「石ころのように」
『老人はうずくまったまま、微動だにしなかった。街の喧騒も、彼の上を素通りした。誰も、老人を見なかった。誰も、老人に気づかなかった。彼は石であり、影であり、存在しない何かだった──』
*
昨晩手にとった小説のワンシーン。
息をのむほど見事な表現に、心を奪われた。
空木悠は、老人の骨の軋みを、肺の縮んだ感触を、アスファルトの冷たさを、そのまま自分の身体で受け取っていた。
石ころには、声がない。感情がない。
石ころは、ただそこにある。
だが、それを誰にも気づかせない。
だから──安全だ。
中学二年生の冬。
廊下のワックスと、体育倉庫の埃。
昇降口の下駄箱。
その匂いばかり、やけに覚えていた。
関係ないはずの匂いが、次々と押し寄せてくる。
現実は、目の前にあるのに。意識だけが、勝手にずれていく。
うずくまる悠を囲むようにして、四人のクラスメイトが立っていた。
田端。岸本。それから……もう名前も思い出せない二人。
「なに? 泣いてんの? キメェ」
声が頭上から降ってくる。
怖い。
怖い、怖い、怖い──。
身体ががたがたと震え、悠の指先が冷たくなる。
視界の端が涙で歪み、思考が溶けていく。
逃げろと身体が叫ぶのに、足が動かない。
声を出せば、もっと笑われる。
助けを呼べば、もっとひどくなる。
それを、もう十分すぎるくらい学習していた。
「女みたいな面しやがって。反吐が出るぜ」
悠の整いすぎた中性的な顔立ちは、クラスの不良たちにとって格好の的だった。
透き通るような白い肌に、さらりと流れる黒髪。
伏せられた前髪の隙間からこぼれる瞳は、今にも壊れてしまいそうなほど脆く見えた。
悠は自分でも気づかないうちに、呼吸を変えていた。
肩の力が、抜けた。
瞳の焦点が、ぼんやりと霞んだ。
膝の震えが──止まった。
身体に残っていた、石の呼吸。
極限の恐怖の中で、悠は自分のことを、昨晩読んだ小説の老人と重ねていた。
「……あ?」
田端の声が、不思議そうに変わる。
「どこ行った?」
「え、いや、いるじゃん」
「いや、なんか……」
首を傾げる。
悠は確かにそこにいた。
だが、田端の目からは、悠の意思や存在感が失われていた。
まるで、石ころのように。
田端の視線が、悠の輪郭をかすめて、廊下の先へ流れた。
「……まあいいか。行こうぜ」
四人の足音が、遠ざかっていく。
悠は、しばらくその場で動けなかった。
呼吸がゆっくりと戻ってくる。
頬に赤みがさす。そして気づく。
(──僕は、今、石ころだった)
恐怖とは別の、もっと奇妙な感覚が、心の底にわだかまっていた。
自分の体が、自分じゃない何かに乗っ取られたような。
でも同時に──その瞬間だけ、怖くなかった。
その怖くなかったという感触が、6年後の今でも、悠の身体に残っている。
***
深夜二時のコンビニは、静かなのがいい。
客はまばらで、有線から流れる無難なポップスが店内に溶け込んでいる。
レジの中に立っていれば、誰も悠に話しかけてこない。
挨拶だけすればいい。
お辞儀だけすればいい。
スキャンして、袋に入れて、お釣りを返して。
それだけでいい。
前髪が目の上まで垂れている。
伊達メガネのフレームが、視界の下端に薄く映っている。
石ころというよりも、名前のない登場人物のようだ、と自分でも思う。
極上の、完璧な、誰にも興味を持たれない”背景”。
それが空木悠、19歳の現在地だ。
読書だけが趣味で、友人はなく、アルバイトと図書館を往復する日々。
家にも本はある。置ききれないほどに。
それでも、足は決まって図書館へ向かう。
誰にも干渉されない静寂と、無数の物語が沈んだ書架。
そこに身を沈めているときだけ、悠はようやく自分の呼吸を思い出す。
今夜のシフトは深夜から朝まで。
悠はカウンターを拭きながら、昨夜読んだ推理小説の登場人物たちを、頭の中でなぞっていた。
探偵の、静かで鋭い問いかけの口調。
刑事の、疲れ切った訛り混じりの怒声。
容疑者の、計算し尽くされた”無実を装う目線の動かし方”──。
自動ドアが、勢いよく開いた。
その音で、悠は顔を上げた。
──入ってきたのは、女性だった。
一目で”ただ者じゃない”と分かる。パンツスーツにハイヒール、緋色のリップ。
20代後半くらいだろうか。
モデルのようなプロポーションだが、目の下に濃い隈があって、それを厚めのファンデーションで隠している──いや、隠しきれていない。
長い脚で歩幅を大きく取って店内に入ってきた彼女は、飲料コーナーへ向かいながら、チラリと後ろを振り返った。
その目に、恐怖があった。
──外に誰かがいる?
