やる気スイッチ
「柱は今日立てちゃうの?」
「どうしようか。なんか、お風呂入ったら激烈に眠たくなった。」
「それはそうよ。あんたも明日、筋肉痛になるんじゃない?」
「え、そうかな。」
「だって、運動不足なんでしょ。お父さんが湿布まみれになったの、覚えてない?」
「湿布まみれは自転車に限ったことじゃない気がする。」
「お父さん、飽き性だったからね。夕飯はどうする?」
「食べる。お腹ペコペコ。」
「自分の部屋戻ったら寝ちゃいそうだから、そっちの部屋で待ってなさい。」
「そうするー。」
今日一日で、色んなことがあった。
社会人になったら時間なんてあっという間。
そんなよく聞く言葉も我が事として実感して数年。
見るもの全てが新しかった幼少期。
定期的とはいえ、一喜一憂するイベントが盛り沢山の学生時代。
覚えることが多くて充実していた駆け出しの時期。
慣れた仕事をこなすだけになってしまって、気付けば運動不足を自覚する。
何か始めなきゃと思っても、そこに出来上がっているコミュニティに尻込みし、二の足を踏んでいた。
それが今日、義務感ではなく、早く明日になって欲しいと思うようなワクワクに出会った。
毎年煩わしいとさえ思えるほど用意されていた大シャッフルによる出会いがパタリとなくなったのも、社会人になってから。
職業柄、というのもあるのだろう。
芸能人や動画配信者にでもなれば、大人になっても覚えきれないほどの出会いや刺激があるのだろうけど。
そんな世界は、目指すどころか適性があるかどうかすら考えたこともない。
でも、番組やコンテンツとして消化されるような出会いじゃなかったからこそ、今日の出来事が特別運命的に感じられたんだと思う。
私は、そんな生き方で満足なのだ。
自然と笑みが漏れ、お店のホームページを新しい宝物のように見つめる。
〇
「ほら、やっぱり寝ちゃってた。呼んでも返事しないんだから。」
お母さんの声がする。
力なく落ちた手からは、スマホが転がり落ちていた。
「寝るならちゃんとお布団入りなさい。」
「あーい。」
生返事をしたとき、お腹がぐぅと鳴る。
「お腹空いた。」
「もう出来てるわよ。食べるならさっさと席に着きなさい。いつまで経っても片付かないから。」
「はーい。」
いい匂いがする。
特別なものじゃないけど、我が家のお馴染みの晩御飯。
「ご飯、どれくらい?」
「んー、いっぱい。」
特に深く考えることもなく答える。
「あら、珍しい。でも今日は多めに炊いといたから、おかわりしなさい。」
これと言って運動していなかったというのに、店員さんから運動してそうだと思われたのは、単純に食べる量が少なかったから。
一日30品目なんて言われるけど、そんなことをした日には、しばらく残り物生活だ。
お店のお惣菜より、お母さんの作るおかずの方が好きなのだから仕方がない。
「うわ、美味しい。」
「何言ってるのよ。いつものよ。」
そう言いながらも、お母さんは嬉しそうだった。
「だって、美味しいんだもん。」
「何よそれ、理由になってやしないじゃないの。」
「じゃあ、運動したからかな。」
ぶっきら棒に理由を作る。
美味しいことの感想なんて、美味しいでいいじゃないか。
「珍しく活動的だったものね。あんた失恋でもしたの?」
「は?いやいや、そもそも出会いすらないから。」
「そうなの。まあお母さんはどっちでもいいけど。」
「でも、自転車には出会ったよ。」
なんの気なしに言った言葉で、心にポッと火が灯るような気がした。
「そうね。続けばいいけどね。」
「もう、やる前からすぐそういうこと言うんだから。」
少しだけイラッとしてしまう。
「しんどいことは続かないでしょ。」
「ふんだ。いっつもそうやって決め付けるからやる気なくなるのに。」
言ってることがその通りだから、余計に腹が立つ。
だけど、今までダメだったら今回もダメみたいに言われたらまるで、私は何をする資格もないみたいになってしまう。
「なによ、お母さんのせい?」
「それもあるって言ってるの!」
全部お母さんが悪いだなんて、もちろん思ってない。
だけど、子どものような素直な気持ちで始めたことが、子どもにとっての何よりのモチベーションになる親から否定される。
感情的に否定されるならまだしも、同じ土俵になど立ってすらいないかのように普通のトーンで言われることがまた、私という人間を長年見てきたという、積もり積もった証拠の上の確たる事実かのようにのしかかる。
それは、水を差されたどころか、冷水をぶっ掛けられたようなほど、熱を奪う。
感情が、大爆発しそうだった。
怒りでも何でもいいから、熱と呼べるものが欲しかったのかもしれない。
俯いた先に、グループライドの記事がパッと光る。
寝落ちする前に開いていたページだ。
スマホ画面には、きれいな桜並木の下にロードバイク数台が並べられていた。
「自転車は、昔から乗ってるもん。」
「そう言われればそうね。通学用で買ったやつだから、随分と物持ちがいいわ。」
「自転車なら乗りたくなくなって乗らなくなっても、またいつでも乗れるし。」
店員さんは、それでいいと何度も言ってくれた。
無理して乗るより、安全に楽しんで欲しいという雰囲気が、店全体から伝わって来た。
だから私は、無灯火で走り続けないことを当たり前のように選べた。
「案外、あんたにはぴったりな趣味なのかもしれないわ。」
そのひと言で、イライラがフッと消えた。
なんだ、こんなことでいいんだ。
「ご飯、おかわり。……美味しいから。自転車関係ないからね。」
「はいはい。」
こうして、親子喧嘩というにはあまりにも一方的なイラつきは、大噴火することなく沈静化した。
それから、今日あったことを一方的に話し続けた。
適当な相槌や、ところどころ質問や意見も混じえて聞いてくれる。
「なによあんた、そんなことも知らないの?」
不思議とこの言葉にイラつくことはない。
「え、だって新幹線も黄色いしさ、笑顔で手を振ってたよ?」
「ばかね、あれはマイヨ・ジョーヌって言って、ツール・ド・フランスで一番速い人しか着れないのよ。」
「へえ、そうなんだ。うかつに黄色の自転車とか選んだら、とんだ勘違い野郎になるとこだったんだ。」
赤とか黄色とか独特な緑とか。
店内には黒ばかりではなく、目立つ色の自転車が並んでいた。
「ふふふ、あんたの自転車も、なかなかいい色してるわよ。」
「そうでしょ!めっちゃ可愛くてさ!」
それからまたしても、一方的なまでに如何に可愛いのかを熱弁する。
「あんたがそれでいいならいいんじゃない?」
その言葉によって隠されることとなった意図を知るのは、かなり先のことになるのだった。




