第九話「名前の災厄」 ― 使者団 ―
二日二晩、馬を乗り継いで駆け通して、町の東門をくぐったとき、アルの足は、もう棒のようだった。
「……あと、どのくらい」
「訓練場まで、あと少しだ」
司書が、肩の上で息を整えている。青はバケツの底でぐったりと伸びていて、猫は、とっくにアルの頭の上で寝息を立てていた。
ガルドが、後ろを振り返った。
「来ているぞ」
石畳の向こうから、蹄の音が近づいてくる。十二騎。ギルド上層の紋章を掲げた、揃いの外套の騎士たち。その真ん中に、一台の馬車。
「馬車の護衛で、速度を落としているのだろう。だが、距離は、ほとんどない」
アルたちは、最後の力を振り絞って、訓練場に駆け込んだ。
そこには、すでに受付嬢と職員が立っていた。石板の前で、ふたりとも、落ち着かない顔をしている。
「アルさん!」
「ごめん、遅くなった」
「評価は……いえ、そんな場合じゃなくて」
受付嬢が、声を落とした。
「使者の方々が、もうすぐ、ここに」
その言葉が終わらないうちに、騎士たちが、訓練場の入口を塞いだ。
馬車から、一人の女性が降りた。背筋の伸びた、六十前後の女。灰色の髪をきっちりと結い上げて、手には、封をした書状を持っている。
女は、石板の前まで歩いてくると、アルの前で、足を止めた。
「アル、ですね」
「はい」
「ギルド上層、監察官のセイラです」
女は、書状を軽く掲げた。
「あなたが持っている、石を渡しなさい」
「理由を、聞いてもいいですか」
「ギルド財産の無断持ち出し。および、危険個体の無許可の同伴。上層からの命令です」
「危険個体って……」
アルは、足元の三体を見た。猫は、頭の上でまだ眠っている。青は、バケツの縁から顔を出して、あくびをした。
「どこが危険なんですか」
「石は、危険です。名の石は、百年前に封印されました」
セイラの声は、静かだった。
「理由を、知っていますか」
「知りません。教えてください」
セイラは、少しだけ、アルを見つめた。
それから、語り始めた。
「百年前、まだ石板が、数字ではなく、名を映していた頃のこと」
訓練場の空気が、わずかに冷えた。
「名を呼ばれた魔物は、その名に見合う存在へ変わる、と記録にあります。強く、賢く、大きく。けれど、名は、呼んだ者の手を離れても、残る。主が死ねば、名は主を探して、さまよう。そして、暴れる」
「……暴走」
「いくつもの村が、消えました。私の故郷も、その一つです」
セイラは、懐から、古い紙の切れ端を取り出した。
「上層は、石板を作り替えました。名を呼べないように。数字だけが、出るように。以来、百年、同じ災厄は、一度も起きていません」
アルは、何も言えなかった。
セイラは、ほとんど感情を見せずに、続けた。
「私は、人を守るために、数字を選んだ。その判断は、今も正しかったと信じています」
静かな時間が、流れた。
そのとき、司書が、ぽつりと口を開いた。
「質問がある」
「……フクロウが、質問?」
セイラが、わずかに眉を上げた。
「その記述は、一次資料に基づくものか」
「封印文書の写しです」
「写しか。原本は」
「失われています」
「では、『名が暴走の原因だった』という部分は、確認されていない」
「被害は、事実です。村の跡が、残っています」
「被害が事実であることと、原因が名であることは、別の命題だ」
セイラの口元が、わずかに引き結ばれた。
「……分かっています」
低い声だった。
「だから百年、誰も確かめなかった。確かめるのが、怖かったからです」
司書は、何も言い返さなかった。
アルが、一歩前に出た。
「確かめに行ってきました」
「……何を」
「遺跡に」
アルは、石の板を取り出した。二枚が合わさった、少し大きな板。
「壁に、絵がありました。人と魔物が、並んで立ってた。魔物の下に、名前が彫ってあって」
「それが、何か」
「暴れてる絵は、一枚もなかった。全部、人が隣にいた。……俺が見た範囲だけですけど」
セイラは、じっとアルを見つめた。
「それは、反証になりません」
「分かってます」
司書が、静かに言った。
「反証にはならない。だが、検証に値する」
