第2章 第52話 奴隷商人の誘拐
深閑とした空間だった。
寒々しい静けさに満ちたそこは。
――記憶領域の螺旋書庫。
ヴァミリド神教国を母体とする宗教団体、星灯録教会が崇める女神である、ベルザの異界だ。
魔力の流出を阻害する鉱物、淵鉱を用いて築かれた壁に閉ざされている、円形の空間で――。
その硬い壁を刳り貫いて常備されているのが、壁一面に並ぶ書架である。
分厚い書物が、びっしりと敷き詰められた棚は隙間がない。
空間の中心には、上と下を繋いでいる螺旋状の階段が連なっていた。
しかし、その螺旋階段は書物が置かれた棚とは隣接しておらず、どういった経緯で建造されたのか、用途が不明瞭に思えた。
はなから、階段としての機能は求められていないのかもしれない。
書架と螺旋階段の間は、谷間のような深さで床と天井が見えなかった。
彼方まで、無数の本と棚で埋め尽されている。
記憶領域の螺旋書庫は、女神が構築した異界だ。
外界の常識が通じない。
そんな女神の秩序で創造された異界が、どういった構造かを推し量るのは〈神族〉と同格の存在でもないと、徒労に終わるだろう。
「そう言えば……カノンが死んだってさ」
無音の異界に、声が聞こえた。
全体に男児の声音が響き渡る。
見れば、螺旋階段の中程に人が寛いでいた。
――いや。
それは、〈人間族〉に該当する種族ではない。
外見上は上記で間違いないのだろうが、しかし。
此処、女神ベルザの異界――記憶領域の螺旋書庫にいる時点で、その者が下界の生物とは異なるのは明白。
子供用に作られた黒いタキシードを着こなし、首元には蝶ネクタイを下げている。
白と黒で纏められた装いに、濡羽色の異色が際立っていた。
顔の上半分を隠す鉄仮面だ。
何らかの獣を象っているのだろう。
狼の顎に、鹿のように枝分かれした角が生えている歪な形状をしていた。
「いや、勝手に殺してやるなよー。可哀想だろ、エリアルが」
――あっはははは。
と、心配している様子が微塵も感じられない女児の笑い声。
姿は見えないが、声の方向からして上階にいるようである。
「そっち? カノンの身を案じてあげなよ」
「必要無いっしょー……てか、もう死んでんだし? 心配するだけ損じゃない?」
「泣いてたよ、カノンが死んで」
「誰が?」
「彼の契約者、女神エリアルが」
「随分と堅苦しい言い方をするねー。そんな清廉な関係でも無かったでしょ。いつから、管理者の閲覧会に媚び売るようになったのさ、ソトース」
「ボクは事実を言っただけだよ、ドロシー。媚びてもないし……まあ、口は出すけど」
それを聞いて。
――あははははっ。
と、ドロシーが無邪気に笑った。
「ついでにさ、ソトース」
「なに?」
「手も出しちゃえば? 傷心中のエリアルを精神的に追い詰めるチャンスじゃない? 管理者の閲覧会の執行者が堕ちるなんて、ここ数百年無かった大事なんだしさ」
「無理だよ。ボクじゃ、逆立ちしてもエリアルには勝てない。ボク、めっちゃ弱いもん」
「じゃあ、逆立ちした状態でバク転したら、どう?」
「勝てる、かも」
「さっすがアタシのソトース、やるじゃんよ」
どういう基準なのか。
褒められたソトースは、何故か自信ありげだった。
「――でも、わざわざボクが出張る必要は無いかもね」
「えー、そうなのー? 残念だなー」
と言うドロシーも、現況は既に理解済み。
エリアルにちょっかいをかけるつもりは無かった。
「ベルザ様が事後処理に出向いて行ったし……何か、色々大変みたいだよ」
「ふーん、そうなんだー」
「カノンが死んで、そのせいで管理者の閲覧会の議会にあらぬ疑いを向けられたらしいね」
「あーね? 確かに、あそこの老人連中はベルザ様のことを……というか、〈神族〉のことをあんまし良い感じには思ってないもんね。ついこの前も〈魔女〉の禁術が、あーだこーだって煩かったし」
