第四話 たらい回し令嬢は伝説となる
エレーヌは息を呑む。
「最初は、珍しい方だと思いました。私に疲れていると告げた最初の人で、舞踏会を情報量が多いと評した最初の人で、王宮でさえ書庫の有無を気にする人だった」
「それは……事実です」
「ええ。そして話すほどにわかりました。あなたは自分では何もしていないと言いますが、違う」
「違うのですか」
「あなたは、ただそこにいて、相手の力を抜かせる。取り繕わず、媚びず、騒がず、それでいて誰よりもよく見ている。私はあなたといる時だけ、先に笑う必要がない」
「……」
「あなたの前では、私もただの一人の人間でいられる」
その言葉は、エレーヌの胸の奥に静かに落ちた。
熱い告白というより、ずっと以前からそこにあった真実を、一つずつ丁寧に並べられるような響き。
「だから、できればあなたに、私の隣にいてほしい」
アルベールはまっすぐ彼女を見る。
「王太子妃として、だけではなく。私が休み方を忘れそうになった時、また遠慮なく指摘してくれる人として」
「……随分、変わった求婚理由ですね」
「あなたに言われたくはありません」
「それもそうですね」
エレーヌは小さく笑った。
気づけば、緊張より先に安堵が来ていた。
「一つ、確認してもよろしいですか」
「何でしょう」
「王宮の書庫は」
「グラン家より広いです」
「出入りは」
「あなたが望むなら、自由に」
「新刊予算は」
「無論」
「……なるほど」
アルベールは目を細める。
「それだけですか」
「いえ」
エレーヌは少しだけ迷ってから、正直に言った。
「もう一つ」
「どうぞ」
「殿下とお茶を飲む時間も、失いたくありません」
「……」
「先ほどのお手紙の問いへの答えです」
「私も、です」
アルベールは静かに笑う。
今度の笑顔は、最初の頃のような作られたものではない。
「では、返事を」
エレーヌは大きく息を吸う。
「お受けいたします。ただし」
「ただし?」
「書庫の鍵は、本当に預けていただきます」
「喜んで」
こうして、ヴァロワ男爵家の三女エレーヌは、王太子妃となることになった。
社交界は騒然とした。
半年前まで、問題のある婚約者候補として雑に送り込まれた男爵令嬢が、気づけば王太子の婚約者になっていたのだから無理もない。
どんな策を弄したのか。
どんな魔法を使ったのか。
どんな手練手管で王太子を落としたのか。
だが当のエレーヌは、首を傾げるばかり。
「特別なことはしておりませんが」
「では、どうして」
「毎回ぎりぎりで、状況の方が勝手に変わっただけです」
「ご自身では?」
「主に本を読んでいました」
「……はあ」
「あと、お茶を」
「……そうですか」
後に社交界では、彼女はこう呼ばれるようになる。
奇跡の令嬢。
どこへ回されても何故か無事で、
雑に扱われたはずなのに気づけば格が上がり、
しかも本人にはその自覚が薄い。
だがアルベールだけは知っていた。
奇跡の正体は、魔法などではないことを。
彼女はただ、そこにいるだけで人の力を抜く。
言うべきことを言い、見ているものを見て、欲しいものを欲しいと認める。
それだけのことを、誰もができない場所で、彼女は当たり前のようにやってのけるのだ。
婚約発表の日の夜、レジナルドから手紙が届いた。
『驚いた。でも、何となく納得もした。君はそういうやつだった。あと書庫の本は好きなだけ持っていっていい』
エレーヌは微笑んで返事を書いた。
『ありがとうございます。あなたも次にどなたかを好きになる前に、少しだけ考える癖をつけてくださいませ』
返ってきたのは、
『うるさい』
の一言。
伯爵夫人からの手紙も来た。
『あなたが来てくれた半年、本当に楽しかったわ。ところでレジナルドがまたやらかしたのだけれど』
エレーヌは丁重に、
『その件は今後、私の管轄外でございます』
と返す。
父からも手紙が来た。
内容はだいたい、
『お父様も最初からこうなると思っていた』
というもの。
エレーヌはしばらく便箋を見つめた後、
『左様でございましたか』
とだけ返しておいた。
それで十分だろう。
さて。
王太子妃となった後も、エレーヌはあまり変わらなかった。
人より少し正直で、取り繕うのが下手で、危ういところをなぜか毎回くぐり抜け、そして新しい場所へ行くと最初に書庫の位置を確認する。
そんな彼女を見て、ある貴婦人が尋ねる。
「エレーヌ様。いつも不思議なほどお助かりになりますのね。秘訣はございますか」
エレーヌは少し考えてから……
「秘訣というほどのものは。ただ、嫌なことは嫌だと、最近は言うようにしております」
「それで奇跡が?」
「いえ。奇跡はよくわかりません」
「では、何が」
「さあ」
エレーヌが隣を見ると、アルベールが静かに笑う。
「たぶん、毎回ちょうどよく、誰かが見つけてくださったのでしょう」
「誰が?」
「さて。どなたでしょう」
アルベールは何も言わない。
ただその目は、舞踏会の夜よりずっと穏やかだった。
雑に回され、使われ、たまたま無事で、気づけば王太子妃。
そんな人生は、たしかに少し不思議かもしれない。
けれどエレーヌにとっては、最後にようやく、自分で選んだ場所へ辿り着いただけ。
そしてその場所には、広い書庫と、美味しい紅茶と、ようやく休み方を覚えつつある王太子。
それだけあれば、エレーヌは満たされてしまうのだから。
最後までお付き合いありがとうございました。
たらい回しにされながらも、ギリギリで致命傷回避し続けるエレーヌ。
きっと今後も、ギリギリで回避を続けていくでしょう。
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