1-8 今の小説は過激な性描写は許す癖に、タバコはダメなんだよ
「はあ……」
エレーナは暗澹とした気持ちの中で、ロビーの喫煙所で煙草に火をつけた。
高齢の彼女にとっては、この古い銘柄はいつでも相棒だった。思索に更けるときやアイデアに詰まったときに、必ずこれを肺に入れることで気を落ち着かせていた。
「この煙草も、なかなか吸えない『世界』が増えたもんだね……」
彼女は以前編集者に言われたことを思い出した。
『もう、先生の時代じゃないのですから、作中に煙草の描写は入れてはいけません』
そういわれて、作中では明確な性描写と殺人描写があるにもかかわらず、タバコだけは外されたのだ。
「もう私の考えは古いのかねえ……当時者性を大事にしなさい、『抑圧からの解放』というドグマを守れ、英語圏の人が読みたくなるものを書け……。確かに言ってることは分かるよ……本がただでさえ売れないこの時代、どうしてもそうしたいってのは……」
所詮小説というものは売れなければ価値がない。
だから、読者が喜ぶものを第一にしなければならないということは、エレーナ自身も分かっているし、彼女もそれは認めている。
だが、それはそれとして、純粋な『エンタメとしての面白さ』を評価して、読者からのファンレターを貰っていた往年の自分を思い出すと、どうしてもそれが彼女たちへの裏切りのように感じてしまうのだ。
「それにしてもこのバッグ、もうすっかり古くなったねえ……」
煙草を吸い終わった彼女は、ライターを愛用の革製バッグの中に入れる。
これはフェミニスト作家である彼女にとって、最高の勲章でもあるお気に入りの品だ。バッグをそっと撫でながら彼女は諦めの混じった笑みを見せて呟く。
「ま、私もそろそろ若い者に任せないとダメってことかい……。老兵は死なず、ただ消え去るのみってね……。さて、雨が上がるまで少し待つとするか……」
外は雨がザーザーとふっており、老体の彼女が傘をささずに帰るには少し堪える。
そう思ったエレーナはスマホを開いて『自覚なき特権者と、姉妹の毒』を読み始めた。
因みに彼女はすでに3週目に突入している。老眼のせいで最近は同じ本を何度も読み返すことが無くなったエレーナにとっては、これはとても珍しいことだった。
「……ん?」
だが、何度も読み返すうちに彼女はふと、この作品に少し違和感を感じた。
(そういえばこれ……女性が書いた本にしては描写が少し変だね……。トイレの描写や、シャワーの浴び方に違和感を感じる……そしてなんといっても、シャーロットってペンネーム……どこかで聴いたことがあるような……)
シャーロット、シャーロット……と呟きながらしばらく逡巡していると、大きな声が隣から聞こえてきた。
「あら、お婆ちゃん。まだ残ってたの?」
ポリーだ。
彼女は100万円はするであろう高級バッグをこれ見よがしに腕に下げながら、そう皮肉めいた表情で尋ねてきた。
「あら、お嬢ちゃん。腰ぎんちゃくたちはどうしたんだい?」
因みにポリーは40近い年齢だ。
「もう帰ったわ。駅に向かっていったもの」
「あんたはここに何の用?」
「私は『妹』に迎えに来るように頼んでいるから、それを待ってるの」
「へえ、それもあんたの子分かい?」
「子分とは失礼ね。大事なシスターフッドで繋がった仲間よ」
シスターフッドという言葉は、ポリーが大好きな言葉だ。
彼女が主催している女性同士の会員制サロン『マリアの雫』でも金科玉条のように使われている。だがエレーナは、あまりこの言葉を好まなかった。
(女同士の友情は、そりゃ昔から素敵なものだよ。けど、一人でかっこよく荒野を旅する孤独なヒロインの物語の方が、私は好みなんだけどねえ……)
同じフェミニスト作家でもあまりなれ合いを好まず、また自作品にもハードボイルドな物語が多い彼女には、どうにもしっくりこなかったためだ。
そんな彼女を嘲るような口調でポリーは尋ねる。
「それにしても、あんたも本当にロートルね。タバコなんて今時若い世代は吸わないわよ? 健康に害するしね」
「そりゃどうも。私は昔っから男臭い社会で揉まれてたからさ、こいつがないと落ち着かないんだよ。……それに、あんたらのくだらない審査に付き合わされて、頭が沸騰していたところさ」
「ま、頭の古い人には今の文学のトレンドが分からないわよね。読者が求めているのは面白い話じゃないわ。『私のために書かれたか』『私が読んでスカッとできるか』なのよ。そんなことも分からないの?」
年下のアメリカ人に文化論を語られるのは、フランス人の彼女には挑戦状のたたきつけにも等しい。エレーナの眉がピクリと動いた。
「……自分の耳に心地いい意見を聴いて、自分の意見に合うキャラが褒められて、自分の嫌いなキャラが貶められて。それが読者の成長に繋がるのかい?」
その意見にはポリーが嘲るような目をしながら、大げさに両手を広げて答える。
「バカ言ってるわね。今の人が求めているのは心を鍛える『劇薬』じゃないわ。苦しみを忘れられる『麻薬』なのよ。男たちが奴隷ヒロインを助ける白騎士物語を好むのと本質は同じようにね」
「麻薬?」
「そう。努力すれば結果が得られたあんたたちとは時代が違うのよ。彼女たちには少しでも救いを与えるのが私たち文学者の仕事じゃない?」
確かにそれは一理ある。
『これ、私のことだ』と共感してもらうことは確かに必要だ。だが、それをおいそれと納得できるほどエレーナは大人ではなかった。
「それは……違うね。私が思う文学ってのはさ……」
「あ、ゴメンね。ちょっと待って。電話が来たから」
そういうとポリーはエレーナを制止してスマホのスイッチを入れた。
「あら、どうしたの? ラフィーナじゃない? 元気? ……え、会社をクビになった? ええ、そう……」
会社をクビになった、という言葉にエレーナは思わず顔をあげて耳を傾けた。
(なんだい……。また、女が社会に出るのを嫌う男が出たってのかい? ……もしそうなら私がガツンといってやろうかねえ……)
エレーナは作家業だけでなく、普段から女性が社会で働けるように、暇を見つけては働く女性の味方になっている。当時男社会であった文壇の世界で鍛えられた彼女の啖呵は、そこらの中年を一発で黙らせる胆力があるからだ。
……だが、ポリーの次の言葉を聴いてエレーナは言葉を失った。
「そう……。デートで無断欠勤したから解雇されたのね? ……ううん、違うわ。ラフィーナ。あなたは全然悪くない」
「!?」
エレーナは一瞬自分の耳を疑ったが、ポリーは目を閉じながら優しい口調で電話の向こうのラフィーナという女に、まるで洗脳するように語りかけていた。
「だって、悪いのは……上司? 惜しいわね。彼個人にも責任はあるけど……。一番の問題はあなたの会社にはびこる『男社会』にあるのだから」
「……ちょ、あんた……!」
「婆さんは黙ってて! ……ううん、ゴメンね、こっちの話」
思わず制止しようとしたエレーナを手で遮りながら、ポリーは続けた。
そのポリーの目が、獲物を狙う鷹のような目をしたことをエレーナは見逃さなかった。




