無きも、姿無きも、見えざる先には変わらずに
明らかに自分たち以外の何かが音を立てた廊下へ、聴覚を集中させている警備兵。こちらの位置を知らせないよう携行照明は消灯し、部屋から顔を出すことなくじっと外の気配を窺っている。
それは、ハリコがこの警備兵と初めて邂逅したときと同じ反応であった。リズァーラーも人間も、未知なる何かが存在する可能性を感じ取った時は、不用意な行動を取らぬよう動きが固まってしまうものらしい。しんとした管理局長室の中、じっと待つ時間が続いた。
光の無い空間の中、どれほどの時間が経ったか計る術も無かったが、暫しの沈黙ののち警備兵は意を決したように声を出した。
「おい、確認しに行くぞ。お前が先に出ろ、リズァーラーは多少怪我してもすぐに治癒されるんだろ?」
「ウ゛ゥ゛ー……」
それは事実であったが、とはいえハリコも敢えて体に損傷を負うような真似を好むわけではない。身体修復には相応の養分を費やしてしまうし……ハリコが養分液の補給無しで活動し続けている時間は、かなり長くなっていた。
しかし、堅牢な装備品に身を固めた警備兵から命令されては、逆らうわけにもいかない。人間の命令に従うというリズァーラー本来の性質にも従い、ハリコは後ろに跳び退く準備だけはしながら恐る恐る廊下へ顔を出した。
「……。」
「何も居ないか?いっぺん完全に廊下に出ろ。お前が姿をさらしても何も襲ってこないのを確認したら、俺も照明の光を持って出る。」
「……グルルゥ゛。」
真っ先にハリコが危険な目に遭うこととなる采配であったが、妥当な判断でもあった。携行照明を唯一所持している警備兵が不意の襲撃者に倒されたら、ハリコ自身もまた状況に即応できないのだ。
まるで後ろ足を自分の背後に置き去るかのように進まぬ歩みで、じりじりと廊下の真ん中にまで出ていったハリコ。見えないなりに暗闇の向こう側へと目を凝らし続けていたが、何かが活動しているような気配は皆無であった。
「ウゥゥ゛。」
「何も、来ないな?……隅々まで確認するぞ、廊下の奥だ。先ほどの物音が聞こえてきた方向もおおよそ近いし、我々が今ここにいる以上、この場所を通過して何者かが出ていくことは不可能だからな。」
「……ウ゛ー。」
「躊躇している余裕はない、現状の安全を脅かす恐れは、確実に排除しなければ。お前も来い、どっちみち照明を手にしている俺がいなければ、マトモに行動も出来ないだろう。」
ハリコとしては、周囲に警戒しつつもサッサとこの場を離れたい思いであったが、食糧や飲料水の備蓄がここにある警備兵としては、まず不審な存在を排除するほうが先であった。
警備兵は、部屋の扉の内側に花瓶をひとつ置き、押し開ければ花瓶が倒れる音がするように仕掛けてから廊下に出た。その後、ハリコの腕を掴み、携行照明を構えながら廊下を進み始める。
警備兵なりに平静を保とうとはしているのだろうが、緊張か不安のためか、先を照らす光の環は持ち手が細かく震えている様を示していた。
「いいか、こっちは背後を主に警戒している。前方から何か来たら、迷わず飛び掛かれ。相手の動きを妨害しさえすれば、攻撃は十分に可能だ。」
「ウ゛ゥ゛、ウ゛。」
警備兵は携行照明を構えているのとは別の手に、腰に提げていた幅広の刃物を握りしめていた。カティーの顔や体を散々に叩き潰すのに用いた得物である。
ハリコとしては、一概に心強いと感じてもいられなかった。仮にハリコが不審な存在を取り押さえたとしても、この警備兵はハリコごと身体を滅多打ちにし、切り刻むかもしれない。
奥側の廊下は、間もなく突き当たりの壁に着いた。殺風景な廊下には隠れられそうな物陰は無く、警備兵は廊下の隅にある倉庫の扉へ照明の光を向ける。
「この中を調べるぞ。俺が最初ここに来た時、食糧や水が無いか既に中を確認したんだが、その後から何者かが潜んだのかもしれない。」
「……ウ゛ゥ゛。」
