最初のひと踏み
まずは、左足を縁石に置く。
言われた通りにトップチューブを跨ぐと、店員さんが自転車の後ろを支えてくれた。
これなら別に、サドルに座っても両足が着くけどな。
「これ、座っちゃったらダメなんですか?」
「いいですよ。自由に乗ってもらって。じゃあ、注意点だけ言っときますね。」
サドルに座ってみて、浮かせた右足でペダルを逆回転させてみる。
普通に回る。
「とりあえず、ブレーキの位置がお客さんの自転車と違いますね。スピード出さなければ大丈夫ですけど、急にぎゅっと握ると前に自分だけ吹っ飛ぶと思ってください。」
「え?」
は?
どういうこと?
てゆーか、それはどうなのよ。
「ブレーキ、ハンドルの奥にあるでしょ。ちょっと遠く感じません?」
「確かに。」
ハンドルは、どこを持てばいいかわからないような複雑な形をしている。
ブレーキを握ることを意識して持ったところは、ハンドルの一番前に飛び出したところ。
親指だけを掛けて、他の指はブレーキの根本に添えているような感じだった。
「ママチャリよりスピードが出せる作りなので、ブレーキは良く利きます。だけど、急に止まると今のポジション、でんぐり返りしちゃいそうじゃないですか?」
「確かに。かなり前のめりな感じがする。」
試しにブレーキを握ってみる。
少しゆらゆらさせた車体が、キュッと止まる。
「色々理由はあるんですけど、今はとりあえず、急に強く握らないことだけ覚えておいてください。じゃあ、行ってみましょう!」
「え。」
「大丈夫大丈夫。前だけ見て、危ないと思ったらブレーキ握って足を着きましょう。」
丁寧なのか、雑なのか。
とはいえ、色々詰め込まれるよりはいい。
「うわっ。」
とりあえず、ひと踏み。
そう思って軽く踏み込んだつもりが、予想より遥かにするりと進む。
ママチャリなら、漕ぎ始めには少し重さがある。
自転車そのものを動かしている感じがする。
これは違った。
ペダルを踏んだ力が、どこにも引っ掛からず、そのまま前へ抜けていく。
軽い。
たったひと踏みで驚き、次の踏み込みを忘れ、それでも惰性で進んでから止まる。
「どうです~?」
足を着いて振り向くと、店員さんの声を間延びさせるほど進んでいた。
そのままよちよちと自転車の向きを変え、もうひと踏み。
今度は、店員さんの横で止まった。
「どうです?」
「いや、なんか、すごいね!これ、すごいね!」
我ながら、とっても馬鹿っぽい。
でも、鳥肌が立っていた。
右足でひと踏み。
向きを変えて、左足でひと踏み。
たった、それだけ。
両足をちゃんとペダルに乗せて、交互に漕ぐなんて、まだやってない。
だけど、ママチャリとは違うということが、はっきりとわかった。
「そうでしょ~。まあ、それだけお値段しますからね。」
「大丈夫です!お金なら持ってきましたから!」
「え?買う気なんですか?」
「あ、いや、最悪そうなった場合には備えております、的な。」
「ははは。何ですか、最悪って。まぁ、わからなくもないですけどね。気軽にポンと出せるほど、安くはないイメージありますから。」
「なんかね、運動しなきゃって思うんですよ。だけど、どれも敷居が高くて。」
「まあ、どんなスポーツもこだわればお金掛かりますからね。」
うーん、まあお金って思うよね。
だけど、自分ではわかっている。
私の理由は、お金ではないことを。
「やってる人あんまり見ないですよね。」
「そうですか?結構走ってますけどね。兵庫県はいい道いっぱいありますし、多いと思いますけど。」
「そっかぁ。」
なぜだろう。
少しがっかりしている自分がいる。
その気持ちの変化の正体がわからないまま、試乗を終えた。
「いきなり買う人って、いないんですか?」
「そうですね。私はあんまり会ったことないです。」
「そっかぁ。」
なぜだろう。
少し買う気に傾いた自分がいる。
その気持ちの変化の正体がわからないまま、店内に戻る。
「何か、希望はあります?」
「どうでしょう。全く知らないんで、何を基準に選べばいいかわからないんですよね。」
「何でもいいんですよ。レースに出てみたいとか、山に楽に登りたいとか。」
「素人がレースなんて出られるんですか?」
「ありますよ。ここら辺ならはりちゅうとかですかね。」
「えーと、ハリネズミ?」
「なんでやねん。播磨中央公園です。略してはりちゅう。あー、でも確かにハリネズミみたいですね。言われるまで気付かなかったです。」
播磨中央公園。
聞いたことがあるような、ないような。
まあ、播磨地方の中央公園なんていう、何の捻りもない名前だからだろう。
「山も登るんですか?」
「山って言っても、車道があるところですけどね。ロードバイクって言うくらいですし。」
ふと店内のテレビを見ると、立ち漕ぎで車道を登る映像が映し出されていた。
自転車を何台も積んだ車が並走している。
昨日調べたようなドローンの空撮映像みたいな画角に切り替わったり、一生懸命漕ぐ横をあざ笑うかのようにするすると抜けていくバイクからの撮影に切り替わったりしていた。
「なんか、バイクに抜かれてかわいそうですね。」
「あはは、その発想はなかった。」
「これが、レースなんですね。」
「いや、素人参加のレースはさすがにこんなことないですって。まあ、カテゴリーとか分かれてるので、ロードバイクさえ持っていれば参加できるものが多いですね。ただ、レースによっては105以上とかエントリーモデル以上じゃないと参加できないとかもあります。」
いちまるご。
ひゃくご、じゃなかった。
「この店のホームページで見たやつで、可愛いと思ったのならあります。」
あれも、たしか105って書いてあった気がする。
「ああ、ありがとうございます。今、完成車のセールやってるんですよ。」
「完成車?未完成もあるんですか?」
「あー、ですよね。実はロードバイクって、普通に買っても乗れないんですよ。うちでは基本、パーツが全部バラ売りで、好きにカスタマイズできるんですよね。それが好きって言う人もいますし、プロと同じように組みたいっていう人もいます。」
それが私には、興味が持てなかった。
面倒だと思った。
「なんだか意味不明過ぎて、わからないからもう、聞いてしまおうと思って今日、来てみたんです。近くだったんで。」
「きっかけなんて、何でもいいと思いますよ。乗ってたら色々欲しくなる人もいますし、ずっと同じ自転車を長いこと乗る人だっていますし。自転車は基本、自由ですから。楽しいかどうかです。飽きたらやめたらいいし、また乗りたいなと思ったときが、再開するときです。60越えて乗ってる人も、お客さんにはいっぱいいますよ。」
それはそうだ。
60歳を過ぎて自転車に乗る人なんて、違和感なく想像できる。
他のスポーツなら、そうはならない。
というか自転車は、スポーツなのだろうか。
店内のテレビには、その道のプロが、カメラに向かって手を振っている姿が映し出されていたのだった。




