疑心は弱くあればこそ、暗鬼は人であればこそ
か細い携行照明の光だけが弱々しく照らしている、荒らされた屋敷のキッチン。
酷く全身を損壊させられ、カティーが漏らしている力のない呻き声を片耳で聞きつつ、ハリコは姿勢を低くして暗がりで動かぬまま、じっと聴覚に集中し続けていた。
「……ぁー、あ、あぁ……。」
「……。」
カティーの呻き声が時おり邪魔をするものの、今のところ屋敷の中では他に物音が聞こえてはこなかった。
それでも、ハリコはキッチンからすぐ外に出て行こうとはしなかった。襲撃が予想される状況においては、先に動いた方が確実に不利である……万全の態勢で策を準備している相手の元へ、わざわざ飛び込んでいくことになるのだから。
殊に、この屋敷は、カティーに暴行を加えた何者かによって準備された場所である。真っ暗闇の中、唯一灯されたままの光に誘われた存在が確実にここへ来るだろうことを想定して、お膳立てされた舞台であるとも思われた。
「グルルゥ゛ゥ゛……。」
それに、未だ活動可能な状態で、リズァーラーに危害を加えうる存在が地下都市のどこかに残っているのなら、ますます自分がこの場から離れるべきではないとも感じていた。
カティーの身体を散々に損壊した何者かが、リズァーラーに対し恨みを抱き、他に攻撃できるリズァーラーを探し求めているのならば、その者がマナコの元へたどり着くことこそを全力で阻止しなければならない。
ハリコは、マナコと再会し、マナコの傍にずっと一緒に居るために、地下都市に戻ってきたのだから。
「……ウゥ゛ゥ゛、グァウウ゛ゥ゛ー……。」
自分が潜んでいるキッチンの外からは何も聞こえないままであったが、仮に聞こえている者が居るならば聞けと言わんばかりにハリコは時おり喉の奥から唸り声を上げた。
お前がリズァーラーを憎み、リズァーラーを攻撃することを望んでいるのなら、ここに居るぞ。こっちに来い、お前の想定通り、仕掛けた光に誘き寄せられてやったんだ。
地上世界から地下都市へと戻ってきた時、開いた金属門をそのままにして閉めていなかったことも、今や後悔の種ではなかった。
門が軋みながら開く音、開きっぱなしの門、いずれもハリコの元へ、リズァーラーを憎む何者かを引き寄せる分かりやすい合図になるだろう。
「グルル……ウ゛ゥ゛ゥ゛……。」
「……ぅぁー……ぁー……」
ハリコの唸り声と、カティーの呻き声、その隙間の静寂を埋めるように、時おり微かな物音が聞こえるようでもあった。
が、確実に何者かの足音であるとも判別できない、本当に微かな音である。住まう者が居なくなった屋敷の、柱や壁を構成する建材が湿度を吸い、僅かな膨張によって家鳴りを起こしているのと区別することは難しい。
こういう場において、いつも頼りになっていたのはマナコの鋭敏な感覚であった。マナコはあくまで暗闇を見通す視力を有しているのみであったが、その勘はいかなる壁の向こう側をも透視しているかのごとく正確であった。
「……。……?」
今、この場に居ないマナコに頼ることは出来ない。ハリコなりに全神経を研ぎ澄ませて、キッチンのすぐ外、暗がりに沈む屋敷の廊下側に、何者かが訪れていないか、身じろぎひとつせず探り続ける。
目立った音が聞こえてこない以上、そこに何者も居ないと判断するほうが自然ではあった。が……ハリコは、息遣いを感じたように思った。リズァーラーであれば必要としない、呼吸を常に続ける人間の息遣いを。
いくら聴覚に集中しても、実際に聞こえるのは屋敷の隅々が軋む音、そしてカティーの呻き声ばかりであったのだが。
「ウ゛ゥ゛ー……。」
極力、不用意に音を立てないように、ハリコは荒れ果てたキッチンの床を這い進み、廊下への出口へと近づく。
顔は出さない。人間が全力で武器を振るえば、リズァーラーの頭部など軽く刎ねとばせることは、既にマナコが受けた仕打ちで明らかとなっている。
自分の身体を差し出すことなく、部屋の外へとアプローチをかける手段を、ハリコは持っていた。今の今まで存在を忘れていたが、音を立てまいと慎重に動こうとすれば、否応にも思い出さざるを得なかった。
「……。」
作業服の懐から取り出したのは、地上から持ち帰ってきた食糧の缶詰である。
ブラックマーケット健在時に大司教によって送り出され、地上の廃墟から食糧になるものを持ち帰ってきたリズァーラーが、もはや不要であると潰され"神"と一体化した際、その場に取り落としたいくつかの缶詰。
リズァーラーの食糧にもなり得ないそれを、ハリコは咄嗟に拾って懐に押し込んでいたのだが、丸く転がっていきやすい缶詰は現状にうってつけのアイテムであった。
「……ウゥ。」
敢えて唸り声を低く出しつつ音を誤魔化し、ハリコは缶詰のひとつを作業服の懐から取り出して、キッチン内から廊下へと転がり出させた。
コロコロと軽い音を立てて缶詰が廊下へと出ていった瞬間、屋敷内のあちこちに設置されていた照明の光が一斉に消えた。
重く、鋭い金属音が風を切ったのも、それと同時であった。
