己を定めるは、己を知る他者たちの意図
「ずっと後悔し続けていたんだ、お前に向けて最後に告げた言葉が『二度と邪魔すんな』だったのを。それも、リコ、お前が死んだ日のことじゃない……そのずっと前のことだ、それ以降一度も口をきいてやらなかったんだから。」
「ウ゛ン……。」
警備兵だった人物、今は"マナコ"という名であると知れた彼女に抱きしめられながら、ハリコは身に覚えのない記憶について語り掛けられつつ、曖昧な相槌を唸り返していた。
ハリコの混乱は収まるどころか、現状を遅れて認識し続けながらますます強まっていたが。自分の名を"リコ"と呼ぶ、"マナコ"という存在……それはハリコが処刑任務に携わっていた時の、パートナーのリズァーラーにのみ符合する条件のはずであった。
「マヌケなことだよな、あんだけ一心不乱に採用試験に向けて勉強したのに、何も得られず、失う方にしか行かなかったんだから。最初っからお前と一緒に遊んでやっていれば良かったんだ、どうせあんな採用試験、受かるはずなかったんだから。」
「……ウ゛ゥ゛ー。」
ただ、彼女がいかに深く強く後悔の念を抱いているかは、ハッキリと伝わってきた。この空き家に到着するまで、居もしない脅威へ無意味に警戒し、ちょっとした物音にもいちいち耳をそばだてていた"マナコ"が、今は周囲を憚らず嗚咽を漏らしている。
あるいは、この心底にまで染みついた後悔を浮かび上がらせぬため、必要のない警戒を過剰に続けていたのかもしれない。
「ちょっと考えれば分かることだったんだ……他ならぬ管理局だ、この地下都市の隅々まで管理しつくしている統治機構……そんな連中が、職員として採用する人間に限って管理しないワケがないよな……。」
「ウ゛、ウ゛ゥ゛。」
「いちおう、形だけは広く志願者を募っていると見せかけるために、最初から採用する気のない受験者を招き入れただけだったんだ……管理局の内情を勉強し続けて、そんなことにも気づけないだなんて、バカだよな俺は。」
如何に地下都市が徹底された管理社会であるか、そのものを学びながら、管理局が採るはずもない例外的な採用を目指して採用試験へ向かうこと。滑稽な矛盾を、"マナコ"は最初から人生に課せられていたのであった。
あるいは、よほど有能な人材であれば、慣例を打ち破って採用された可能性も……いや、あり得なかった。既存の管理局職員たちが、自分たちの存在意義を揺るがすほどに優秀な新入りを迎えようとはしなかったろう。
先例をなぞって仕事さえしていれば済む楽な職場に、むざむざ変化をもたらす要因など誰も歓迎しない。
「管理局の連中がそのつもりだって気づいてれば、俺もムキになって受験勉強に打ち込まなくてよかったんだよ。父さんも母さんも、ずっと仕事に出てた、家の中には俺とリコしかいなかった。」
「……ウ゛ゥ。」
「退屈そうにしてるお前と、一緒に遊んでやる時間はたっぷりあったんだ。リコは知らなかっただろうが、この物置じゃない、屋根裏には俺が小さかったころに遊んでた玩具が押し込まれてた。親が帰ってくる頃には片付けて、勉強に専念してたフリだけ見せてりゃいい。」
自慢の娘が秀才として勉強に励み、いずれ管理局の職員として就職し、自分たちに楽な生活をさせてくれること……"マナコ"の両親の期待は、いずれ叶わぬものとして打ち砕かれることになるのだが、気休めとて十分に長い時間であった。
一番の悲劇は、妹のリコが誰にも遊んでもらえず相手されず、ばかりか邪魔者扱いされ、物置の暗がりの中に引きこもるようになってしまったがために起きたのだから。
「そうか、リコ、もともと暗い場所が好きじゃなかったはずだよな……お前、自分ひとりで遊べる玩具か何かを探して、この階段下の物置に入り込んだのが最初だったんだな……。」
「ウ゛ゥ゛ゥ゛ー……?」
「勉強中の俺の筆記用具に手を出したとき、こっぴどく怒鳴りつけたせいで、色鉛筆にもクレヨンにも触れちゃいけないものと考えて……だから、わざわざ釘を使って、壁を削るようにして落書きしていたのか……」
