数奇は生前を喚び起こし、そして
警備兵が保持している携行照明だけを頼りに、飲料水のボトルが入った箱を持たされ、移動を続けるハリコ。
リズァーラーにとっては、不要なことばかりで構成された行動であった。あの管理局の建物内、死体しかないことを確認できたのであれば、すなわちこちらへ干渉してくる存在も居ないということである。わざわざ場所を移動する意味をハリコは見いだせなかった。
「あの金庫室を開けた瞬間から、後悔してたんだ。ブクブクに膨れて腐敗してる死体をあんだけ見せられて、その隣で悠々と食事してられるほど、俺は感性も壊れちゃいない。」
「ウゥ゛ー……。」
あげく、物理的に可能な現象によって立てられた物音に、まるで怯えるようにして遠ざかる。地下都市で活動してきた警備兵である以上、散々に人間の死体は見てきたはずだが、妙に怖がりが過ぎるように思われた。
何者が潜んでいるとも知れぬ暗闇に満たされた、もはや生きている存在の気配ひとつない地下都市に独りきりで居続ければ、相応に神経が尖るのも道理であったかもしれないが。
「こういう時に備えて、安全を確保した場所を複数準備しておいて正解だった。生き残ったのが自分だけだって保証も無いし、お前みたいに地上世界から戻ってくる奴もいるかもしれないからな。」
「……ウ゛ゥー。」
少なくともハリコが見届けた顛末から察しても、地上世界へと出ていったリズァーラーたちが帰ってくることは無いと思われた。ほとんど不要な恐れのために、この警備兵は万全の備えを続けていたのである。
あるいは、ただ終わりのない時間が無為に過ぎゆくのを味わわずに済むよう、架空の脅威に対して備えるという目標に即して行動し続けていたのだろう。
「あの身体が壊れたリズァーラーを寝かせてある屋敷は……あぁ、まだ置いてある携行照明が点灯しているな。」
「……?」
「あぁやって、声を出す奴や光を発するものを設置しておくことで、何か来た時に引き寄せるためのエサとするんだよ。」
別にハリコは説明を求めてなどいなかったが、警備兵は滔々と自分の備えについて語っていた。たしかに自分は危険を遠ざけているのだと自覚しつつ語り聞かせる行為自体に、自ら安心感を求めていたのだろう。
ハリコを連れた警備兵は、上層街居住区の隅の方へと足を運んだ。中央区画ほどの豪邸ではないものの、下層街の住居とは変わらず雲泥の差である住宅が並んでいる。
家々の間、細い路地を幾度か折れ曲がって進み、警備兵とハリコは一軒の玄関前に到着した。
「狭苦しいかもしれないが、こういう入り組んだ場所の方が身を潜めるには相応しいんだ。予備の充電池や、携行用空気タンクはここに備蓄してある。」
「ウ゛ゥ゛。」
「相変わらず、建付けが悪いな……上層街の中でも、下町みたいな場所だ、仕方ない。よし、扉が開いたぞ。」
ガラガラ、と音を立てて開く引き戸には、曇ったガラス板がはめ込まれている。経年劣化と埃で汚れたような風貌であったが、ガラスを用いているという時点で十分に贅沢な玄関扉であった。
少なくともハリコは、一つの住居として独立した建物を有している時点で、狭苦しいとは感じなかった。地下都市の大多数を占めていた下層街住民の住居は、ただ岩盤が直方体に刳り貫かれ、家族分の寝具や食卓が押し込まれただけの空間であった。
富裕層市民が住まう邸宅と比べては、確かに今踏み込んだ住宅内部は狭かったものの……この警備兵の感性は、間違いなく上層街に暮らしていた人間としてのものであった。
「入って廊下の突き当たりを右の部屋、お前が運んできた飲料水はそこに置け。二階への階段は上がるなよ、足を糸に引っかけたら上から物が転がり落ちて来る仕掛けをしてある。」
「……ウ゛ン……。」
指示された通りに、ハリコは飲料水の箱を抱えて廊下を進む。足元で、手入れのされていない木張りの廊下が軋む音を立てる。
廊下の突き当たりの部屋、ドアノブを掴んで引き開け、ガランとした暗闇のなかに飲料水の箱を置いてハリコは警備兵の元へと戻る。向こうもちょうど、抱えてきた食糧の箱を隠すべき場所に置いたところであった。
「ウゥー。」
「もう戻って来たのか、ちゃんと言った通りの場所に置いたんだろうな?廊下の中途半端な場所に置かれていては、暗がりの中で蹴躓いて転んでしまう。」
何やら買い物を済ませて帰ってきた家族のようなセリフを吐きつつも、警備兵は携行照明を手に廊下へと出る。
そのまま突き当りまで進み、右側の部屋を開け、たしかにハリコが運んでいた飲料水の箱が置かれているのを確認し……戻ってきた警備兵はハリコに神妙な表情を向けていた。
「……お前、あの部屋、よく開けられたな。」
「ウ゛ゥ?」
