愛しきは闇、恋しきは盲の向こう側に
ハリコは、振り返ることなく一心に駆け戻っていた。
これまでのノロノロとした行進とは打って変わって、風のように早く。地下都市でずっと暮らして来た彼が知る風は、空気供給管から流れ出る無機質なものだけであったが。
目標地点だって、ハッキリと見えている。今まで進んできた道を正確に踏めているかは分からなかったが、障害物も何もない菌糸の荒野のずっと遠く、地下都市へと降りる入り口はポツンと見えている。
「ウ、ウゥ、ウゥ、ウゥ……。」
その駆け足は、ただただ必死であった。作業服の懐に入れた缶詰が、カチカチとぶつかりあって音を立てている。
背後から捕えられる恐れがあったわけではない。実際のところ、門徒たちは既に潰された大司教の身体から湧き出た菌糸の塊のなかへ吞み込まれている。
ただ、無駄な時間を過ごしたという実感だけが、色濃く彼の思考に染みついていた。苦労して大司教の一行と調子を合わせ、退屈な行進にも付き合い、その挙句ようやく手が届いた先で見せつけられたのが、あの乾涸びた死体である。
「……グルウ゛ゥ゛ゥ゛!!」
あまりにも無為な時間を費やしてしまったことに、悔いの念がますます強まったハリコは、どこにもぶつけようのない憤りを唸り声として吐き出していた。
これから先、菌糸に覆われ尽くした世界が、新たな時代の到来までに経る膨大な時間と比べれば、それはほんの些細な時間にすぎなかったのだが……今のハリコにとっては、どんな僅かな時間も、マナコと共に過ごすための貴重な時間であった。
既にハリコは二足歩行を放棄していた。両手、いや、前脚と呼ぶべき部位も降ろし、四足で菌糸の地表を蹴って勢いよく駆けていった。
「ウァ、アゥゥ、ウゥ゛ゥ゛!」
帰るべき地下都市への入り口が、いくら必死になって駆けようとも、なかなか近づいてこないことがじれったかった。
周囲に視界を遮る障害物が何もないと、視認できる範囲に存在する物体も、存外に遠く離れているものであった。ハリコは唸りながら懸命に駆け続ける、生前は人間の身体を有していたはずの彼だが、全力での疾走には四足が適していた。
ようやく……と言っても、大司教と門徒たちと共に歩いた時間とは比べようもなく短い時間であったが……地下都市へと戻る入り口にたどり着いたハリコ。
「ウ、ウゥ……ウァッ!」
走ってきた勢いのまま、中へと飛び込んで行こうとしたハリコであったが、地表の菌糸に足を絡ませて転倒する。
姿勢が低くなっていたおかげで大した傷は負わなかったものの、したたかに顔を打ち付けたハリコ。自分が相当に焦っていたことに気づかされつつも顔を上げ、改めて前方の暗闇を見た。
当然ながら、地下都市内部ではもはやエネルギー供給は為されておらず、常に仄明るい地上とは正反対に闇に閉ざされている。
「……ア……。」
ハリコの視界では、闇を見通すことは出来ない。が、転倒によって顔を地面に打ち付けたことで、一刻も早く帰ろうと逸る思いに制動がかかったおかげか、ハリコは重大なことを思い出した。
……自分が地下都市から出ていったのは、この場所からではない。
ここはたしか、大司教がブラックマーケットから作業用のリズァーラーたちを送り出し、地上世界から回収できる物品を持ち帰らせるために使っていた出入口である。
大司教と同行していたとき、ここから出てきたリズァーラーは、ブラックマーケットへ降りるためのカゴが上がってこない、とも言っていた。今、懐に入れている缶詰は、彼がその場に落としたのをハリコが拾ったものであった。
「ウゥ゛ー……。」
つい先ほどまで、焦りに焦って飛び込もうとしていた闇から、ハリコは後ずさっていく。
当然ながら電力供給など途絶えているのだから、自動で地下都市最下層との移動を可能にするカゴ、地上文明で「エレベーター」と呼ばれていたものが到着しているはずもない。
……もしもやみくもに飛び込んでいたら、この地表から最下層のブラックマーケットまで、長大な縦穴を真っ逆さまに落ちていってしまっただろう。
偶然とはいえ、先ほど足を菌糸に絡めとられて転倒したことで、マナコと再会したいというハリコの望みは潰えずに済んだのである。
「……ウン。」
ハリコは地下都市への入り口として目標としていた場所に背を向け、本来自分が地下都市を脱した、あの崩落穴を目指し始めた。
こちらもまた、さほど離れていなかったおかげで、視認は出来た。元々想定されていた入り口とは違い、単に地下都市の空洞へと地表が崩落した穴にすぎないため、あまりに遠すぎる場所からは目立たないものではあったが。
今度は多少冷えた頭で、しかしマナコの待っている場所に帰りたいという思いが熱を持っていることにも変わりなく、ハリコは陥没穴の方へと駆け寄っていく。
