振る舞いだけは覚えている、もはや姿は似ても似つかず
久しぶりの呼ばれ方が思いもよらぬ相手の口から出て来たため、驚きのあまり固まっているハリコ。自分のことを「リコ」と呼ぶ存在が、マナコ以外に居たとは……。
目の前の警備兵は、こちらに手を伸ばしてくる。ハリコは狭苦しい物置の中、様々なガラクタの隙間にすっぽりと埋もれるように座り込んでいるため、満足に身動きも取れず逃げることもままならない。
「お前は……リコ、お前なのか?」
「……ウ゛ゥ゛……?」
十分な警戒心を抱いたままであれば、そんな場所に腰を落ち着けるはずなどなかったのだが、つい先ほどまでのハリコはごく自然に、自ら心を落ち着けられる場所をここに求めたのだ。
しかし、警備兵がこちらに伸ばす手の先には、攻撃性がまるで感じられなかった。そのため、ハリコは自由に動かせる両手で防ごうともせず、自分の頭部を覆っているフード、口元を隠しているボロ布が外されるがままに任せていた。
「……そんなわけ、ないか。」
「ウ゛ー……。」
ハリコの頭部、布で隠されていた部分が露わになる。口元は脱落した皮膚の奥から、剥き出しの大牙がズラリと並び、さらにその内側にも小ぶりの牙を生やしたもう一対の顎が覗いている。
頭頂部は、これまた皮膚が剥離して骨格が露出し、本来の人間としての頭蓋骨が砕かれたギザギザとした形状である。断面を埋め尽くして骨格の代わりを果たしている硬質化した菌糸が、まるで割られた石膏像のごとき凹凸の面を形成していた。
「似ても似つかない、俺の知っているリコとは。……こんな姿であるはずがない。」
「ウ゛ゥ゛ゥ゛。」
「だが、本当に、偶然なのか?ここは、俺の家だ。敢えて選んだんだ、もう誰も代わりに住むことがないんだから。」
ドアの開く方向や、家の中の構造など、この警備兵が妙に熟知していたのは、単に隠れ家として下調べをしたためだけではなかった。
真っ暗闇の中、頼りない細い光を投げかけるだけの携行照明では、上層街の片隅、路地の入り組んだ中に立ち並ぶ一件の家を探し当てることも困難であろう。これと定めた空き家の中に上がり来んでも、埃をかぶった家具やガラクタが詰め込まれた中で、間取りを確認するのは手間のかかる話である。
それでも迷わずここにたどり着き、頼りない携行照明一本で自分の隠れ家として場を整えられたのも、この警備兵自身の生家であったためだ。
「いや、俺の家"だった"と言うべきだな。警備兵として勤務している間は、家に帰ることなんかできないし……そもそも、帰るべき場所を失ったから、俺は警備兵になったんだ。」
「ウゥ……?」
狭苦しい階段下の物置にすっぽりと身を収めたハリコと向かい合うように、その場の床板に腰を下ろす。小柄なハリコの体重でも踏めば軋む床板は、そこまで大きく撓む様子はなかった。上背のある警備兵は、その外見ほどに体重がないのかもしれない。
場の安全と生存用の物資を確保した今となっては、せっかく得た話し相手に語り掛ける以外、現状はやることも無い。そんな相手からハリコはこの場から逃れるわけにもいかず、ただ相手の話に聞き入っていた。
「俺はこの家で生まれ育った。見ての通り、上層街のなかじゃ隅の方の居住区画、家族の人数のわりに狭苦しい家に押し込まれて、な。」
「……ウゥー。」
下層街の穴倉そのもののごとき住居と比べれば、家の形を成している時点で十分に贅沢な環境であったのだが、それでも狭苦しいと評したのは確かに上層街育ちである証であった。
警備兵が思い出を掘り起こすように家の中を見回した時、横切った携行照明の光が、物置の壁面を削って残された落書きを照らした。メガネのようなものをかけた、何かのキャラクターの顔が稚拙な線で描かれていた。
「悪い生活じゃなかったよ。自分だけの部屋が欲しかったが、生憎ながら父さんと母さんがせっせと愛し合って、きょうだいが生まれてしまったせいで、その願いも叶わなかったのが不満ぐらいでな。」
「ウ゛ゥ゛ゥ゛。」
警備兵は……ハリコの認識では、そう呼ぶしかなかったのだが、もはや警備すべき対象も社会も存在しない今は、警備兵という呼称も相応しくない……その特徴的なフルフェイスのマスクとヘルメットを脱いだ。
自分の生まれ育った家、自分の有する記憶を語りながら、物々しい防具で顔を覆い続けることは、あまりにも相応しくないと感じたのだろう。その容姿をあれこれと評する他人は、この場に、この世界に居なかったのだが。
