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噂の

「ちょっと上手くなるとね、何が何でも自転車を守ろうとしちゃうんだ。でも、一番大事なのは身体だからね。」


 にこやかな男の人は、優しく語りかけてくる。


「大丈夫、うちのメカニックは優秀だから。」


 あ、もしかして。


「噂の店長さんですか?」

「はっはっは、どんな噂なのか、聞くのが怖いね。初めまして。僕はこのお店の店長です。」

「それを言うなら、私の噂ってどうなんですか。」

「ああ、ちょうど聞いたばかりだったからね。他意はないんだ。そんなに。」


 そんなにってことは、あるんじゃないか。

 まあ、店員さんにも言われたけど、そんなに変なことだったのだろうか。


「でも、傷付いたことにショックを受けたように見えたから、今は少し他意が生まれてきたかも。」

「どういうことですか?」

「自転車を気に入ってくれているのがわかるってことだよ。嬉しいね。」

「はあ。そりゃまあ、そうですね。嫌々乗る人なんているんですか?」

「いっぱいいるよ~。特に、ガチ勢にもなるとね。アスリートなんて、輝かしい功績や一瞬の喜びのために、裏では長い苦行に耐えるような世界だからね。それをひっくるめて楽しめる人が本当に強かったりするんだろうけど。」


 店長さんの示す先には、苦しそうな顔で集団の先頭を走る選手が映るテレビ。


「自転車は、どれだけ頑張っても一位になれない役割分担まであるからね。そんな、美しい世界なんだ。」


 にこやかなまま、テレビを見る店長さん。

 そう言えば、この人はロードバイクって言わないんだ。

 ロードバイクって意味で自転車と言っているんだろうけど。


「店長さんもガチ勢なんですか?」

「そう見えるかい?」

「いやぁ、まあ、選手がスラっとしてるって言うからわかんないですけど。」

「もちろん自転車には乗るよ。でも、ホビーライダーかな。そして、メカニックでもある。」

「あ。もしかして、一位になれない役割分担って、メカニックも含めてなんですか?」

「ふふ。そんなつもりはなかったんだけど、そうだね。機材が助けてくれるスポーツだから、周りには驚くほどたくさんの人たちがサポートしてるよね。」

「そっか、それをひっくるめて、美しい世界なんですね。」

「いやー、はは。ホントにそんなつもり全くなかったんだよ。なんかクサいこと言ったみたいになっちゃって、恥ずかしいね。もしかして、防犯登録で怒らせちゃった?」


 思いがけずうろたえさせたうえに、身に覚えのない憶測が飛び出した。


「いや、そんな高度な反撃できませんて。」

「いいと思うよ。防犯登録は防犯のためなんだから、見えるところに貼る。愛好者の中には見たら発狂する人もいるかもしれない。でも、だからといって、貼る場所ひとつで自転車を愛していない証明にはならない。君を見て、そう思ったよ。」