大司教を担いで旅を始めた門徒たちが、新天地を遂に見つけたと誤認してぬか喜びするまでに辿った、あの旅路は余りにもあっけない短時間で踏破できたのであった。
「ウアァ……。」
地下へと崩落を起こした箇所は、こうも広々とした地上世界を見た後だと、何とも狭く小さなものに見えた。
ぽっかりと地上へと口を開いた穴の底に、地下都市最上層の居住区が見える。崩落事故に巻き込まれた時のまま放置されている数々の屋敷の瓦礫は、せせこましく限られた空間に押し込められている。
ハリコが仲間たちと様々な処刑任務を遂行し、活動してきた地下都市が、いかに狭く小さな世界であったかを見せつける光景であった。
「……ウ゛ゥ゛、ウ゛ゥ゛ゥ゛……!」
が、今のハリコには明確な目標がある。養分となる人間の死体は手に入らなかったが、マナコの傍に帰りたい。
そのためには、何としてでも地下都市の中へと戻らなければならない。穴の縁から覗き込んで見ても、地表から居住区の床まではかなりの高さである。不用意に身を投げては、下に到着すると同時にハリコの身体が潰れた菌糸の塊と化してしまうのは間違いない。
出ていくときには、巨大な菌糸の塊である"神"の身体に押し出されるようにして地表世界へと到達できたのだが、既に"神"はこの場から遠く去ってしまっている。
何か、足掛かりにして降りていける場所は無いかと目を凝らし、あちこちに視線を向けていたハリコの視界に、一筋の菌糸の束が映った。
「ア……。」
それは、大司教や門徒たちとともに地上世界への脱出手段を求めているとき、"神"が……ハリコの認識では、シェルが真っ先に地上へと届かせた菌糸の太い束である。
大柄な連中がそれに縋って地上世界へとよじ登るには、あまりにも頼りなくブチブチとちぎれる菌糸の綱であったが、ハリコは彼らよりずっと小柄で、体重も軽い。それに、よじ登るのではなく、下へ滑り降りるだけである。
そこにかつて仲間だったシェルの意志が働いていたかは定かでなかったが、ハリコが地下都市へと戻るための手段が残されていることには違いなかった。
「……ウゥ……!」
それでも、ただの菌糸がまとまっているだけのものに全体重を任せるのは不安の伴う行為ではあったものの……他に道が無いことを悟ったハリコは、躊躇を振り切るように菌糸の束を手に取り、地下へと降り始めた。
体重をかけたとたんに、早速手元の細かな菌糸が、プツプツと小さな音を立ててちぎれ始める。
「ウ、ウゥ゛、ウァ゛、ア……!」
恐れて地表に戻ろうとしては、次に体重をかけ始めた時にはますます菌糸の束の損傷は増える。他に道が無いのならば、迷っている暇はない。
ブツ、ブチッ、と不穏な音が響き続ける菌糸の束に必死でしがみつきながらも、ハリコは速度を増しながら滑り降りていった。菌糸の束が、しがみついて降りていく自分の腕の内側を擦り、火が付きそうになるほどに熱い。
最上層居住区の床へ間もなく着くというあたりで、今までとは桁違いに大きな、ブツンッという音が響いた。
「ウァ!?ワ、アァ、ウァァァ!」
ハリコは思わず菌糸の束にしがみつく力を強めたが、降りていく速度は衰えなかった。
既に菌糸の束は完全に断裂し、地表とは繋がっていなかった。ハリコはそのまま居住区の床に全身を打ち付け、その上からぬたうつ菌糸の束が遅れて降ってくる。
「ギャッ!?……ウゥ゛ゥ゛……。」
落ちた時の衝撃に加え、自分の身体を上から打ち付けるちぎれた菌糸の束の殴打に耐え、ハリコは幾度か悲鳴を上げた。とはいえ、結果的には柔らかな菌糸に巻きつかれるような形となったハリコは、ほぼ損傷することなく地下都市へと戻ることが出来たのであった。
まだハリコが降り切れていなかった分、下部の菌糸の束は蛇がとぐろを巻くような形でハリコの落下地点をカバーしており、落下の衝撃をやわらげていた。
「ア……。」
仰向けになったハリコの視界には、かつて崩落した時のままの大穴に縁どられ、胞子を降り注がせ続ける綿雲に覆われた空が見えていた。大穴の縁に、さきほどちぎれたばかりの菌糸の端が、頼りなくぶら下がっている。
遥か高み、もはや地表へと戻る手段は無くなった。それでよかった。
どれほど柔らかな光に包まれていても、あんなに退屈で、必要もなく、ただただ無為に、無限の時間を経験するだけの場所に戻りたくはなかった。
「……ウゥ……ッア、ウン。」
自分の身体に巻き付いている菌糸の束を払いのけ、ハリコは立ち上がる。最上層居住区の屋敷の残骸に囲まれ、彼はようやく本来の己を取り戻したかのような心持であった。
もう日の目は見たくなどなかった。ハリコの居場所は、最初から地下にあったのだ。