彼女らの両親は、日夜勉学に励む姉と引き比べて、何故か常に真っ暗な物置に閉じこもっている妹を見て、ますます期待を姉の方に懸けたのだろう。リコがそのように振舞った原因は、自分が叱られずに済む場所を求めたがためだったのだが。
幼いころから肩身の狭さというものを植え付けられた子供は、自らの扱われ方に不満を見出すことなどない。それが自分に与えられた価値の程度であり、他者の目に触れない位置に潜んでいるのが自らに相応しい振る舞いであると認識するだけである。
「気になるものは手に取っていいんだ、欲しいものはお前のものにしていいんだ、リコ、この家に居ていいんだ、好きな場所に……もう、お前が"好き"な場所は、暗くて狭い場所だけなのかもしれないが。」
「……ウン。」
その点に関しては、ハリコ自身も同意であった。もはや、菌類としての存在が本質であるリズァーラーが好む環境だから、と言う理由であったが。
ますます"マナコ"がこちらにもたせ掛けてくる体重は重みを増していたが、抱きしめる力と、その悔いをつらつらと述べ続ける声は、徐々に弱々しくなっていくようであった。
「誰もお前のことを怒鳴りつけたりしないから……お姉ちゃんはいくらでも、傍に居て、一緒に遊んでやるから……随分、遅くなって……こんなに、暗くなっちまったけど……」
「……ウ゛ゥゥ……」
もう二度と明けぬ夜のごとく、永遠の暗闇に包まれた地下都市の片隅。長く長く"マナコ"の胸中を締め付けていた悔いを乗せた、細い歔欷の声が徐々に弱々しくなり、そして途切れた。
彼女に抱き着かれていたハリコだけが、その口元から微かに漏れる寝息を聞いていた。
「……ウ?ウ゛ゥ゛?」
暫くの間、そのまま体を動かせずにいたハリコであったが、とあることにハタと気づいて、自分に抱き着いたまま昏睡している"マナコ"の身体を揺さぶる。
相手からの反応はない。深い眠りの割には浅い呼吸が、徐々に遠ざかっていく……彼女が素顔を晒し、空気供給用の携行タンクに接続されたマスクを外してから、かなりの時間が立っていた。
すなわち、酸素不足に陥っている可能性は非常に高かった。
「ウゥ、ウ゛ゥ゛……!」
ハリコは再び"マナコ"の身体を揺さぶる。呼吸を必要としないリズァーラーとは異なり、人間は地下都市内部で活動を続けるにおいて、新鮮な空気の供給が欠かせない。
下層街とは違い、上層街は循環システムが健在の頃に満たされた空気が残留していただろうが、それでも呼吸に適した酸素濃度が保たれ続けるには限度があった。
目を覚まさない相手を助けるためには、先ほど彼女が脱ぎ捨てたフルフェイスマスクを手に取り、被せてやる必要があった。携行用の空気タンクは、まだそこに接続されている。
「……!」
が、床に転がっているマスクへ手を伸ばしかけたハリコは、何かに見竦められたかのように、動きをビクッと止めた。
"マナコ"……人間である彼女が、償いを求め、謝罪を繰り返した相手である妹の"リコ"は、きっと姉を赦し、その命が失われようとするのを防いだだろう。リコの願いは、姉と仲良く遊ぶことだったのだから。
だが、ハリコは、彼女が求めるリコではなかった。
いつまで待たせるんですかぁ?リコくん。
ハリコの目的は、人間の新鮮な死体を手に入れて、養分液へと加工し、全身乾燥状態でハリコの帰りを待ち続けているマナコに与え、活動を再開させること。
これまでは頑丈な金属板で保護されていた、この元警備兵の首筋は、今完全に無防備な状態でハリコの前に差し出されている。
それは、ハリコと、彼女の妹であるリコが有する奇妙な一致点を見て……"マナコ"が死ぬ前に一度でも会いたいと願っていた相手、リコと、ハリコを同一視したがために他ならなかった。
「ウゥ゛……ウア゛ァ゛。」
ハリコは、自分が本来目的としていたところをすっかり思い出した。つい先ほどまで、自分の中で頭を擡げかけていた、この目の前の人間に対する愛情のような物は、同時に忘れ去っていった。
大きく顎を開き、本来の人間が持つ歯からかけ離れた大振りの牙を剥く。
その牙を目の前の首筋に突き立てる瞬間、ほんの僅かに、自分の頭の中で細く鋭い絶叫のようなものが聞こえた気がしたが、構わずハリコは"マナコ"の首筋へと思い切り噛みついていた。