女性は悠のレジへ来て、ペットボトルの水を1本置いた。
「……お願いします」
「はい。108円です」
普通のやり取りを演じながら、悠は女性の指先が微かに震えていることを見ていた。バッグから財布を出す動作が、どこかぎこちない。
女性が、顔を上げた。
悠と、目が合った。
次の瞬間──女性は、悠の腕を掴んだ。
「──お願い。知り合いのふりをして」
え、と声が出なかった。
「変な話ってわかってる。でも、本当に困ってて。お願いします」
自動ドアが、また開いた。
入ってきた男は、50代くらいだった。
体格がいい。グレーのスーツが、腹のあたりでぱつんと張っている。
薄くなった頭頂部と、充血した目。酒のせいかもしれないし、怒りのせいかもしれない。
たぶん、両方だ。
「おい、響。待て言うとるだろうが」
太い関西弁が、静かな店内に響いた。
「権藤さん。もう話すことないから」
響と呼ばれた女性─が、低く鋭い声で言った。声は落ち着いているが、指先の震えは止まっていない。
「おまえなあ、俺がどんだけ我慢して付き合ってやっとると思うとるんや。職人気取りの弱小劇団が、うちの局に逆らえると思うなよ」
「逆らってるんじゃなくて、断ってるの。うちの子を、その会合には出せない」
「出せんとかじゃなくて、出すんや」
男が響に近づく。
悠は──震えていた。
指先が冷たくなって、呼吸が浅くなって、胃がぎゅっと縮む。
怖い。この人が怖い。怒鳴り声が怖い。この状況が怖い。
助けなきゃ、と思う。
でも足が動かない。
──響の顔が見えた。恐怖の中に、それでも引かない、なにか固いものが混じっている目。
そしてほんの一瞬、助けを求めるように悠の方を見た。
その瞬間。
脳の奥で、何かが──崩れた。
本棚が、崩れるような音がした。
積み上げられていた何千冊もの”誰かの人生”が、猛烈な速さでめくれていく。
(ミステリーじゃない、純文学じゃない、青春小説でもない──どこだ、どこにある──)
今必要なのは、”石ころ”でも”背景”でもない。
悠の意思とは無関係に。
一冊の本が、脳内に固定された。
*
黒ずんだ表紙の、ホラー小説。
登場する男は裁判官だった。彼は正義を信じていた。ただしそれは、歪んだかたちでしか、この世界に触れられない。
正しさが静かに踏み潰されていく現実を、彼は見過ごせない。だから、法の届かぬ悪に手を伸ばす。
恐怖をもって。
その姿は──。
もはや人のものではなかった。
*
震えが──止まった。
空木悠の呼吸が、変わった。
深く、ゆっくり、冷たく。
メガネを外した。前髪を、無造作にかき上げる。
──それだけで、立っている人間が変わった。
猫背が伸びたわけではない。
声が低くなったわけでもない。
でも、悠を包んでいた”背景”の空気が、音もなく剥がれ落ちた。
かわりに──何もない、透明で、凪いだ”圧力”が、悠の身体から滲み出していた。
権藤が、無意識に一歩引いた。
悠はカウンターを出て、権藤と響の間に立った。
歩く速度は普通だった。でも、権藤にはそれが”ゆっくりと包囲されている”ように見えた。
「……お客様」
悠の声は、静かだった。感情がなかった。怒りもなく、脅しもなく──ただ、情報を告知するような、無機質なトーン。
「彼女の腕を、離してもらえますか」
「あ? なんやお前、関係あらへんやろ」
「関係はあります」
悠は権藤の横に並んだ。そして──権藤の首筋に、人差し指をそっと当てた。
脈を、測るような仕草だった。
「情状酌量の余地は──ありませんね」
権藤の顔から、血の気が引いていった。




