第八話「名前の壁」 ― 二枚目の石 ―
扉の奥は、螺旋状の石段だった。
壁に埋め込まれた古い灯りが、アルたちが近づくたびに、ぽっと青く灯る。足元の段は、思ったより新しい。誰かが、何百年も、ここを磨き続けていたかのようだ。
先頭は青。次に司書、猫。その後ろをアルが歩き、最後尾にガルドが付いた。
「ガルドさん、足音めっちゃ重いですね」
「鎧を着ているからだ」
「w 外套の下に、鎧着てたんですか」
「備えだ」
階段を、十数分ほど降りたところで、壁の雰囲気が変わった。
石の壁に、絵が彫り込まれていた。
人と、魔物が並んで歩いている。二人、三人、四人。大きな獣と、小さな少女。翼のある蛇と、杖を持った老人。岩のような亀と、手を引く少年。
「……これ」
アルが、足を止めた。
「ドンじゃね?」
「岩亀だな」
司書が、壁の絵に近づいた。
「彫刻の下に、文字が刻まれている。……読めた。一つずつ、名前が付いている」
司書は、羽の先で文字をなぞった。
〈歩き通す者〉
アルの喉が、ひくりと鳴った。
「……それ、俺が見たやつだ」
「そうだな」
司書は、壁の端から端まで、ゆっくりと視線を動かした。
「こちらは『跳ね続ける者』。こちらは『静かに待つ者』。こちらは『運ぶ者』」
どの絵にも、人と魔物が、並んで立っている。そして、名前は、魔物の下にだけ、刻まれていた。
ガルドが、手帳を取り出して、黙々と書き写している。
「何を書いてるんですか」
「記録だ」
ガルドの声は、少しだけ、いつもより低かった。
「石板には、こういう名前は出なかった。数字しか、出なかった」
「……」
「いつからだ。数字しか、出さなくなったのは」
誰も、答えられなかった。
壁の絵は、さらに奥へ続いていた。階段は、いつの間にか、長い廊下になっている。
廊下の途中で、猫がぴたりと足を止めた。
「にゃ」
「どうした」
猫は、前足で、廊下の床を軽く叩いた。
それから、天井を見上げて、小さく鼻を鳴らした。
「……上か」
司書が、羽を広げた。
「天井の石が、わずかに沈んでいる。罠だ」
その瞬間、背後で、ごおお、と重い音が響いた。
「閉まる!?」
振り返ると、廊下の入り口側の天井が、ゆっくりと降りてきていた。巨大な石の板が、床との隙間を、少しずつ狭めていく。
「走れ!」
アルが叫んだ。
青が先に走り出す。司書は羽ばたき、猫も駆けた。アルも走る。
けれど、石の板が降りるのは、思ったより速かった。
廊下の中ほどまで進んだとき、天井が、アルの頭の高さまで降りてきた。
「くっ……!」
アルは、身を低くした。
背後で、ガルドの足音が止まった。
「……先に行け」
「は?」
「私が支える」
ガルドが、天井の石の板に、両手を押し当てた。
腕の筋肉が、盛り上がる。肩が、ぎりぎりと音を立てた。石の板の降下が、ぴたりと止まる。
「ぐ……」
「ガルドさん!」
「行け! 長くは持たん!」
アルは、一瞬だけ迷って、それから叫んだ。
「青! 先に行って、この廊下の先の仕掛けを探せ! 天井を止める何かが、きっとある!」
「いってみる!」
青が、紐のように細くなって、廊下の奥へ滑っていく。
「司書!」
「読んでいる。壁の文字だ。……『名を呼べ』」
「名?」
「違う。この廊下の仕掛けは、『ここで止まるな』とある。つまり、止まらずに通り抜けるための、何かがある」
「にゃ」
猫が、廊下の突き当たりで、立ち止まった。
床の一箇所を、前足で素早く掘り始める。
「猫、そこ!」
ざくざく、と土が飛ぶ。数秒で、石のレバーのようなものが、顔を出した。
「ほら、これだ!」
アルが叫んだ。
だが、レバーは、固く錆びついていた。猫の前足では、動かない。
「ぐ……動かない……!」
「ガルドさんは、動けない……」
アルが、歯を食いしばった。
そのとき、猫が、アルを見上げた。
そして、ごくごく小さな声で、言った。
「……右。二歩」
ガルドが、目を見開いた。
「今、猫が──」
「気にしないでください! あとで説明します!」
アルは、猫の言葉を信じて、右に二歩動いた。
足元の石板が、かちりと沈む。
次の瞬間、天井がぐらりと揺れた。
「うわっ」