「検証に値する、ではなく」
セイラは、書状を握り直した。
「命令です。私には、裁量がありません」
そのとき、受付嬢が、胸に台帳を抱えて、一歩前に出た。
「あの……」
「何です」
「ギルド憲章の、第一条を、ご存じですか」
「もちろん」
「読み上げます。『魔物と人の双方に、居場所を与えること』」
受付嬢の声は、震えていた。
「このギルドは、そのために、作られたはずです」
「……」
「私は、ただの受付です。評価も、決められません。でも、この二週間、この方が持ってきた落し物の山を、台帳に書きました」
受付嬢は、台帳を開いた。
「持ち主に返った品が、二十三件。その中には、三十年探していた、辞書もありました」
「私も、見ました」
職員が、ぼそりと言った。
「花壇は全滅でしたが、床下の水路も、見つかりました。あの猫がいなければ、廊下ごと沈んでいた」
セイラは、何も言わなかった。
ただ、石板を見つめていた。
「……憲章は、存じています」
やがて、セイラが言った。
「ですが、憲章と、命令は、別です」
セイラが、手を上げた。
後ろに控えていた騎士たちが、一斉に、剣の柄に手をかけた。
「石を、渡しなさい」
アルは、石の板を、強く握りしめた。
青が、バケツの縁に身を乗り出した。司書が、静かに羽を広げた。猫が、頭の上で、ぱちりと目を開けた。
「……嫌です」
アルが言った。
声が、少し震えていた。
「俺、弱いんで。戦えないし、止められないかもしれない。名前を呼んだ奴が、暴走したら、俺には、止められない」
「ならば、なぜ」
「でも、こいつらは、止めてくれる」
アルは、足元の三体を見た。
「俺が言わなくても、こいつらは、自分で考えて、動いてくれた。……強いから、じゃなくて」
「……」
「呼んだ名前に、責任を持つのは、俺一人じゃなくていい。そう思ってるんです」
セイラの目が、わずかに揺れた。
けれど、それは、ほんの一瞬だった。
「取り押さえなさい」
騎士たちが、一歩、前に出た。
そのとき、ガルドが、すっとアルの前に立った。
「待っていただきたい」
「ガルド」
セイラの声が、冷たくなった。
「あなたは、査定部の人間でしょう」
「その通りです。この案件の査定責任者として、発言します」
ガルドは、懐から、一枚の書類を取り出した。
「査定は、保留中です。保留中の案件は、査定部の許可なく、没収できない。規定第十二条」
「上層の命令が、優先されます」
「規定第十二条には、『上層の命令を除く』という但し書きは、ありません」
セイラが、目を細めた。
「……屁理屈を」
「規則を、読んだだけです」
ガルドは、まっすぐに、セイラを見つめた。
「私は、これまで、数字を信じてきました。数字は、誰にとっても同じものだと思っていた」
低い声で、続ける。
「ですが、この二週間で、数字に映らないものを、いくつも見ました。それを、見なかったことにはできません」
ガルドは、剣を抜いた。
切っ先は、騎士たちには向けない。ただ、地面に突き立てて、その柄に、両手を置いた。
「この案件の、没収命令を、拒否します」
騎士たちが、ざわついた。
セイラの顔が、わずかに歪んだ。
「……それは、反逆行為です」
「承知しています」
訓練場に、重い静寂が落ちた。
アルは、ガルドの背中を見た。それから、足元の三体を見た。
青が、小さく言った。
「ねえ、アル」
「……何だよ」
「いってみても、いい?」
アルは、石板を見た。訓練場の中央に、静かに立っている、あの石板。
その窪みまでは、セイラと騎士たちの背後を、通らなければならない。
距離は、およそ二十歩。
「……ああ」
アルは、息を吸った。
「頼む」
「待て」
司書が、言った。
アルは、思わず司書を見た。
「……なんだよ」
「今回は、私も、いってみようと思う」
「は?」
「検証は、あとだ」
司書は、羽を大きく広げた。
その瞬間、セイラが、鋭く叫んだ。
「取り押さえなさい!」
騎士たちが、一斉に駆け出した。
アルは、石の板を、強く握りしめた。
「青! 司書! 猫!」
三体が、同時に、アルの声に応えた。
「──やれ!」




