第二話 誰も知らない涙の理由
学校という場所は、時に残酷なほど役割を求めてくる。
クラス委員で、面倒見がよくて、いつも笑顔の「しっかり者」。それが、みんなの知っている葵だ。
だけど、そんな完璧な人間なんてどこにもいないことを、僕は知っている。
「……航、ちょっといい?」
放課後の誰もいない教室。夕暮れが机の列を赤く染める中、入ってきた葵の声はいつもよりずっと細かった。
振り返ると、彼女は無理やり作ったような歪な笑顔を浮かべていた。文化祭の実行委員としてのトラブル。周囲からの勝手な期待と、押し付けられた面倒事。ここ数日、彼女が一人で抱え込んでいたものを、僕は遠くからずっと見ていた。
「どうした?また古典の予習か?」
「ううん、違うの。……違うんだけどさ」
葵は僕の前の席に、いつものように後ろ向きに座る。でも、いつもなら「聞いてよ航!」と大騒ぎするはずの彼女が、今日は膝の上で、ぎゅっと拳を握りしめていた。
「……なんかね、みんな私が大丈夫だって思ってるみたいなんだよね。」
ぽつり、と。乾いた声が教室に落ちた。
「葵なら怒らないから、葵ならなんとかしてくれるからって。……私、そんなに強くないのにな。みんなの前だと、どうやって『嫌だ』って言っていいかわかんなくなっちゃうんだよ。」
いつも眩しいくらいに笑う彼女の瞳が、みるみるうちに潤んでいく。
あ、と思った時には遅かった。大粒の涙が、葵の頬を伝って制服のスカートに大きなシミを作った。
「っ……、ごめん、なんで泣いてんだろ私、バカみたい……っ」
慌てて袖で涙を拭おうとするけど、一度溢れたものは止まらない。
外では絶対に泣かない葵が、今、僕の前でポロポロと涙をこぼしている。
「葵」
僕は立ち上がり、彼女の裾をぎゅっと掴むと、そのまま僕の胸に顔を埋めて、声を上げて泣き出した。
トクン、トクン、と、僕の心臓がうるさいくらいに脈打つ。彼女の体温が、涙の温かさが、布地を通してダイレクトに伝わってくる。
「航の前だと……どうしても、電池が切れちゃうんだよ……。格好悪いところ、全部出ちゃうんだよ……」
しゃくりあげながら紡がれる言葉。
それは僕にとって、世界で一番贅沢な、そして世界で一番切ない信頼の証だった。
『航の前だから』
彼女が僕だけに見せる、誰も知らない涙の理由。
頼られているのは、心の底から嬉しい。だけど、彼女が僕の胸で泣けば泣くほど、頭のどこかで冷徹な声が響く。
――彼女にとっての僕は、なんでも受け止めてくれる『お兄ちゃん』や『親友』と同じなんだ。一人の男として見られているわけじゃない。
「好きなだけ泣け。誰も来ないから」
僕は自分の邪念を振り払うように、さらに優しく彼女の頭を撫で続けた。
窓の外では、夕日が最後の光を放って、ゆっくりと沈もうとしている。
僕たちの境界線は、まだ交わらない。
だけど、僕の制服に刻まれた彼女の涙の跡は、確かに二人の距離を、少しずつ変えようとしていた。
第二話を読んでいただき、ありがとうございます。
今回は、葵ちゃんの「外での顔」と「航くんの前での顔」のギャップ、そして航くんの心の中の葛藤を少し深く描いてみました。
頼られる嬉しさと、それゆえに「男として見られていないのでは」という不安。近すぎる関係だからこそ、相手の涙すら切ないスパイスになってしまいます。
少しずつ動き始めた二人の空気感。
第三話ではそんな二人に「雨」がいたずらを仕掛けることになります。一本の傘の中で、二人の距離はどうなるのか......。
次回もまた、お付き合いいただけたら嬉しいです。
ーーなお




