揺れる思い
「ママチャリと一緒ですね。」
タイヤを外すための工具は、見たことがあった。
百均とかにもある、チューブを引っ張り出す隙間を作るためのもの。
これなら使い方もわかる。
チューブは、空気入れとの接続部分が違うため、空気入れも並べた。
圧力計付きで、この圧力を見て入れるのが大事なんだとか。
なのに、小型の炭酸ガスボンベも、お守りと言って勧められた。
小型の空気入れもあるが、とんでもなくしんどいらしい。
「このホイールはちゃいますけど、チューブレスっていう、チューブのないタイプも増えはじめてます。」
「え。そんなんどうやって修理するんですか。」
「チューブに穴が開くようなパンクはないですよ。チューブレスなんで。タイヤが裂ければ、どっちみち出先で修理は無理ですね。」
「じゃあ全部それにすればいいのに。」
「プロはわりとそうなってってますね。でもクリンチャーはメンテナンスしやすいからホビーライダーには人気ですし、完全にはなくならんと思います。」
「クリーチャーってなんか嫌な響きですね。」
「クリーチャーやなくて、クリンチャーです。」
知ってた。
そうふざけて勘違いを誤魔化せられるほど、砕けていない絶妙な距離感。
そのせいでちょっとだけ恥ずかしい。
レジカウンターを見るふりをして、顔を背ける。
「あれ。ここにツール入れたらほら、飲み物入れられなくなるんじゃ。」
テレビ画面には、選手が走りながら飲み物を飲んでいる姿。
ハンドルから片手を離して、器用に出し入れしている。
「あ!ポイ捨て!」
「あー。あれはレースなんでええんです。捨ててええ区間以外でポイ捨てしたら罰金ですけど。」
「おお、ちゃんとしてる。てか、飲み物二本あるんですね。」
「そうですね。お客さんのバイクにももう一つ付けられますよ。奥に色々あります。」
「純正のはないんですか?」
COLNAGOの文字が可愛いのだ。
ドリンクホルダーにもそのロゴがあって、違うのを付けるのはなー、くらいの気持ちだった。
「あると思いますよ。お取り寄せになりますけど。カタログ見てみましょ。」
そう言ってレジカウンターの中に回り込み、厚いカタログを取り出す店員さん。
なんか、元気だ。
動きが私より軽やかなのだ。
これが、運動してる人の動きか。
「白以外にも、黒と赤があるみたいですね。同じ色にしますか?」
「白と黒にするのはダメですか?」
「いえ、特に決まりはないですよ。そうします?」
「じゃあそれで。ここに入れるボトルもいりますね。」
「保冷できるやつとか、色々ありますよ。」
「うーん、冷え冷えの飲み物飲むと調子悪くなるので、普通のがいいです。」
「じゃあこういうタイプですね。奥に色々置いてあります。」
カウンターの中からボトルを取り出す。
えーと、これは買うことになるのかな。
「暑くなるので二本は用意した方がええですよ。水とスポーツドリンクとかにして、あんな風に脚に掛けたりとかできますし。」
テレビには、二本どころか何本もボトルを持って、走りながら他の人に配る優しい人が映っていた。
もらった人がそれを頭から掛けたりして、ポイ捨てしていた。
「あんな器用なこと、ママチャリでもできません。」
「そうですね。水分補給は大事ですが、レースじゃないんで、真似せんくてええです。信号待ちとか止まったときに、マメに飲むようにしてください。」
「止まるたびに?」
「信号のあるルート走るんなら、そんくらいの認識でええと思いますよ。信じられんくらい汗かくんで。最初は一時間でこのサイズ一本飲み切るんが目安です。」
冗談だと思って聞き直したのに、割りと真剣にそう言われた。
「え、じゃあ2本で2時間しか走れないんですか?」
「そすね。なくなったら補充してください。補給舐めたら、危険です。やらへん方には、売るわけにはいきません。」
「え?それは、自転車を?」