その素顔を目の当たりにして、ハリコはまた新たな驚きに目を丸くした。
「何に驚いている?……そうか、マスク越しでは声も無機質にしか聞こえないか。俺が女であろうが男であろうが、関係の無い話だと思うが。」
「……ウ、ウ゛ゥ゛ー。」
「リズァーラーってのは、感情もなくただ命令に従うだけの存在だと思っていたが、お前に限っては違うみたいだな。」
警備兵のマスクを外した下には、目つきは鋭いものの、薄い眉が凛々しく吊り上がり、頬に丸みのある……女性の面立ちがあった。多少くすんだブロンドの髪は、整髪の手間を除くため短く切り詰められていたが、伸ばされていれば美しい顔立ちに映えたことだろう。
体を清拭するだけの余裕も無いためか、密閉されていた警備兵装備の内側からはツンと鼻をつく体臭が漂った。
「そもそも、俺は警備兵になるつもりはなかったんだ。なる予定がなかった、と言うべきか。」
「ウ゛ゥ゛?」
「俺は、勉強の末に採用試験に合格し、管理局の職員として安泰の地位に就くはずだった……らしい。ウチの両親が勝手に決めた人生計画とやらによれば、な。」
市民生活管理局に勤めること、それは確かにこの地下都市において最も安定した職であったろう。下層街で汗と泥と不潔な空気にまみれて働くのと比べてももちろん、いつ切り捨てられるとも知れない設備管理の職と比べても、ずっと生活の保障された身分であった。
その夢がかなわなかったが為に、彼は……いや、彼女は、警備兵の職に就く他なかったのだろう。
「だが、邪魔が居たんだ。俺が部屋で勉強に集中したくとも、まだ小さかった妹がそれを邪魔した。……リコだ……。今にして考えりゃ、仕方ないことだ。まだ事の道理も知らない幼児なんだから。」
「……ウ゛ン。」
「俺は妹が遊びに誘ってくるたび、冷たく跳ねのけ、しまいには怒鳴り散らした。あんまりにも俺が激怒するもんだから、妹は物心つく頃には怯えて、自分だけの居場所に閉じこもるようになっていた。」
語りながらも徐々に項垂れていく警備兵の眉間に、深い皺が刻まれている。
その肩口に固定された携行照明の光が、今ハリコの座り込んでいる倉庫の壁面を照らす。先ほども見えた、釘の先で削ってつけられた落書きは、確かに子供らしい稚拙な筆致ではあったが、ずいぶんと丹念に彫りつけられているようにも見えた。
「……そうだ、ここだ、この階段下の、狭苦しい物置の中だ。ここがリコにとって……ここに居れば、姉である俺に怒鳴られず、安心して座り込んでいられる、唯一の場所だったんだ。」
「……。」
「この中で妹が何をしていたのか、俺は知らない。こっちの勉強の邪魔をしないで静かにしていてくれるのなら、それで十分だったからな。」
ハリコには、この狭苦しい空間で為すことが、何故かはっきりと想像できるようであった。
壁に彫り付けたキャラクターは、空想上の友達だったのだろう。誘った時にいつでも一緒に遊べて、どんな時も常に笑みを絶やさず、自分が間違いなく居ていい場所を用意してくれるような……。
「両親も、妹に怒鳴る私を窘めつつも、気に留める余裕もない様子だった。仕事に追われる日々だったからな、俺が管理局の職員に就任すれば楽な生活が出来る、彼らはそればかりに期待していた。」
上層街の住民とはいえ、これだけ居住区の片隅に押し込められているというのは、決して富裕層の仲間入りをしているとも言い難い状況であったろう。
たとえば、ハリコがかつての処刑任務で処刑した、上層街向けのライフライン整備を行っていた作業員……彼とその家族もまた、どうにか上層街の片隅で生活を続けている程度の市民の一員であった。
ひとつ仕事でミスをすれば、家族ごと劣悪な居住環境の下層街に落とされるかもしれない。そのプレッシャーを常に感じながら生き続けるのは、下手をすればもとから下層街で生活している市民よりも激しい辛苦を伴うものだったかもしれない。
「あれは俺が、管理局の採用試験に向かった時のことだった。両親も、彼ら自身の人生が掛かっているものだから、ご丁寧に試験会場まで送りにきた。さっきの建物だ、あの無駄に贅沢なガラス張りのな。」
「ウ゛ン……。」
「試験自体は、最悪だった。最初から、誰を採用するかなんて決められているみたいだった。俺みたいな上層街外縁の居住区出身の奴以外、全員示し合わせたみたいに独特のお辞儀を披露するんだぜ。実力なんか評価されない。」
