第十話「名前を呼ぶ者」 ― 最終話 ―
最初に動いたのは、青だった。
「いってきまーす!」
青は、ひゅっと細くなって、地面すれすれを一直線に伸びた。紐のように、騎士たちの足元を、すり抜けていく。
先頭の三人が、見事に、足を取られた。
「うわっ!?」
「何だこれ、スライムか!?」
「ぼくだよ! ほどけない! ごめんね!」
青は、騎士たちの足首と足首を、ぐるぐるに結んでいく。
「結ぶな! ほどけ!」
「だめ! ほどくのは、ぼくの仕事じゃないの!」
「その理屈は、おかしいだろ!」
その頭上を、司書が、すっと飛び越えた。
騎士の兜の目の前に、羽ばたいて、ぴたりと止まる。
「質問がある」
「は?」
「あなたは、この命令の内容を、読んでいるか」
「え、いや、俺は、ただ──」
「読んでいないなら、検証が必要だ」
「今は、戦いの最中だぞ!」
「だからこそ、だ」
司書は、騎士の鼻先で、羽を大きく広げた。視界が、羽でいっぱいになる。
騎士が、剣を振り回した。かすりもしない。
その足元の地面に、ぼこっ、という音が響いた。
「にゃ」
穴掘り猫が、一直線に、土を掘り進めていた。
騎士たちが突進してくる、その通り道に、深さ膝までの穴が、ぼこぼこと並んでいく。
「うわっ!」
「ぐっ!」
三人、四人、五人が、一斉に穴に足を取られて、ごろごろと転がった。
その横で、ガルドが、剣を地面に突き立てたまま、二人の騎士を、片手で押し返していた。
「ガルド! 貴様……!」
「怪我はさせません」
「この……!」
「ただ、通らせない」
受付嬢と職員も、いつの間にか、石板の左右に並んでいた。
「ここは、通しません!」
「……勝手に走り回るな、F級」
職員が、バケツで、騎士の一人の足元に水をぶちまけた。
「何だそれ!?」
「掃除です」
アルは、その間を、全力で駆け抜けた。
石板まで、あと十歩。
あと五歩。
あと──
「そこまでです」
目の前に、セイラが立っていた。
灰色の髪の、小柄な女性。
両手を、広げている。
武器は、持っていない。
「石を、渡しなさい」
アルは、足を止めた。
荒い息を、整える。
セイラの目は、まっすぐに、アルの手の石を見つめていた。その奥に、怯えのようなものが、ほんの少しだけ、見えた気がした。
アルは、ゆっくりと、手を差し出した。
「……どうぞ」
「え」
セイラの目が、見開かれた。
アルは、二枚が合わさった石の板を、セイラの目の前に、そっと差し出した。
「俺には、止められないかもしれない。だから、一緒に、見てください」
「……何を」
「石板が、何を映すのか」
セイラは、動かなかった。
アルの手の上の石の板を、じっと見つめている。
周りの、騒がしい音が、遠くなった。
司書の声が、静かに響いた。
「検証に値する」
セイラは、ゆっくりと、石の板を、手に取った。
指先が、わずかに震えている。
「……確かめるのは、怖いです」
「俺も、怖いです」
「あなたは、何も、失うものがないでしょう」
「いや、結構あります」
アルは、足元の三体を見た。
「こいつらが、いなくなったら、俺、また一人なんで」
セイラは、息を呑んだ。
それから、ゆっくりと、石板の前に歩み寄った。
窪みの前で、立ち止まる。
「百年、確かめなかった」
セイラは、小さく、呟いた。
「私が、確かめる」
石の板が、窪みに、そっと差し込まれた。
かちり。
石板が、低く唸った。
訓練場が、しんと静まり返った。
石板の表面から、青い光が、波のように広がっていく。足元の石畳の隙間を伝い、訓練場の端から端まで、光の糸が走った。
次の瞬間、石板の前に立っている者たちの上に、一つずつ、文字が浮かび上がった。
〈青いスライム 試す者〉
〈フクロウ 確かめる者〉
〈猫 掘り当てる者〉
それだけではなかった。
ガルドの頭上にも、文字が浮かんだ。
〈数字の外を見た者〉
ガルドは、自分の頭の上を見上げた。それから、小さく、息を吐いた。
「……何だ、それは」
そして、セイラの頭上に、ゆっくりと、文字が現れた。
〈守り続けた者〉
セイラは、動かなかった。
文字を、じっと見つめていた。
唇が、わずかに震える。
「……石は、人を、測らない」
司書が、静かに言った。
「石は、呼ばれるのを待っていた者を、映す」
「私は……」
セイラの声が、かすれた。
「ずっと、間違っていると、思っていました。数字にしたことが。でも、間違っていないと、信じなければ、ならなかった」
「間違っていた、とは、書いていない」