「うん。まあ、〈魔女〉は兎も角として……今回の件に関しては知らぬ存ぜずで通すには、少し事が大き過ぎるんだよ」
「そうかなー? 馬鹿な堕天使が下手打っただけっしょ」
ドロシーが、そう切り捨てる。
しかし、ソトースが把握している状況は戯言で片付けられるものではかった。
「普段、これといった悩みも抱えてないドロシーにしたら、なんでもない事柄なのかもしれないけどさ……」
「いやいや、失礼だなー。アタシだって? 悩みの一つや二つ、あるし?」
「そうなんだ、ごめんね」
「教えてほしい?」
「いい」
「分かった、教えてあげるね」
「……いや。否定的な意味の、いいってこと」
「最近さー……」
と、ドロシー。
どちらにしろ、話したいようだ。
「寝癖が酷いんだよねー」
「ちっさ」
思い悩むほどでもない。
聞いて損した、とソトースが溜息をこぼした。
「ちゃんと髪を乾かさずに寝るからでしょ」
「えー! だってさ、だってさ! そんなの時間の無駄じゃんよ!」
「その無駄を省いた影響で、ドレッドヘアーみたいな寝癖を生み出したんだよ」
「良いね! なんか、かっこいい!!」
「そう……?」
「うん! イメージチェンジってことで、良しとしよう!」
ドロシーは快活に言った。
本人がそれで納得したなら、ソトースも叱責はしない。
手元に用意していた魔導書に目を落とす。
表紙を捲り、黙読しようしたとき――。
「貴方達はいつもいつも、騒がしいですね。ここは静謐と清浄が凝集された女神の図書なのですよ。少しは、その発情期の〈豚鬼人〉より耳障りな鳴き声を沈めて下さい」
カツカツ、と足音が鳴って。
螺旋階段を上がって来たのは、鴉の嘴を象った濡羽色の鉄仮面を着け、踝丈のローブを纏った修道女。
その右手には、瑠璃の灯火が漏れる角灯――黄泉灯アルスタラを下げている。
異界、記憶領域の螺旋書庫の主、女神ベルザだ。
「……あ、ベルザ様……おかえりなさい……」
「あはっ! ベルザ様だ、おかえり~」
「ただいま、ソトース。……それと、小うるさいドロシー」
ソトースには、ニコリで微笑んで――
対してドロシーには、嫌味を返した。
「ベルザ様、ひどーい。ドロシー傷付いちゃったぞっ」
えーんえーん、とドロシーが嘘泣きをする。
そういう態度も慣れたものなのだろう。
相手にせず、ベルザは告げた。
「昨夜、星々の墓場――女神の聖杯機にて、管理者の閲覧会の一席である執行者、《碧落》のカノンが凍結されました」
「え……? 死んだんじゃないの……ですか?」
ソトースは魔導書を閉じて、疑問を口にする。
外界――レネイストに放っている眷属からは、カノンが死んだと耳にしていた。
「うーん、どうでしょうねー」
と、ベルザ。
ソトースの横に腰を下ろして続ける。
「最終的には死に至る……のかもしれませんが」
「かもしれない?」
「ええ。まだ、確定事項ではありませんので。現段階で死亡とは断定出来かねます。封印……いえ、就寝が近い状態でしょうか」
「寝不足なの……ですか? カノンは」
「無理して敬語を使わないでいいですよ、ソトース」
ベルザが口元に優しい笑みを浮かべ、ソトースの頭を撫でる。
感情を表に出さないソトースは、しかし心なしか嬉しそうだった。
「管理者の閲覧会は過酷な労働環境ですし、常時深刻な人手不足です。執行者の業務も年々、増え続けています。昨今では〈魔王〉の侵略行為や〈魔女〉の生誕も重なり、執行者だけでは補いきれない御時世に変わりつつある」
――カランカラン。
ベルザが黄泉灯アルスタラを揺らす。
そこから漏れる灯火を、ソトースがジッと見つめた。
「星骸暦から現代――紅凱暦に改暦し、世の中の……下界の情勢は日々変化をしています。その変わりようは、最早管理者の閲覧会が管理できる社会ではない。彼らの、星の管理者としての役割は、とうの昔に廃れていたのでしょう」
