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立ちゴケは突然に

「じゃあ、お母さん待たせてるんで、帰りますね。」

「いつでも来てくださいね。お待ちしてます。」

「ありがとうございます。よろしくお願いします。」

「いえいえ、こちらこそ。」


 お母さんが車から顔を覗かせて、店員さんに会釈する。

 店員さんも、店の入口に立って見送りながら会釈を返す。


「はい、これ。私の靴。」

「店員さん女の子なんだね。」

「そうだね。色々教えてもらった。」

「良かったじゃない。その自転車もカッコいいし。」

「カッコいいじゃなくて、可愛いの。」

「そうなの?まあいいけど。」


 どうでもよさそうに大事なポイントがあしらわれる。


「あ、玄関の中に置いていい?」


 大事といえば、大事なことを伝え忘れていた。


「そうね、先に帰ってちゃちゃっと片しとくわ。玄関先の階段は大丈夫なの?」

「うん。たぶん。これ、めちゃくちゃ軽いの。」

「そうだったわね。お父さんも軽々肩に担いでたものね。」


 お母さんが経験者というか、理解者で話が早い。


「まあ、その後湿布まみれになったんだけど。」

「あ!それはなんか覚えてるかも!」


 座布団を並べた覚えがある。

 いつもは凝るから乗ってと言われるのに、その日は違った。

 その上にうつ伏せになって、背中中真っ白になるくらい湿布が貼られたお父さん。


「……そうだったわね。案外、あんたに臭いって言われたから辞めたのかもね。」

「え。私のせい?」


 確かに、笑いながら言い放った。

 間違いなく言った。


「そうよ。お母さんはそう思うことにするわ。」

「ひっどーい、私、悪くないもん。」


 お母さんの中で犯人に仕立て上げられ、私はむくれるしかなかった。


「じゃあ、先に帰ってるわね。」

「わっかんないよー。これ、すごく速く走れるんだから。」

「危ないからお母さん、競争は受けて立たないわよ。安全に帰ってらっしゃい。」

「はーい。」


 まあ、勝った負けたで犯人じゃなくなるわけじゃないしね。

 そう思ってしっかりとヘルメットの顎紐を止める。

 マグネットのバイザーもしっかりと付けて、トップチューブに跨る。

 バチンと音を鳴らして、車道側のクリートをペダルに嵌める。

 歩道側に車体を倒して、逆回転でペダルの高さを合わせる。

 何度も練習した手順だ。


「ありがとうございました~!」


 最後にもう一度挨拶をして、ゆっくりと踏み込む。

 お尻が楽だ。

 サドルとの間でウェアが軽く滑るようにサポートしてくれる。

 パッドの分だけ高くなったせいか、少しだけ膝が伸びる。

 グイっと滑るように走り出す。

 ぞわり。

 この漕ぎ出しの何とも言えない感じ。

 押し出されるというのも違う。

 自分で漕いでいるのだから。

 まさに、機材が助けてくれるって感じだ。

 この後すぐに、鉄道を越える陸橋がある。

 正直、家までのルートのうちでは一番の難所だった。


「嘘でしょ、重いんだけど!」


 思わず声になる。

 あ、そうか、シフトチェンジすればいいんだっけ。

 ママチャリにない機能だから、判断に入っていなかった。

 ブレーキレバーを横に倒すように押し込む。

 必ずペダリングしながら行うこと。

 クリートを嵌める練習の後半で、これもやってみた。


「ふんぎぎぎぎ……ヤバい、コケる!」


 どっちがどっちかまだ覚えてないから、順番に操作してみる。

 そう思考しているはずなのに、一発で正解を引き当てる。

 身体はもう、覚えていたのかもしれない。

 ガチャ、ガチャ。

 店の前での練習のときより、たどたどしい変速。

 そう言えば、力いっぱい踏み込んでるときに変えるんじゃなくて、見越して変えるって言ってた気が。


「ヤバ、こういうことか。」


