第一話 一番近くて、一番遠い特等席
放課後、夕暮れが差し込む図書室の片隅。
静寂の中に、カチ、カチと時計の音だけが響いている。
僕の隅では、葵がノートを枕にして、心地よさそうな寝息を立てていた。
「……また寝てる」
僕は手に持っていたシャーペンを置き、そっと隣を盗み見る。
クラスではいつも中心にいて、冗談を言っては笑っている葵。しっかり者で、みんなの悩みを聞いて回るような彼女が、僕の前だけでは見せる「充電切れ」の姿だ。
さっきまで「もう、今回の古典まじで意味不明!」と、僕にだけ向ける情けない顔で愚痴をこぼしていたのに。
乱れた前髪から覗く、幼い寝顔。
無防備に投げ出されたその手。
この姿を知っているのは、世界中で僕だけだ。
それは僕にとっての埃であり、同時に、心臓の奥を締め付けるような「呪い」でもある。
ふと、葵が寝返りを打ち、僕の方を向いた。
「……ん……わたる……」
名前を呼ばれ、僕の心臓が大きく跳ねた。
でも、彼女の眼は開かない。呼吸をすることと同じくらい自然で、そして……「特別な意味を持たない」ことなのかもしれない。
彼女が僕に吐く弱音。
彼女が僕に見せる涙。
彼女が僕にだけ許す、この至近距離。
それは全部、僕が『親友』という安全なカテゴリーに分類されているからこそ許されている特権だ。
もし、この境界線を一歩でも踏み越えてしまったら。
「好きだ」と伝えて、今のこの穏やかな寝顔を奪ってしまったら。
そう考えると、指先ひとつ動かせなくなる。
「……ずるいよ、葵」
僕は小さく呟き、彼女へ触れる代わりに、窓から差し込む夕日に目を細めた。
『安心するんだよね』
いつか彼女が言った、その言葉が僕をこの場所から動けさなくさせる。
一番近くにいるのに、彼女の心の一番深い場所には、一生届かないような気がしていた。
葵のまつ毛が、かすかに震える。
僕は慌ててノートを開き、何でもないような顔をして、読みかけの教科書に目を落とした。
「……ん、航?私、寝てた?」
目をこすりながら起き上がる彼女に、僕はいつも通りの、最高に平熱な声で答える。
「ああ。ヨダレ垂らしてたぞ」
「嘘っ!?最悪!なんで起こしてくれないのよー!」
笑い合う僕たちの間に流れる、完璧な「親友」の時間。
この空気が壊れないように、僕は今日も、自分の心に鍵をかける。