ベルザの声色は、この書庫の空気よりも冷えていた。
鉄仮面に隠れた瞳で、中空の先を見据えるベルザは。
「――っと、すみません。傍観主義を謳っている私にしては、随分と踏み込んだ話を展開してしまいましたね」
ソトースは何も言わない。
真剣にベルザの発言を聞いて考えていた。
それが分かっているのか、ベルザはもう一度頭を撫でる。
「此処、記憶領域の螺旋書庫は入り組んだ歴史を語る講義室ではありません。世界の……星の歩みを記録し保管する、女神の清浄な領域」
「あはっ、その清浄って言い回し好きだよねー、ベルザ様」
と、これまで黙っていた。
否、興味が湧かない話なので聞いていなかったドロシーが茶々を入れる。
「陰湿な女神様がいる時点で? この異界は清浄とは程遠い、きったない瓦礫の集積所だと思うなー」
――クスクスクス。
ドロシーが含み笑いをした。
そんな躾のなっていない女児に、ベルザが。
「やれやれ。瓦礫ではありません。歩みを記録する書物ですよ。何度説いたら、その出来の悪い頭に刻まれるのやら」
ベルザが螺旋階段の支柱に掌をあてる。
すると、異界が脈動して――。
「ふぎゃあああっ……!!」
離れた上階で、ドロシーが悲鳴を上げた。
ソトースが呆れたように、しかし僅かな笑いを滲ませ口元を歪める。
彼にはベルザが、何をしたのか見当がついたのだろう。
「悪い子にはお仕置きが必要ですからね」
ベルザも本気で怒っているわけではなかった。
舐めた口をきいた娘を叱っただけ。
うー、と呻いているドロシーを放って、ベルザが言う。
「ドロシーは物覚えが悪いですが、一つ勘の良いことを発していましたね」
ソトースが顔を向ける。
「陰湿な女神……彼女、メノアに相応しい蔑称です」
「いや、それベルザ様を指して言った……何でもないです」
ベルザに微笑まれて、ソトースは押し黙る。
上位の存在であり、主人でもあるベルザに言い返す胆力は持ち合わせていなかった。
ベルザの意見を否定でもした日には、その黄泉灯アルスタラで魂を黄泉の世界に送られるだろう。
ドロシーが優しいお叱りで済んでいるのは、そういう性格だと割り切られているからで――。
しかしながら、ベルザという女神は気分屋だ。
些細な反論で不機嫌になり、滅ぼされないとも限らない。
それが千年近い時を過ごし付き従った、ソトースであろうと。
「女神メノアは……いえ、あの自称女神を正式に女神と呼称するのは、私の沽券にかかりますのでやめましょう」
ベルザが唾棄する。
そして、改めて口を開いた。
「イカれクソアマは、私との誓約を破りました。これは大変、遺憾なことです。ええ、私はとっても怒っちゃっていますよ、ぷんぷん」
と、起伏のない声で怒りを表す。
傍から見ると、平常に思えるが――。
ベルザと長い付き合いのソトースは、内心で慄いていた。
「それは……何に対して、でしょうか……? 神殺しの〈勇者〉灰を、身勝手に〈邪神族〉へと転生をさせたこと? 転生をしたノワールを、力に制約がかかる女神の聖杯機で滅ぼす計画を反故にしたこと? それとも、言い訳にもなっていない自分語りとポエムが混じった、恥知らずな手紙を送り付けてきたこと、かな?」
「全部ですよ、全部。あまり思い出させないで下さい、ソトース。怒りのあまり、思わず貴方をうっかり殺してしまうかもしれません」
「ごめんなさい。お口にチャックしておきます」
「賢明ですね。私のストレスを発散する矛先にならないよう、気を付けて下さい」
ソトースが人差し指と親指の腹を合わせ、口を閉じる仕草をした。
簡潔に出来事を要約しただけだったのだが、ベルザの気分を害したらしい。
「あのイカれクソアマが馬鹿げた真似をしでかそうと、どうでもいいんですよ、どうでも。私は清廉潔白で、人々から愛され敬われる女神様なので、器がすんげー大きいのです」