管理局職員という、この社会で最も安定した職業に就けるのは、元よりこの都市の富裕層出身者だけと定められていた。
かつての地上文明における宮仕えのような有様であった、政治の手腕など考慮されることなく、ただ先例を遵守し、協調を乱さぬ振る舞いさえ身に着け……現状の権力者が気に入った家柄の若者だけが合格通知を受け取ったのだ。
「まぁ、んなことはどうでもいい。その時の私と両親にとっちゃ大事件だったが、今から考えればどうでもいいことだ。」
「……ウ゛ゥ゛ゥ゛。」
「俺の妹は、帰ってきたときにはここで死んでた。俺も両親も出かけている間、上層街の空気供給装置が一時メンテナンスで停止したんだ。」
地下都市では、光や水と同様、呼吸に適した空気も、機器によって供給される必要がある。
人間の生命が、常に機器類によって維持されていることが明確な世界であった。
「管理作業員が携行の空気タンクを手に各家庭を訪問してたんだが、ずっとこの狭い物置に閉じこもってたリコは、居ることに気づかれなくてな……。」
「ウ゛……。」
きっと、その死に様は安らかであったろう。急激な窒息とは違い、徐々に酸素濃度が下がっていく状況においては、まるで眠気に誘われるごとく、ゆっくりと意識が遠ざかり、戻って来なくなる。
それだけは救いであった。
「その空気供給装置のメンテナンスが、事前に知らされてたかどうか、今となっちゃ分からん。どっちにしろ、自分たちの人生を掛けた採用試験の方が、俺も両親にとっても一大事だった。」
「……。」
「妹の亡骸は、そのまま地上葬に送られた。破砕されて養分液に加工され、リズァーラーのエサにされるよりも、はるかにマシな扱いだったな。」
地上葬、すなわち死体を地上行きのリフトに乗せ、地上世界に降り注ぐ胞子に晒す事である。物を燃やすための酸素も不足する地下世界では火葬など出来ず、雑菌の繁殖が致命的な感染症に繋がりかねない土葬も不可能である。
人の身体に取り付いて操る胞子は、死体を立ち上がらせ、地上のいずこかへと歩き去らせてしまう。……その者が、リズァーラーとなって地下都市へと戻ってこない限りは。
「母も父も、それから後は別人みたいになった。妹が死んだ責任を取るように、管理局相手に訴えを起こしたりな。勝てるはずないのに。逆に罪状をこちらへ押し付けられるんじゃないかと察した俺は、事が面倒になる前に警備兵へと志願した。」
地下都市の全てを管理統制している管理局は、不満を抱いた不穏分子を決して放置しない。管理局の採用試験に向けて勉強を積んでいた彼女は、それを嫌と言うほど理解していた。
警備兵として採用されることにおいては、本来の身分はさほど重視されない。たしかに激務続きではあれど、食事は確実に得られ、命令に忠実に働く限り身分も保障される。
「そっからは……もう、家族と会うことなんかなかった。警備兵として働き続けて、お前らリズァーラーが地下都市の社会を何もかも壊して、今に至るってところだ。」
「……ウ゛ゥ゛ゥ゛。」
「何もかもが終わって、誰も彼もが死んだあと、この家に久々に来てみれば扉が開きっぱなしだった。家の中は荒れ放題だったし、マトモな生活は出来てなかっただろうな。」
自分の言動が妹の死の遠因となり、更には両親をも見捨てて逃げた彼女の声は、ついに堪えていた震えを隠しきれなくなった。
ハリコは、初めて人間が涙を流すところを見た。これまで幾度となく処刑対象の顔が感情に歪む様は見てきたが、激昂や怯懦の色こそあれど、涙腺を緩める猶予など処刑の直前にあろうはずも無かった。
警備兵……だった彼女は、やにわに両手を伸ばし、ハリコの両肩をむんずと掴んだ。
「……あぁ、違うな。この筋肉のつき方、男の腕だ……いや、リズァーラーだから菌糸の束か、体内にあるのは……どっちにしろ、お前が生前、俺の妹……リコだったってことはなさそうだ。」
「ウゥ゛、ウゥ゛ゥ゛。」
過去に残して来た無数の後悔と懺悔に覆い尽くされて項垂れ、それでも落胆を味わわずにいられぬように、深く長い溜息が彼女の口元から漏れる。
ハリコは、その言葉を発せぬ口で伝える術などなかった。この腕は、自分が本来有していたものではない、シェルという別のリズァ―ラーから切除され、移植されたものであると。
とはいえ、仮にそれを伝えることに成功したところで、自分が目の前にいる彼女の妹だったとは……あまりに俄かな内容に過ぎて、ハリコ自身が信じられないものであった。