廊下の壁から、細い石の楔が数本飛び出して、天井の石の板を、横から支えた。降下が、ぴたりと止まる。
ガルドが、肩の力を抜いた。
「……止まった」
息を荒げながら、ガルドは、天井から手を離した。
「……助かった」
「こっちのセリフですよ」
アルは、思わず笑った。
「今の、筋力が役に立った場面ですよね」
「……初めて、言われた」
ガルドは、少しだけ、ほんの少しだけ、口の端を上げた。
廊下の突き当たりは、小さな円形の部屋だった。
天井は低く、壁には、びっしりと名前が刻まれている。その中央に、石の台座が一つ。
台座の上に、一枚の石の板が、静かに置かれていた。
「……あった」
アルは、ゆっくりと近づいた。
手のひらに載るほどの、平たい石。アルが持っている石の板と、ちょうど同じくらいの大きさだ。刻まれた紋章も、同じ。
「取って、いいのか」
「罠はない。……推測だが」
「w 推測かよ」
アルは、石の板を、台座から持ち上げた。
何も、起こらなかった。
懐から、もう一枚の石の板を取り出す。二枚を、並べて持った。
その瞬間、二枚の石の板が、淡く光った。
切れ目が、ぴたりと合わさる。二つの石が、一つの、少し大きな板になった。
表面に、文字が浮かび上がる。
司書が、ミレ婆の辞書の写しを広げながら、ゆっくりと読み上げた。
「『これは、測るための石ではない』」
「それは知ってる」
「続きがある。『これは、名のないものを見出すための石』」
アルは、息を呑んだ。
「名の、ないもの」
「そうだ」
司書は、続きを読んだ。
「『石は、人を測らない。石は、名を呼ばれるのを待っている者を、映す』」
静かな時間が流れた。
ガルドが、手帳を握りしめたまま、ぽつりと言った。
「……石板が、強さを測っていたのではなかった」
「いや、測ってたぞ。ずっと、数字で」
「それは、後から、そう作り替えられたのだ」
司書が、続きの文字を指さした。
「もう一行ある」
「何て?」
「『数に塗り替えられたなら、二つの石を揃えて、元の場所に戻せ』」
アルは、顔を上げた。
「元の場所って……」
「ギルドの石板だ」
ガルドが、低い声で言った。
「あの隙間に、二つとも差し込めば、元の機能が戻る、ということか」
「そうだと、推測している」
「戻れば、どうなる」
「分からない」
司書は、少しだけ、羽を震わせた。
「だが、使者団は、それを望んでいない可能性が高い」
アルは、石の板を握りしめた。
三体が、アルの周りに集まった。青は、肩に。猫は、足元に。司書は、台座の上に。
「……戻ろう」
アルが、言った。
「使者団より先に、ギルドに戻る」
「間に合うか?」
「やるしかないだろ」
アルは、ガルドを見た。
「ガルドさん」
「何だ」
「あの石板を、もう一度、元に戻したいんです。手伝ってもらえますか」
ガルドは、しばらく黙っていた。
それから、手帳を、ぱたんと閉じた。
「……調査のためだ」
「w はいはい」
階段を上りきったとき、外は、明るくなりかけていた。
丘の稜線が、うっすらと白んでいる。
アルは、深く息を吸った。冷たい朝の空気が、肺の奥まで染みた。
「よし、帰ろう」
そう言いかけたとき、司書が、鋭く言った。
「待て。北東の方角」
アルが、司書の視線を追う。
遠くの丘の向こうに、小さな土煙が上がっていた。
「……馬か」
ガルドが、目を細めた。
「あの旗は、ギルド上層のものだ。……予定より、早い」
土煙は、まっすぐ、こちらに向かって来ていた。
青が、バケツの縁から、顔を出した。
「ねえ、アル」
「……行ってみたいんだろ」
「うん。でも」
青は、少しだけ、いつもと違う声で言った。
「今度は、急いだほうがいい?」
「……ああ」
アルは、石の板を、ぎゅっと握りしめた。
「急ごう」
「待て」
司書が、言った。
「急ぐと──」
「見落とす、だろ?」
「……そうだ」
「分かってる。でも、今は、急ぐ」
アルは、司書を見た。
「見落としは、お前が拾ってくれ」
司書は、一瞬だけ、目を丸くした。
それから、静かに頷いた。
「……了解した」
五つの影が、朝焼けの中を、ギルドに向かって駆け出した。