 陸橋の登りでものすごくふらつきながら、なんとか軽くなったことで体勢を立て直すことができた。


「うわぁ、軽い!」


 適したギアとはこういうことか。

 立て直した後は、強く踏み込まずに済んだから、続く変速は軽やかだった。

 調子に乗って一番軽くしてみた。

 めちゃくちゃ足が軽く回る。

 スイスイ登る。


「これなら石の宝殿(ほうでん)くらい楽勝で登れそう。」


 陸橋を登ると、正面には石の宝殿がある山。

 古墳時代にはここから全国に石棺の材料として切り出されていったという、竜山石の産地である。

 よし、次の目標が決まった。

 この後、石の宝殿、生石(おうしこ)神社の入口まで登る。

 ちょっと遠回りかもだけど、帰宅ルートから大きく外れるわけじゃない。

 山のてっぺんから初日の出を拝むのが我が家の初詣だった。

 車で行って、駐車場から歩いて岩山を登る。

 境内から伸びる階段は、信じられないほど急である。

 駐車場からのルートがこの階段を通るなら、参加したくないと思ったはずだ。


「それどころか、高御位(たかみくら)だって登れちゃうのでは?」


 左奥に見えるのは我が町最高峰の山、播磨富士とも呼ばれる高御位山に連なる山だ。

 頂上はどこかな。

 宝殿の山の裏かな。

 いや、あれがそうか?

 標高は富士山の10分の1もないのだ。

 播磨アルプスなんて呼ばれることもあるというのに。

 だから遠近法で手前の山と同じくらいにしか見えない。

 よし、宝殿の次は貴様だ。

 待っていろ、高御位。

 まあ、動いたら怖いけど。

 そんな版図拡大の野望を抱きながら、陸橋を下っていく。


「あ、お母さん。」


 下りきると、先の信号の少し手前でハザードを焚いて停まっている見慣れた車。

 と思ったらハザードが消えて動き出し、信号に並んだ。


「心配性なんだから。」


 私がちゃんと陸橋を越えてくるか待っていたのだ。

 こちらの信号が赤になったので、大きく手を振って見送った。

 そのとき。

 ごろん。

 何が起こった?

 コケた?

 派手な音もなく、ごろんと倒れた。

 軽すぎるせいで、足にくっついたままの自転車が上にある。

 慌てて足を捻り、クリートを外して立ち上がる。

 まだお母さんの車が信号で止まっていたので、激しく手を振る。


(こ・け・た!)


 口の形で伝わるように、大きく口を動かしながら。

 だけど信号が青になり、ハザードが点滅して真っ直ぐ走り去ってしまった。

 あれ、コケた瞬間は見てなかったのかな。

 仕方ない、店に戻ろう。

 信号が変わるのを待ってから反対側に渡り、来た道を戻る。


「すみませ~ん。」

「いらっしゃいませー。さっきぶりですね、どうされました?」

「えーと、そこでコケました。」

「え?!大丈夫ですか?怪我してないですか?」

「はい。時速0キロだったので……」

「立ちゴケですか。まあ、やりますよね。」


 絶対コケてなるものか、と思って練習したのに。

 変なこだわりが一つ減ったとも言える。


「あー、ここ塗装剥げてますね。」


 がーん。

 キレイな白い車体が早速傷物に。


「こっち側に倒れはったんですか?」

「そうですね。どこか壊れてます?」

「ディレーラーとは逆方向なんで大丈夫や思いますけど、一応みてもらいましょかね。」


 そう言って店員さんは奥に自転車を持って行った。

 思ったよりショックだったのか、その場で立ち尽くす私。

 コケたこと自体は気持ちが楽になったまである。

 けれど、不甲斐ない私のせいで可愛い私の自転車がさっそく傷付いたのだ。


「いらっしゃい。噂の防犯登録の子だね。」


 にこやかな顔でテレビの下から声を掛けて来たのは、初めて見る知らない人だった。

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