「そうです。そんくらい、大事なんです。粉末タイプのドリンクとかもありますんで、上手く活用してください。」
急に厳しいことを言い出した。
まさか、店員さんに商品を売らない宣言をされるようなお店があるとは。
「機材に関しては私たちに聞いてくれたらええですけど、補給だけはご自身でちゃんとしていただかんと、お客さんの命に関わります。」
「そんな、大げさな。」
「いいえ。ロードバイクは機材が楽に遠くまで運んでくれますが、エンジンは人間です。効率良く推進力に変えてくれるように作られてますけど、その分ちゃんと疲れるんです。」
「それは、そうですけど。」
本当に命に関わるなら、売らないほどのことだとは思う。
でも、始める前から怖いことを言わないで欲しい。
ただでさえ、続かないのに。
「楽やからこそ、気付きにくいんです。特に初心者のうちは。自分なりの目安がありませんから。経験者として、店員として、これだけは譲れません。」
「店員さんが、死に掛けたってことですか?」
「熱中症、脱水、こむら返り、ハンガーノックあたりは普通に経験してますよ。想像してみてください。楽に遠出して、知らん土地で独り。そんな状態になるんですよ。」
「ハンガーノックって何ですか?」
「ああ、専門用語でしたね。いわゆる低血糖です。急に力が入らんくなります。」
低血糖。
知らない土地で、力が入らなくなる。
それは、怖い。
この子を諦めれば、そんな心配は、いらなくなる。
「特にお客さんは一人で始められるみたいなんで、補給をちゃんとしてくれるとお約束いただけなければ、うちではお売りできません。」
店員さんも、こう言ってくれている。
引き返すなら、今だ。
「ちなみに、店員さんはそんなとき、どうしたんですか?」
「コンビニとか、自動販売機ですね。あとはドラッグストアかな。私たちホビーライダーには、実はすごくありがたいんです。」
確かにどこにでもあるし、わかる気がする。
「でも、症状に対して何を摂ればいいかわかってへんと、役立てることはできません。お客さんが医療関係者ならええんですけど。」
「いえ、全く。ただのデスクワーカーです。」
脚を攣ったことはあるけど、めちゃくちゃ痛くて泣きそうになった。
治った後しばらくは、すぐ攣りそうになるし、動くのが怖くなるくらいだった。
「そんな方にオススメなんが、ショップライドです。」
「え?」
「ショップライドです。」
「はい。聞こえました。乗りながら販売してくれるんですか?」
「いえ。不定期ですけど、私がお客さんたちと走るという企画です。お花見とか、グルメライドとかやってます。」
「なにそれ、参加したい!」
自転車でもツーリングみたいなことやるんだ。
大型バイクの集団とか見掛けるけど、案外こういう感じで集まることもあるのかも。
私は、少しだけああいう集いの仕組みを知れたような気がした。
「スパルタですよ。交通ルールを守る、補給する。しんどいときは言う。徹底させます。」
「なにそれ、逆にありがたいんだけど。」
「そうですか。今日ご注文いただけたら、次のライドに間に合います。」
「え、いつやるんですか?」
よし、買おう。
すぐ買おう。
というか、元々そのつもりだし。
「ご購入いただければ日にちを決めます。」
「え?」
本当に、聞き逃した。
「いえ、何でもありません。多くても10人ちょっとにしたいのと、天候もあるので、あまり早く告知しません。これから決めるんで、ホームページ見とっていただければ。」
何か、私のためにあるような企画だ。
知らない人いっぱいなのは、ちょっと苦手だ
「そうなんですね。ちなみに私は、水曜日と日曜日が固定休です。」
「それなら大丈夫やと思います。」
帰宅後に、過去の記事を見た。
前日とかに急に告知されている。
朝、ショップ前に集合、みたいに。
それでも、当日の記事の写真には、20人近く写っているのだった。