警備兵の言に対し肯定も否定も見いだせなかったハリコであったが、ひとまず相槌めいた唸り声だけは出しておいた。
中に何者かが潜んでいるのならば、先んじて聞かせるためであった……本来の処刑任務ならば自分たちの人数を知らせる真似は悪手であったが、今は戦闘自体の発生を避けたい。
こちらが警備兵とリズァーラーの二人組であることを相手が知れば、襲撃を諦めて降参してくれるかもしれない。
「開けるぞ……クッソ、ここは無駄に物が詰め込まれていて、隠れられる場所が多いんだ。」
「ウァァ……。」
殺風景な廊下とは打って変わって物や色に溢れた中身を見て、ハリコも我知らず嘆声を上げる。既に食糧や水を探し回った警備兵が見向きもしていなかったのも当然のことで、その倉庫には数々の古びた家具・調度品が所せましと置かれていたのだ。
彩色されたガラスの傘を付けたランプ、乾ききった革張りのソファ、そして、未知なる生き物を模した像……既に地上で絶滅した動物たちを、地下都市の住民やリズァーラーが知る由も無かった……が、棚にギッチリと詰め込まれていた。
いずれも、もはや値段のつけようのないほどの骨董品であった。値打ちを見出せる存在自体が、もはやこの世界には存在もしなかったわけであるが。
「邪魔くさいものを、お偉いさんはわざわざ地上世界から回収させてきたもんだな。おい、隠れている奴がいるなら出てこい!この倉庫に詰め込んであるガラクタに身を潜めたって、全く身を守る役になんか立たねーぞ!」
「……。」
至極当然のごとく、内部から返答はない。
投げかける携行照明の光は、多種多様な形をした骨董品にランダムに遮られ、複雑な影を作る。中には人を模した像も混じっており、人影に見える光の落ち方に思わず、ハリコも警備兵も同時に足を止めてしまうこともあった。
倉庫の隅まで確認し、生きている存在が確かに居ないことを確認したハリコは、床に倒れている絵画の額縁に気づいた。
「ウゥ゛……。」
「何か見つけたのか?……おい、ゴミに構ってるヒマは無いんだが。」
確かに生存において何の利にもならない絵画は、いかなる銘品であったとしてもここでは無価値であったが、ハリコが注視していたのは額縁の裏側である。
ほとんどの絵画が壁に掛けられた状態で保管されている中、この一枚だけが落ちている状態自体が奇妙であった……たしかに、その背面、壁に掛けるための紐はちぎれていたのである。
おそらく地上世界から回収された時点で、額縁も付属する紐も相応に古びていただろう品である。時間経過により、劣化した紐が額縁の重さに耐えきれず切れ、床に落ちたと考えるのも無理のない話であった。
「……ウ゛ゥー。」
「これが落ちて、音を立てたってのか?……フン、つまらないことにビビらされたもんだ。だが、何者かの気配はあったんだがな……。」
生きている人間の気配ならば、処刑任務に携わってきたリズァーラーである、ハリコの方がよほど鋭敏に感じ取れる。
相手が極力身動きを制限していたのならばまだしも、あれだけ分かりやすい音を立てるような行動を取り、なおかつこの場から逃げ去ったのであれば、その体温や体臭は残っているはずであったが、少なくともハリコには何も感じ取れなかった。
しかし、警備兵は変わらず神経質に周囲を見回している。
「戻るぞ、場合によっては食糧や水の備蓄を、別の隠れ場所に移さなければならない。」
「ウェ……?」
何から隠れる必要もないのに、複数の隠れ場所を用意し、自分の生存に必要な物資も定期的に位置を変える警備兵。
地上文明で作り出された言葉を用いるなら、まさに疑心暗鬼と呼ぶ他に無い状況に陥った人間であった。ハリコは、自分の目的とする存在を前にしながら、またしても人間の無駄な行動に付き合わされる予感をひしひしと味わっていた。
倉庫の部屋を後にし、管理局長室へと戻る両名。分かりやすい異変は、その時に起きた。
「……おい……!」
「……?」