缶詰の容器が力任せに刃で穿たれ、ギシャッとひしげる音と共に、内容物が飛び散る湿った音が響く。
「……!……。」
ハリコは、意地でも廊下へと顔を出さなかった自分の判断に、心底から感謝しつつ、真っ暗闇のなかを姿勢を低くしたまま、目を真ん丸に見開きながらソロソロと這ってキッチン内部へと戻っていった。
相手の居場所、その敵意のほどは十分に感じ取れたものの、依然として自分の身が危機にさらされていることに違いはない。完全な暗闇の中では、相手も視力が働かないことに変わりない……はずである。
自分の視界が闇に覆われているからと、焦って行動しても状況は有利に働かない。マナコと共に繰り返した処刑任務の中で、停電状態に放り込まれた処刑標的の抵抗は、いずれも徒労に終わっていた。
「……。」
見えないなりに目を見開き、姿勢を低くして床に這いつくばっているハリコの視界の隅で、一瞬だけ廊下側から携行照明の光が漏れてくる。
おそらく、先ほど刃物を力任せに振り下ろした存在が、自分が叩き潰したものが何だったのか確認したのだろう。リズァーラーの頭部ではなく、缶詰であることは一瞬の光でも十分に見て取れたはずだ。
ここからが、判断を間違えてはならない局面だ。いよいよ相手が直接、こちらに踏み込んでくるならば、近寄ってくる足音を聞き逃してはならない。背後を取り、頚椎を噛み裂きさえすれば、人間は死に至るのだ。
「……おい、これ、缶詰じゃないか!」
「……!?」
だが、直後、ハリコが耳にしたのは予想外の反応であった。今まで自らの存在を隠匿していたその存在は、驚きの声をあげ、今度は自分の居場所を隠そうともしていない。
廊下に身を潜めている何者かは、改めて煌々と照明具を点灯し、自分が目にしたものをまじまじと見つめているらしい。
「まだ、あるか?おい、そこに隠れてる奴!まだほかにも、食糧を持っているのか!?」
「……。」
明確に、缶詰に反応し、ハリコへと呼びかけてくる声が響きつづける。
ハリコはただ目を丸く見開いて、じっと身動きが取れぬままであった。散々にカティーの身体を損壊させた挙句、今の今まで己の存在を隠し続けていた相手に対し、そう易々と警戒を緩めることは出来ない。
しかし、相手が歩み寄ってくる方が早かった。
「もういいだろ、確かに俺は武器を構えて待っていたが、お前が食糧を持ってきたってんなら話は別だ。どうせ、人間の食糧なんか持ってても仕方ないだろう、リズァーラー?」
「……ウゥ゛。」
重々しい足音が、廊下からキッチンへと入ってくる。向こうは眩しい光を投げかけてくるため、ハリコの側はマトモに相手の姿を直視できない。
眩しさに目を背けつつも、ハリコは懐から取り出したもう一つの缶詰を差し出し、掲げていた。と同時に、後ずさりして相手から遠ざかっている。当然ながら、それだけを奪われ、自分への攻撃を行われないようにするためである。
「おい、そう警戒するなって。食糧を拾ってこれるという利用価値があるんなら、わざわざ壊したりしない。それが人間ってもんだ、無差別に何もかもを破壊していく連中とは、ワケが違うぜ。」
「ウゥゥ゛ー……。」
なおも警戒して距離を取りつつ、唸り声を上げているハリコの前で、喋り続けている相手はキッチン内に残してあった携行照明を再度点灯させていく。中央で身体を損壊させられ、横たわっているカティーの姿が再び露わとなる。
先ほど缶詰を粉砕した幅広の刃物を担ぎ、ハリコに対し話しかけ続けているのは、警備兵であった。
地下都市内で運用されていた警備兵は、いずれも悉くリズァーラーに中身を取って代わられたはずであったが、こうして生き延びている人間の警備兵も居るのだろう。呼吸に適さない空気に満たされた空間でも、警備兵の装備は空気タンクを備えている。
「お前、どっかで見たかな……あぁ、そうか、思い出したぜ。発電施設の所長を処刑しに来たリズァーラーだな。」
「ア……。」
相手の言葉をもとに、ハリコも思い出した。
ハリコも含めた処刑担当チームが発電施設の所長を処刑した際、その場に居合わせた警備兵がいた。彼は人間であり、所長室に備蓄された食糧を求めて作業員たちがなだれ込んできた際、酸素欠乏症に陥る旨を警告し制止してもいた。
結局、聞く耳を持たなかった作業員たちが、続々と目の前で倒れるのを見せられる羽目となったわけだが。おそらく、その後所長室の食糧は、この警備兵がごっそりと持ち帰り、自分の生存のために蓄えていたのだろう。
「あの時は、警備兵としちゃ情けない展開だったが、おかげで今も生き延びてられるだけの食糧があるんだ。礼を言わなきゃな、お前には。……さて、地上から食糧を持って帰って来れる奴が現れたとなれば、これから先の計画も大きく変わるわけだ。」
「ウ゛ゥ゛……。」
ハリコはなおも、目を見開いたまま、現状自分が攻撃されずにいられる唯一の理由……人間にとっての貴重な食糧、缶詰を掲げて相手に見せるばかりであった。