「どうせ開くのに手間取るだろうから、俺が携行照明を持って後から行こうと思っていたんだ。真っ暗闇の中、ドアノブを握って……あれは内開きでも外開きでもない、溝の上を滑らせる引き戸だというのに、どうして迷わず開けられたんだ?」
ハリコは、少なくとも今は警備兵に指示された通りに行動しようと、ごく自然に命令通りの行動を取ったに過ぎない。
が、言われてみれば奇妙な状況であった。照明器具を持っているのは警備兵であり、唯一の灯りが無ければ完全な暗闇に閉ざされているのがこの地下都市である。地上の外光はとてもここまで届かない。
にもかかわらず、ハリコは闇に閉ざされ見えない中で、ドアノブを握り、ドアではない引き戸を迷わず開けることが出来ていたのである。全く初めて上がりこんだはずの家の中で。
「まさか、お前、この隠れ家を既に知ってたんじゃないだろうな?」
「ウ?ウゥ、ウ゛。」
「……そんなはずはないか、お前が地上世界から戻ってきた奴だってのは、分かってる。俺が確保した隠れ場所を、いちいち探し当ててる余裕なんかないよな。」
結局、ごく純粋に指示通りに動いたハリコが、スムーズに物資を置くことを済ませたのだと考えることにしたのか、警備兵は声色に訝しさを浮かべながらもそれ以上の追及をしなかった。
そこから先は……これといってやることが無い。警備兵が腹を空かせ、食糧が足りなくなる時が来るまで、行動する必要は見いだされない。あるいは、ハリコが警備兵の隙をつき、殺害に成功してマナコのもとへ死体を持ち帰るまでは。
その家におけるリビングに当たるのだろう、ごちゃごちゃと置かれて埃をかぶった家具に囲まれ、ざらざらした粗末な絨毯に座り込んだ警備兵は、手持無沙汰にこちらへ視線を向けるハリコに声をかける。
「好きなところに居ていいぞ。俺の携行照明が届く範囲でしか、動けないだろうけどな。」
「……ウ゛ゥ゛。」
紆余曲折あれど、その時点までハリコが従順に命令通りに行動していたおかげか、警備兵はハリコに一定の行動の自由を与えた。
好きなところに居ていい、と言われても、リズァーラーは自由意思に任されて行動することが苦手である。突っ立って睨んでいても警備兵が隙を見せてくれるはずはなく、ハリコは何とはなしの感覚に縋るようにフラッと廊下へ出た。
確か、かつて処刑担当チームの拠点に居た時も、任務を与えられていない間は何をして時間を潰すべきか、分からなかった。
「ァ……。」
とはいえ人間から命令を与えられるのが本懐であるリズァーラーにも、自らの好む場所が無いわけではない。ハリコの場合は、それが自分ひとりぶんの空間しかない小部屋、あの真っ暗闇に満たされた待機室であった。
あの場所で、養分液をポタポタ手に垂らしてじっくりと吸収したり、目を閉じて夢現を彷徨うような感覚の中で、地上の光景に似た幻視を見たりしていたのだ。
ちょうど、この家にも同じような小部屋があった。廊下の半分を塞いでいる階段、その下に、小さな物置用の小部屋がある。
「ウン……。」
ささくれが指に刺さりそうな、粗末な木板の戸を引き開ければ、たしかにそこにはハリコが座り込むにピッタリの、狭く暗い空間があった。
おそらく、本来の住民が普段使わない靴や掃除用具を押し込んでいたのだろう。その中央に空いたスペースに腰を下ろせば、ハリコの小柄な身体はすっぽりと中に納まった……。
「なぜ、知っている?」
「ェ?」
唐突な警備兵の声と共に、携行照明の光が投げかけられる。
つい先ほどまで、リビングでくつろいでいたと見えた警備兵であったが、照明の光と足音を消してハリコの動向を追い、監視していたのだろう。
「やっぱり、腑に落ちないことばかりだ。さっきのドアの時といい、お前はこの家に上がったことはないはずじゃないのか。何故、真っ暗闇の中で、そんな目立たない場所にある小部屋に気づけるんだ?」
「ウ゛ゥ゛……ウゥ……。」
そう問われても、ハリコに答えるすべはない。
確かに不可解な状況ではあった。ハリコはただ、自分の心の求めるままに、腰を落ち着けられる場所を探り当てただけのつもりでいた。が、灯りで照らされていない屋内を、どこにもぶつからず、ある種の確信を持って、この小部屋にたどり着いているのである。
処刑担当チームの拠点と同様に、自分ひとりだけで落ち着いていられる空間を求めて。
「それに、そうやって狭苦しい所に入り込んで、座り込んでる姿……」
「……ウ゛?」
「よしてくれ、リコ、お前は死んだはずだ。」
ハリコは、いよいよ目を丸くして、目の前の警備兵を穴が開くほど見つめた。
自分の名前「ハリコ」をそのように呼ぶ存在は、彼が知る限りマナコだけであるはずだった。しかし、現に、この警備兵は……間違いなく「リコ」と自分を呼んだのだ。