 後輪の軸受けから伸びる二本の細い支柱がサドルの後ろで合流する付け根部分に、丁度いいスペースがあったのだ。

 私は、迷わずそこに防犯登録の赤いシールを貼った。

 車体の赤い斜めの帯状の色とも合うし、よーく見ればシールも少し斜めだけど、おおむね満足だった。

 むしろ店員さんから、だいたいのお客さんが車体の下とか目立たないところに貼ると聞いて、あり得ないと思った。

 あくまで個人的な感想なわけだから、それを口にするのは言い過ぎだと思ったが、少なくとも変なの、と答えたほどだ。


「クサいですね。それはいいんですか?」

「これは大丈夫。ちゃんとクサいことを言ってる自覚があるからね。」

「あはは。変なの。」

「というわけで、いっぱい乗って、いっぱい壊して、うちを利用してくれると嬉しいね。」


 お茶目な感じいっぱいにウインクしながら、店長さんが商売っ気を出す。

 初対面で、露骨に利己的な言い回しまでするのに、この人からは嫌な印象を受けないから不思議だ。

 たぶん、純粋に自転車を愛していることがわかるからだろうな。

 目元に浮かぶ皺の深さが、その年季まで表しているようだった。

 間違いなく店長さんは、発狂しない側の愛好者だ。


「そうだ、適したギアがあるのは理解したんですけど、具体的な目安とかってあるんですか?」

「良い質問だね。初めて受ける治療なのに、変なとこあったら言ってくださいと言われてもわからないもんね。」

「え、なんですかその例え。」

「今ね、僕、歯医者さんに通ってて、そんな風に言われるんだよ。変かどうかなんて、わかるわけないじゃんね。」

「え、痛かったら手を挙げてください、じゃないんですか?」


 そう言えば、しばらく歯医者さんに行っていないなと思って、古い記憶を引っ張り出す。


「ああ、あるある。それあるよね。手を挙げても無視されるやつ。って、違う違う、ギアチェンジの目安だったね。」


 楽しくおしゃべり。

 そんな流れをサッと断ち切るのは、店員さんに通じるものがある。


「サイコン付いてたよね。あれで90回転を目安にするといいよ。96とかになるようなら一つ重くして、90を切るようなら軽くする。それでやってごらん。」

「90ですか。わかりました、やってみます。」


 回転数。

 なまってケイデンス。

 そんな定番ネタがあるが、そうではないなんてことを店員さんと話したパラメータだ。

 車輪の磁石とペダルの磁石で、両方の回転数を測定するだけ。

 それが私の買ったサイクルコンピューターの仕組みだ。

 表示されなかったら電池切れか、位置調整でだいたい直る。

 もっとお高いものは、もっと多機能。


「だけど、サイコンを長く見続けたらいけないよ。前を、少し先をしっかりと見ること。」

「車と同じですかね。危険の早期発見と、ふらつき防止。あと、運転姿勢も悪くなる。」

「へぇ、車はそうなんだ。」

「え、車乗らないんですか?」


 これは、筋金入りの自転車愛好者?


「いや、乗るけど同じように考えたことなかったなあ。もちろん、危険予知はわかるんだけどね。」

「近くを見てるとふらつくのは片足立ちでもそうですし、近くのスマホやPCばかり見てたら姿勢が悪くなるのも日常生活と同じです。」

「やっぱり君、面白いね。そんな風に考えたことなかったけど、その通りだ。」


 おかしい。

 生まれてこのかた、面白い認定されたことなんてあっただろうか。

 あるのかな、口に出さないだけで。

 明日、職場で聞いてみるとしよう。


「じゃあこれはどうかな、自転車は見てる方向に行っちゃうんだ。」


 何かを期待するように、知らないことを教えてくれる店長さん。


「そうなんですか?」

「そうそう、マンホールを避けようと思って意識しちゃうと寄って行ったり、ガードレールが切れてるとこを意識したら突っ込んじゃったりね。だから、進行方向を見ること。」

「それって何か、そうなる理由があるんですか?」

「そうだね、やっぱり身体が繋がってるからだと思うよ。目だけを向けてるつもりでも、首が動く。首が動くと身体が少し捻じれる。その動きがダイレクトに自転車に伝わって、自転車の進行方向に影響するんだ。ペダルを踏む力が効率よく伝わる自転車は、それ以外の力もよく伝わるんだよ。」

「なんか、それっぽいですね。」


 なるほど。

 ちゃんと納得できる。


「あれ、ちゃんと答えたつもりだけど。」

「関西の人は最後に知らんけどって言いがちなんで。」

「ははは、僕は関西の人に見えるかい?」

「関西で商売してるなら、関西の人です。間違いありません。」

「あはは、急に雑になるのも噂通りだ。」

「え、ちょっと店員さんに物申さなければ。」

「いや、どうだったかな、知らんけど。」


 そうやって使ってくるか。

 はっはっはと笑い合ったところに、私の自転車が戻って来た。

 今度こそ、ちゃんと帰宅するぞ。

 そうは思ったが、戻って来ることになったことも、そうなって良かったと思う自分がいるのだった。

臨時休業。

せとうち作品のモデルとさせてもらっていたロードバイク店が、そんな状態になった。

台風とかイベントとかではなく、諸事情。理由はわからない。だから、勝手なことは書けない。けれど、ロードバイク専門店という場所を物語の中で書いていると、どうしても考えてしまう。

専門店は、商品が並んでいるだけの場所ではない。店長がいて、店員がいて、メカニックがいて、常連がいて、メーカーとの関係があり、預かりの自転車があり、週末のライドがあり、レース前の整備がある。

だから、店は店であると同時に、人の集まりでもある。誰か一人が欠けるだけで、同じ形では回らなくなることがある。

小説の中では、そんな店を「いつでもどうぞ」と言ってくれる場所として書いている。でも現実の店は、いつでもそこにあるとは限らない。

どうか、ただの一時的な休みであってほしい。

そう思う。

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