第三話 舞踏会の盾役から王太子妃へ
王宮の小サロンでの茶会は、エレーヌの想像とは違った。
儀礼と緊張に満ちた場ではなく、人払いされた静かな部屋に紅茶と焼き菓子が並び、窓から庭が見える穏やかな時間。
「少しは緊張が解けましたか」
「三割ほど」
「具体的ですね」
「七割はまだ緊張しています」
「それでも来てくださった」
「お断りする度胸はございませんので」
「正直だ」
アルベールは笑い、紅茶に口をつけた。
その仕草は美しい。
けれどやはり、どこか張りつめている。
エレーヌはしばらく迷ってから、口を開く。
「殿下」
「はい」
「一つ、申し上げてもよろしいでしょうか」
「どうぞ」
「殿下は、笑うのがお上手です」
「それは光栄ですね」
「でも、休むのはお下手です」
アルベールの手が止まると、エレーヌは少し青ざめた。
言いすぎたかもしれない。
「……申し訳ございません」
「いいえ」
アルベールはゆっくりとカップを置く。
「続けてください」
「え」
「あなたがそう思った理由を、聞かせてください」
エレーヌは言葉を探す。
「うまく言えないのですが。殿下はいつも、先に相手の望む顔をなさるのでしょう」
「……」
「笑うべき時に笑い、安心させるべき時にそうなさる。でも、ご自分が今どうしたいかは、後ろに追いやっておられるように見えます」
「……」
「だから、先に笑い方ばかり上手になって、休み方を忘れてしまわれたのではないかと」
静寂が落ちると、庭の噴水の音だけが遠くに聞こえる。
アルベールはしばらく黙っていた。
その沈黙は重苦しいものではなかったが、エレーヌはいたたまれなくなって視線を落とす。
やはり失礼だった。
今後の人生は終わったかもしれない。
そう思いかけた時、頭上からふっと息が抜けるような音がした。
見上げると、アルベールが笑っていた。
今までで一番、力の抜けた顔で。
「参りました」
「……はい?」
「そんなことを言われたのは初めてです」
「言わない方がよろしかったでしょうか」
「いえ。たぶん、誰かに言ってほしかったのだと思います」
「そうですか」
「ええ。自分では気づいていませんでした」
その日を境に、アルベールは折に触れてエレーヌをサロンに招くようになった。
本の話をし、庭を眺め、時には黙って茶を飲む。
エレーヌは相変わらず取り繕わず、アルベールはそれを面白がるように、けれどどこか大切そうに受け止めた。
グラン家の使用人たちはこっそり囁き合った。
あの方が来てから、王太子殿下のお顔が少し変わった、と。
レジナルドは何度もエレーヌに尋ねた。
「これ、どういう状況だ?」
「私にもわかりません」
「わからないのに平然としていられるのがすごい」
「考えてもわからないことを延々考えるのは疲れますので」
「それもそうか」
穏やかな日々は、しかし父の来訪で破られた。
「エレーヌ。おまえをアダン侯爵家のご子息に嫁がせることになった」
「……またですか」
思わず本音が漏れた。
父は聞こえないふりをした。
「グラン伯爵家とは正式な婚約ではない。問題あるまい。侯爵家だぞ、格が違う」
「今度は何を受取ったんですか」
「結納金を」
「いつですか」
「昨日」
変わらない。
まったく成長していない。
「ご子息はどのような方で」
「少々気性が荒いとは聞くが」
「聞くだけで危険な匂いがいたします」
「家のためだ。わかってくれ」
家のため。
便利な言葉。
都合の悪いことを娘に飲ませる時、実に便利である。
だがその瞬間、エレーヌは初めて、自分の胸の奥にある感情をはっきり意識した。
嫌だ。
帰りたくない。
またどこかへ雑に回されるのは、もう嫌。
ここがいい。
グラン家の書庫も、王都の空気も、王宮のサロンで過ごす静かな茶の時間。
全部、手放したくない。
「……一週間だけ、お待ちください」
「何を考える必要がある」
「私が考える必要があります」
「エレーヌ」
「今度ばかりは、私が決めます」
父は驚いたように娘を見た。
おそらく初めてのこと。
エレーヌがこれほどまっすぐ、自分の意思で言葉を返したのは。
その夜、彼女はアルベールに手紙を書いた。
何度も書き直し、最後にこう結んだ。
『私はたぶん、今まで自分で何かを選んだことがほとんどありませんでした。流されて、たらい回しにされて、そのたびにたまたま無事だっただけです。でも今回は、初めて嫌だと思いました。ここを離れたくないのです。書庫も、この街も、あのお茶の時間も。あれを失うのは嫌だと、はっきり思いました』
翌朝、返事は驚くほど早く届いた。
『それは我が儘ではありません。選ぶということです。ようやく、あなたがご自分で一つ選ばれたのですね。でしたら今度は、こちらから伺わせてください。あなたが離れたくないと思ってくださったものの中に、私も含まれているのかを、直接お聞きしたい』
手紙を読んだ瞬間、エレーヌはしばらく動けなかった。
その翌日。
王宮から正式な使者がヴァロワ男爵家を訪れた。
王太子アルベール殿下が直々に面会を望んでいる、と。
父は腰を抜かした。
本当に抜かした。
王宮のサロンで向かい合ったアルベールは、いつもより静かな声で言う。
「手紙を読みました」
「はい」
「あなたが初めて自分で選びたいと思ったのが、あの場所であったことを嬉しく思います」
「……はい」
「ですが、欲を言えば」
アルベールはわずかに笑った。
「その中に、私も入れていただきたい」
「殿下」
「単刀直入に申し上げます。私はあなたに惹かれています」
「……どのような意味で、でしょうか」
「全ての意味で」
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