「すんげー……」
「――ですので、メノアが私を裏切ったことは、ちっっっっっとも気にしていません」
凄い気にしている、とソトースは思った。
だが、賢いソトースは指摘をしない。
「それより、いまは〈魔王〉の方が問題……大問題なのです」
「〈魔王〉……?」
――はて。
ソトースが小首を傾げる。
勿論、〈魔王〉の存在は知っているが、それがどうしたのか。
大昔には、少し〈神族〉と〈魔王〉でいざこざがあった。
けれど、最近は争いになるような事案は起きていない。
「はい、〈魔王〉の一角……奴隷商人の妖亜が、私の管理している孤児院から、数人拉致したのですよ」
「命知らずですね。ベルザ様の所有物を略奪するなんて」
「そうでしょう、そうでしょう」
共感されて、ベルザが満足そうに頷いた。
打って変わり、冷血に続ける。
「そんじょそこらの小汚い餓鬼共だったら、野垂れ死のうが人体実験の被験者にされようが、どうだっていいのです。……しかし先日、〈魔王〉妖亜が盗んだ、私の可愛い子供達の中にはお気に入りがいました」
「――と言うと……ガイアとヴェガ、ですか」
「はい。彼らの魂は清廉で美しい。成長の輝きを秘めた、他に代えがたい個体でした。……なので、私が自ら孤児院の修道女になり、私の絶大な包容力で二人を愛し育てていたというのに……」
「ベルザ様が管理者の閲覧会に、先の件で呼び出しを食らっていた頃を見計らい、拉致されたわけですか」
「いえ、時間的には議会の尋問は終わっていました」
「……じゃあ、なんで?」
ベルザが管理者の閲覧会に出向いていたのは、約三時間。
盗みを働き逃げるには十分な猶予ではある。
隠蔽工作や誘拐が得意な妖亜には、容易な犯行だろう。
「そのー……」
「……?」
言いづらそうなベルザ。
ソトースは怪訝に思いながらも待った。
――数秒の沈黙。
意を決したのか、ベルザは口を開いた。
「仮に……仮にですよ? 私が他所様の下着を盗んだとして」
「なるほど。全て、理解しました。尋問終わりの帰り道に、幼子の下着を物色していて帰宅が遅れた。荒い鼻息で生暖かいパンティーに興奮していた同時刻に、あろうことか〈魔王〉妖亜に孤児院の子供を攫われていた、と」
――下着の泥棒。
ベルザと関わりの無い者が聞けば、唐突に何を言っているのやら、と思うのが普通の反応だ。
しかし、ベルザの本性を熟知しているソトースは、最初の発言で全容を察した。
星灯録教会に崇め祀られている清廉な女神ベルザは、脱ぎたての下着を収集するのが大好きなのである。
「待って下さい。私が盗んだのは水色の絹で縫られたパンティーですが、温かさは感じませんでしたので、洗濯後のパンティーだと思いますよ?」
「詳細な色と素材は聞いていませんが、盗んだのは認めるんだね、変態ベルザ様」
「うっ……謂れのない誹謗です。長年連れ添った眷属に変態呼ばわりされるとは、私はなんて哀れな女神様なのでしょうか」
およよよよ、とベルザが手で顔を覆う。
わざとらしい演技だ。
ソトースは視線を外し、胸中で呆れる。
(本人の性質が起因しているのはそうなんだろうけど……絶対、ドロシーの性格はベルザ様の人柄が反映された結果だよなぁ)
それが良いのか悪いのか。
ソトースは考えるのをやめた。
《魔法》で召喚された従魔や、人工的に造られ支配された傀儡が、創造主の人物像に影響され似るのは、結構あることだった。
(その点、〈魔王〉妖亜は別格かもしれないね。彼女は支配に長けていて、自身の望む形で傀儡を使役出来る。改造を施した人形の性能を底上げするのも簡単だろうし)
と、分析をして――。
ソトースは読みかけの魔導書の頁を捲った。
【次話予告】
〈魔王〉により盗まれ改造された傀儡――。




