第六話「いちばん遅い渡し守」 ― 旧街道へ ―
出発の朝は、薄曇りだった。
町の東門の前で、受付嬢が小さな包みを差し出した。
「保存食です。パンと干し肉と、あと、青さん用に干し草を少し」
「ぼく、干し草食べるの?」
「分からないけど、試してみてください」
「試す!」
青が、バケツの中でぴょんと跳ねた。結局あのバケツは、そのまま青の乗り物になっている。アルは右手にバケツ、左肩に司書、足元に猫という、妙に重たい隊列で町を出ることになった。
職員が、門柱にもたれて、そっぽを向いたまま言った。
「落し物係が、いなくなると困ります」
「帰ってきたら、また山にして持ってくるわ」
「……早めに」
アルは笑って、手を振った。
東の旧街道までは、徒歩で三日。ガルドがくれた二週間のうち、すでに一日が過ぎている。
最初の半日で、アルは、三体の旅のしかたが、ことごとくバラバラだと知った。
青は、道の端に何かを見つけるたびに、バケツから飛び出していく。
「あっ、キノコ! 光ってる! 食べていい?」
「だめw」
「蝶々! 追いかけてくる!」
「追われてんのはお前じゃなくて、蝶々の方だろw」
司書は、肩の上で、地図を睨んでいた。
「この先の分かれ道で、右に行くべきだ。左の道は、地図の更新が三十年前から止まっている」
「三十年前の地図で、よく真面目に調べてたな」
「記録は、更新されていない事実を、更新されていないと記録すること自体に価値がある」
「w 何言ってるか半分分かんないけど、右ね」
猫は、昼を過ぎたあたりで、アルの頭の上に乗っていた。
「にゃ」
「重い。降りろ」
「にゃ」
「降りないのかよ」
「にゃ」
「……じゃあ、そのまま寝てろ」
夕方、川に着いた。
「……あれ」
アルは、立ち止まった。
道が、川にぶつかっていた。地図には橋が描いてあるが、実際には、橋の両端の杭だけが、濁った水の中から顔を出している。川幅は、おそらく五十歩ほど。流れは、見るからに速かった。
対岸に、小さな集落が見える。
「橋、流されてるじゃん」
「昨夜までの雨で、増水した。水が引くまで、三日はかかる」
司書が、水面の高さを目測する。
「渡し船は?」
「あれが、渡し場の村だろう。船着き場に、人影がある」
アルたちが、川岸を上流に歩いていくと、手前側にも、数軒の家が並んでいた。渡し場の手前の村らしい。
宿屋の前で、年配の男が、腕を組んで川を見ていた。
「渡し船は、出んよ」
男は、アルの顔も見ずに言った。
「この流れじゃ、船は転覆する。水が引くまで、足止めだ」
「どのくらい?」
「三日、四日。運が悪けりゃ、一週間」
アルは、頭の中で日数を数えた。三日待てば、二週間のうち、ほぼ三割が削られる計算になる。
そのとき、村の奥から、少年の叫び声が聞こえた。
「ドンを売るなんて、絶対だめだ!」
見ると、広場に、人だかりができていた。
その中心に、巨大な岩の塊みたいな魔物が、のっそりと座り込んでいた。亀だ。背中に、岩のような甲羅を背負っている。丸い頭を、ゆっくりと左右に揺らしている。
その前に、少年が両手を広げて立ちふさがっていた。十二、三歳くらいだろうか。
「落ち着け、ミナト」
さっきの男が、近づいていって言った。
「ドンは、岩亀だ。荷を運ばせても、他の荷役魔物の三倍は時間がかかる。村の荷運びに、もう間に合わん」
「でも、ドンは、ちゃんと運ぶ! 一度も落としたことない!」
「遅いんだ。遅すぎる」
広場の端には、荷馬車が止まっていた。商人らしい男が、腕を組んで待っている。
「明日の朝、この魔物を引き取る。肉と甲羅が、少しは金になる」
「だめだ!」
ミナトは、涙目で叫んだ。
「ドンは、ぼくの友達なんだ!」
アルは、その様子をしばらく見ていた。それから、岩亀に近づいていった。
亀は、ゆっくりと、アルのほうに首を向けた。ぎょろりとした目が、ただじっとアルを見つめる。
眺めているうちに、アルの視界の端が、ふっとにじんだ。
〈歩き通す者〉
一瞬だけ。すぐに、消えた。
「……なあ」
アルは、ミナトに声をかけた。
「この亀、何歳?」
「分からない。ぼくが生まれる前から、この村にいる」
「川、渡れる?」
「え」
ミナトが、きょとんとした。
「渡れる。ドンは、水の中を歩けるから。でも、すごく遅いよ。流れが速いと、全然進まない」
「進まない、じゃなくて?」
「え?」
「止まらないんだろ」
ミナトは、少しだけ考えた。
「……うん。止まらない。ゆっくりだけど、ずっと歩いてる」
アルは、司書を見た。
「司書。川、この亀なら渡れると思う?」
「検証が必要だ。まず、川底の状態と、流れの強さを確認したい」