司書が、言った。
「石が映したのは、『守り続けた者』だ」
セイラの目から、静かに、涙が一筋、こぼれた。
騎士たちは、剣を下ろしていた。誰も、何も、言わなかった。
「……アルさん」
受付嬢が、小さく言った。
「あなたの、ところには」
アルは、自分の頭上を見上げた。
そこには、一行だけ、表示されていた。
〈アル 測定不能〉
「……俺のだけ、まだなんだな」
「石は、名を映す」
司書が言った。
「名は、誰かに、呼ばれて、初めて、そこに宿る」
「呼ぶ人が、いないってことか」
「そうだ。お前は、これまで、私たちに、名をつけてきた。『青』、『司書』、『穴掘り猫』。だが、お前自身には、まだ、誰も名を呼んでいない」
アルは、少しだけ、目を丸くした。
それから、苦笑した。
「いや、俺は、別に」
「呼ばれる必要がある」
「必要って」
「にゃ」
穴掘り猫が、アルの足元で、小さく鳴いた。
それから、ゆっくりと、アルを見上げた。
琥珀色の目が、まっすぐ、アルを捉えている。
そして、猫は、言った。
「……渡す者」
訓練場が、静まり返った。
アルは、息を止めた。
猫は、続けた。
「お前は、渡す者」
石板の光が、ふわりと揺れた。
アルの頭上の文字が、ゆっくりと、書き換わっていく。
〈アル 渡す者〉
青が、アルの肩に飛び乗った。
「アルだ! アルのも、書いてある!」
「……」
アルは、何も言えなかった。
喉の奥が、ひどく熱かった。
司書が、ゆっくりと、頷いた。
「試せ。確かめよ。掘れ。そして、渡せ」
四つの動詞が、静かに重なった。
「四人だったのだな」
「……ああ」
アルは、やっと、笑った。
「全員、揃ってた」
数週間後。
ギルドの受付に、新しい掲示板が掲げられた。
以前の「F級魔物・処分予定一覧」の上から、大きな紙が貼られている。
〈名前募集中の魔物たち〉
その下に、小さな札がずらりと並んでいる。性質の簡単な特徴。見つけた場所。連絡先。
「評価は……」
受付嬢が、アルの顔を見て、微笑んだ。
「変わりましたね」
「え、何が?」
「今は、石板が、名前を映します。数字は、そのまま残っていますけど、名前の欄のほうが、みんな、先に見るんです」
「へえ」
掲示板の前では、冒険者たちが、札を見て、ああでもない、こうでもない、と話し込んでいる。
その中に、見覚えのある大男の姿があった。
「……おい、鍵拾い」
「あ、あのときの」
「俺は、別に、お前に負けたわけじゃねえからな」
大男は、掲示板の札を一枚、ぐいと剥がした。
「こいつ、俺が引き取る」
「w めっちゃ負けず嫌いじゃんw」
「うるせえ」
大男は、札を握りしめて、ずんずんと歩いていった。
職員が、ぼそりと言った。
「……処分、減りましたね」
「そうだな」
受付の端には、一通の手紙が置かれていた。
ミナトからの手紙だった。「ドンと一緒に、毎日、旅人を渡しています。商人の人が、また来てくれました」と、不揃いな字で書かれている。
ミレ婆の古書店には、新しい看板が掛かった。「魔物も、歓迎」と、小さく。その裏側にも、同じ文字が書いてある。
ガルドは、査定部の仕事に戻った。ただし、査定の欄に、「名」の項目を、新しく加えるために。
セイラは、上層に戻った。
最後に会ったとき、彼女は、小さく言った。
「確かめ続けます。名が、何を呼ぶのか。……百年分、遅れましたが」
「検証に値する、ですね」
司書が、答えた。
「……ええ」
セイラは、ほんの少しだけ、笑った。
出発の朝。
町の東門の前で、アルは、三体を見回した。
青は、バケツの縁で、うずうずしている。司書は、肩の上で、地図を睨んでいる。穴掘り猫は、アルの頭の上で、半分眠っている。
「次は、どこに行く?」
「いってみよう!」
「待て。まず、確認を」
「にゃ」
「w 全員、別方向じゃねえかw」
アルは、笑いながら、懐の石の板を、そっと押さえた。
石板は、ギルドに戻した。懐にあるのは、一枚の、古い小さな石。ガルドが、「記念に持っておけ」と、そっと渡してくれたものだ。
「この世界には、まだ、誰にも見つけられていない奴が、いっぱいいるんだろ」
アルは、東の空を見上げた。
「じゃあ、次の奴を探しに行くか」
三体が、それぞれ違う方向を向いた。
青は、前へ。
司書は、周囲を見渡して。
穴掘り猫は、なぜか、地面へ。
アルは、苦笑した。
「……ほんと、まとまらねえなw」
それでも、三体は、アルの後ろを、ついていく。
**仲間だから。**
(完)




