって図書館へ向かう。


誰にも干渉されない静寂と、無数の物語が沈んだ書架。


そこに身を沈めているときだけ、悠はようやく自分の呼吸を思い出す。


今夜のシフトは深夜から朝まで。


悠はカウンターを拭きながら、昨夜読んだ推理小説の登場人物たちを、頭の中でなぞっていた。


探偵の、静かで鋭い問いかけの口調。


刑事の、疲れ切った訛り混じりの怒声。


容疑者の、計算し尽くされた”無実を装う目線の動かし方”──。


自動ドアが、勢いよく開いた。


その音で、悠は顔を上げた。


──入ってきたのは、女性だった。


一目で”ただ者じゃない”と分かる。パンツスーツにハイヒール、緋色のリップ。


20代後半くらいだろうか。


モデルのようなプロポーションだが、目の下に濃い隈があって、それを厚めのファンデーションで隠している──いや、隠しきれていない。


長い脚で歩幅を大きく取って店内に入ってきた彼女は、飲料コーナーへ向かいながら、チラリと後ろを振り返った。


その目に、恐怖があった。


──外に誰かがいる?


女性は悠のレジへ来て、ペットボトルの水を1本置いた。


「……お願いします」


「はい。108円です」


普通のやり取りを演じながら、悠は女性の指先が微かに震えていることを見ていた。バッグから財布を出す動作が、どこかぎこちない。


女性が、顔を上げた。


悠と、目が合った。


次の瞬間──女性は、悠の腕を掴んだ。


「──お願い。知り合いのふりをして」


え、と声が出なかった。


「変な話ってわかってる。でも、本当に困ってて。お願いします」


自動ドアが、また開いた。


入ってきた男は、50代くらいだった。


体格がいい。グレーのスーツが、腹のあたりでぱつんと張っている。


薄くなった頭頂部と、充血した目。酒のせいかもしれないし、怒りのせいかもしれない。


たぶん、両方だ。


「おい、(ひびき)。待て言うとるだろうが」


太い関西弁が、静かな店内に響いた。


権藤(ごんどう)さん。もう話すことないから」


響と呼ばれた女性─が、低く鋭い声で言った。声は落ち着いているが、指先の震えは止まっていない。


「おまえなあ、俺がどんだけ我慢して付き合ってやっとると思うとるんや。職人気取りの弱小劇団が、うちの局に逆らえると思うなよ」


「逆らってるんじゃなくて、断ってるの。うちの子を、その会合には出せない」


「出せんとかじゃなくて、出すんや」


男が響に近づく。


悠は──震えていた。


指先が冷たくなって、呼吸が浅くなって、胃がぎゅっと縮む。


怖い。この人が怖い。怒鳴り声が怖い。この状況が怖い。


助けなきゃ、と思う。


でも足が動かない。


──響の顔が見えた。恐怖の中に、それでも引かない、なにか固いものが混じっている目。


そしてほんの一瞬、助けを求めるように悠の方を見た。


その瞬間。


脳の奥で、何かが──崩れた。


本棚が、崩れるような音がした。


積み上げられていた何千冊もの”誰かの人生”が、猛烈な速さでめくれていく。


(ミステリーじゃない、純文学じゃない、青春小説でもない──どこだ、どこにある──)


今必要なのは、”石ころ”でも”背景”でもない。


悠の意思とは無関係に。


一冊の本が、脳内に固定された。



黒ずんだ表紙の、ホラー小説。


登場する男は裁判官だった。彼は正義を信じていた。ただしそれは、歪んだかたちでしか、この世界に触れられない。


正しさが静かに踏み潰されていく現実を、彼は見過ごせない。だから、法の届かぬ悪に手を伸ばす。


恐怖をもって。


その姿は──。


もはや人のものではなかった。



震えが──止まった。


空木悠の呼吸が、変わった。


深く、ゆっくり、冷たく。


メガネを外した。前髪を、無造作にかき上げる。


──それだけで、立っている人間が変わった。


猫背が伸びたわけではない。


声が低くなったわけでもない。


でも、悠を包んでいた”背景”の空気が、音もなく剥がれ落ちた。


かわりに──何もない、透明で、凪いだ”圧力”が、悠の身体から滲み出していた。


権藤が、無意識に一歩引いた。


悠はカウンターを出て、権藤と響の間に立った。


歩く速度は普通だった。でも、権藤にはそれが”ゆっくりと包囲されている”ように見えた。


「……お客様」


悠の声は、静かだった。感情がなかった。怒りもなく、脅しもなく──ただ、情報を告知するような、無機質なトーン。


「彼女の腕を、離してもらえますか」


「あ? なんやお前、関係あらへんやろ」


「関係はあります」


悠は権藤の横に並んだ。そして──権藤の首筋に、人差し指をそっと当てた。


脈を、測るような仕草だった。


「情状酌量の余地は──ありませんね」


権藤の顔から、血の気が引いていった。



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