「青」
「うん!」
「お前、川に入って、深さと流れを見てきてくれ。流されそうになったら、すぐ戻れ」
「いってみる!」
青が、紐のように細くなって、川岸から水の中に入っていった。
夜。
宿屋の食堂で、司書が羽ペンを走らせていた。
「青の観測によると、川底は、岩と砂利の混在。水深は、最大でアルの腰まで。流れは強いが、岩亀の体重なら、押し流されない計算だ」
「じゃあ、渡れる?」
「理論上は。ただし、岩亀の歩く速度は、人間の三分の一。渡りきるのに、およそ一時間」
「一時間か」
アルは、ミナトを見た。
「ドンは、一時間、歩き続けられる?」
「できる! ドンは、二時間でも、三時間でも歩く!」
ミナトの目が、輝いていた。
翌朝。
川岸には、村中の人間が集まっていた。
商人は、腕を組んだまま、不機嫌そうにしている。
「遊んでる暇はないぞ。わしは、岩亀を引き取りに来たんだ」
「ちょっと待ってくれ」
アルは、商人に頭を下げた。
「渡れるかどうかを確かめたい。見るだけ、見てくれ。無理なら、どうぞ引き取ってくれて構わない」
商人は、鼻を鳴らした。
「いいだろう。見ててやる」
ドンの背中に、アルと三体が乗った。
猫は、甲羅の真ん中で丸くなった。青はバケツの中。司書は、アルの肩の上で、水面を見据えている。
ミナトが、ドンの首をぽんと撫でた。
「ドン。お願い」
岩亀は、ゆっくりと、一歩を踏み出した。
足が、水に入る。
二歩。三歩。
川の流れが、甲羅に当たって、白く割れた。
「うわ、速っ」
アルは、思わず甲羅の縁をつかんだ。ドンの足は、水の中で、ほとんど動いていないように見える。けれど、確実に、一歩ずつ、前へ進んでいる。
「大丈夫。止まらない」
ミナトが、岸から叫んだ。
川の中ほどで、一度、大きな流木が流れてきた。
「危ない!」
アルが、思わず叫んだ。
ドンは、ぴたりと止まった。流木が、甲羅にごつんと当たって、ずるずると横に流れていく。
それから、何事もなかったように、また歩き出した。
「……止まって、よけた」
司書が、静かに言った。
「急いでいたら、押し流されていた」
川岸から、誰かの声が聞こえた。
「……あの亀、渡ってるぞ」
「本当に、渡ってる」
一時間後。
ドンは、対岸の浅瀬に、ゆっくりと上陸した。
川岸の村人たちが、ざわめいていた。
商人が、頭を掻いて、ぼそりと言った。
「……あれは、うちの馬にはできんな。橋のない川を渡れる魔物は、そうはおらん」
ミナトが、対岸から駆け寄ってきた。ドンの首に、ぎゅっと抱きついた。
「ドン! すごい! ドン!」
岩亀は、ゆっくりと、まばたきをした。
その日の午後、村長が、アルのところに来た。
「渡し守を、置こうと思う」
「渡し守?」
「橋が流されるたびに、船は出せなくなる。だが、あの亀なら、増水の時でも渡れる。旅人から渡し賃を取れば、村の収入にもなる」
村長は、少し言いにくそうに、頭を下げた。
「ミナトに、渡し守を任せたい。ドンと一緒に」
アルは、思わず笑った。
「いいんじゃない。ドン、喜ぶよ」
「引き取りの話は、取り下げる。……お客さんの、おかげだ」
村長は、もう一度、深く頭を下げた。
旅立ちの朝。
ミナトが、渡し場で、手を振っていた。
「ありがとう! また来てね!」
「渡し賃、ちゃんと取れよw」
「うん!」
ドンが、ゆっくりと、首を持ち上げた。
アルたちは、対岸の道を、東へ歩き出した。
しばらく行くと、道端に、苔むした石の柱が立っていた。
「……旧街道」
アルは、石柱の表面を、指でなぞった。
刻まれた文字は、ほとんど消えかけている。その上のほうに、小さな紋章の跡があった。
アルの石の板に刻まれたものと、同じ形。
「……ここから、先か」
司書が、石柱をじっと見つめた。
「待て」
「どうした」
「この紋章の部分だけ、苔が剥がれている」
アルは、石柱をもう一度見た。確かに、紋章の周りだけ、苔がきれいに落ちていた。
「最近、誰かが、触っている」
「ガルドか?」
「分からない。だが、まだ新しい」
アルは、石柱の周りを見回した。
草の中に、細い足跡が、東に向かって続いていた。
「にゃ」
猫が、足跡の匂いを嗅いでいる。
青が、バケツの縁から身を乗り出した。
「ねえ、アル」
「……何だよ」
「先に行った人、いるんだね」
「そうみたいだな」
アルは、石の板を、懐の上から押さえた。
「……急ぐか」
「待て」
司書が、言った。
「急ぐと、見落とす」
「じゃあ、どっちなんだよw」
「両方だ」
「無茶言うなw」
三体と一人は、東へ歩き出した。
足跡は、まだ、消えていなかった。