突然、警備兵は姿勢を低くし、傍らにいるハリコも頭を押さえつけられて強制的に床に伏せさせられる。
既に前方に向けられていた携行照明の光は、管理局長室の扉へ向けられていた。一見、何も変化が無いように思われたが……間もなく、ハリコも警備兵が気づいたものを視認した。
扉が勝手に開いていく。
重厚な木目の扉は、徐々に扉枠との隙間を広げていき、警備兵が万が一の合図として仕掛けておいた花瓶を倒し、ガチャンと音を立てた。
「おい、そこに居るんだろう、見えているぞ!襲撃を企てているならあきらめろ、こっちには武器がある、処刑用リズァーラーも居るんだ!」
「ウ゛、グルルゥ゛!」
警備兵の呼びかけ、ついでのように唸り声を立ててみせたハリコに対しても、応じる存在はない。
扉は軽い軋み音と共にゆっくりと開ききり、部屋の内側の壁に当たってトンと軽い音を立て、止まった。
顎で合図され、ハリコは渋々ながら先行して部屋へと入る。何の気配もない前方の暗闇よりも、背後で幅広の刃物を振りかざしながらじりじりとついてくる警備兵の方が怖かった。
「本当に、誰も居ないのか……?おい、扉と壁の間に隠れてるんじゃないだろうな、金庫室がまた開けられた痕跡はないか?とことんまで探せ!」
「ウゥ゛ゥ゛ゥ゛ー。」
いよいよ緊張感の極致にあった警備兵は上ずった声でハリコへ指示を出す。
しかし、ハリコの方はもはや脅威が近くに無いであろう雰囲気を十分に感じ取っていた。開いた扉に押されて倒れた花瓶以外、何も動かされた痕跡はない。警備兵の言った通りの場所もしっかり覗き込んで探したが、結局何者も隠れ潜んではいなかった。
「ちゃんと探したんだろうな?お前も見ただろう、扉が勝手に開いていったんだぞ。それも、目の前で……勘違いじゃない、決して。」
「……ウン。」
たしかに扉が勝手に開いていく光景は、少々意外だったものの、思い返せば物理的に起き得る現象しか起きていない。
内開きの扉は外側へ向かって開かないため、緊急時に勝手に閉まって脱出を阻害することが無いよう、中途半端に隙間が空いている場合は重量で開いていくように微細な傾きがつけられていたのだろう。分厚い扉は花瓶を押しのけるに十分な質量を有している。
しかし、人間はリズァーラーが思いもよらぬほど非合理的な判断を下すものであった。
「ダメだ、ここには居られない。きっと、金庫室を開けたせいだ。俺がこの中に閉じ込めて、そのまま死んでいった職員どもの恨みが出てきちまったんだ。」
「ウゥ……?」
この警備兵の場合、自分を恨みながら死んでいった者たちへの恐れも手伝っていただろう。
死んだ人間が、現実の現象に干渉するような恨みを遺す、などという考え方自体ハリコには思いもよらぬものだったが……警備兵は自らの思考で答えを出しきれない現象の原因を、そこに求めたらしい。
警備兵が口にした内容を理解できないまま、目を丸くしているハリコに、警備兵は飲料水の入った箱を押し付ける。
「お前はこれを運べ。今から、別の隠れ家に移動する。このまま、ここで暮らしては居られない、気がおかしくなりそうだ。」
「ウ゛……ウン……?」
「リズァーラーには理解できないか?だろうな、だから処刑任務を続けてたんだし。人間ってものはな、ただ肉体が動いてるだけじゃねーんだ、特に憎悪や怨恨は後に残るんだよ。」
たかだか数人が死んだだけでそこまで騒ぐのならば、幾百、幾千もの死体、あの"神"へ捧げた養分のもととなった人間たちは、よほどやかましく賑やかに音を立てるはずだとハリコは考えたが、足早に出ていった建物の外は相変わらず暗闇と静寂で満たされていた。
しかし現在、警備兵が怯えを感じていることだけは間違いなかった。武器を腰に提げて両手で食料品の箱を抱え、即座に反撃できない状態でハリコに背を向けて先導していたのだから。
その首筋が廃材の金属板で覆われてさえいなければ、今すぐにでもハリコは警備兵を仕留めて、マナコの元へその死体を持っていきたかった。




