光の恩寵は、闇が去る瞬間にのみ有難く
大きく両手を広げた大司教、および彼に率いられた門徒たちの上げる歓声に迎えられ、"神"と崇められる菌糸の塊はゆっくりと移動していった。
その細長い身体を這わせながら、この居住区の壁面にとりつき、そのままゆっくりと壁を這いあがっていく。はるか上、自然光の降り注ぐ地上世界を目指して。
「御覧なさい、門徒の皆さん!いよいよ、神は我らを導いてくれています!」
「さすがは、大司教様!ずっと仰っていた通りになりましたね!あれほどの高さにある地上世界、俺たちの手足ではとてもたどり着けないところでした!」
相変わらず異様な興奮状態で叫び続ける彼らを他所に、ハリコは彼なりに冷静に思考を巡らせていた……リズァーラーの中では単純な思考回路しか持たないハリコであったが、状況は自分にとって好転したのではないかと思われたのだ。
シェル……今は"神"と呼ばれる菌糸の塊は、たしかに地上へと向かっていた。ただし、細長い身体で壁を垂直に伸びていくばかりである。
「ウ゛ゥ゛……。」
「コイツら、あの"神"の身体にしがみついて、地上へ向かうつもりなのか?あんな垂直に伸びていく菌糸の塊は、掴まりながら登っていくにはあまりに頼りなさすぎるんじゃないのか……?」
キャシーもまた、ハリコの中に浮かんだのと同様の推測に至ったらしい。長々と真っすぐ上を目指していく巨大な菌糸の塊を見上げ、不安そうにつぶやいた。
ハリコの狙いは、門徒たちが地上の旅のために持ってきた、養分補給用の死体である。ここに至るまで、死体は箱に詰められ、運搬を委ねられた門徒たちの肩に担がれていたが、垂直な菌糸の柱をよじ登るとなれば、箱を担いだままというわけにはいかない。
うまくすれば、地上を目指す皆は、死体入りの箱を放棄することになるかもしれない。だとすれば、一番のチャンスだ。
「……。」
ウィーパもまた、ハリコやキャシーが気づいている程度のことを、分かっていないはずもない。が、相変わらず無表情のままに、大司教の腕の中で抱かれ続けるのみであった。
「神よ……?そのように直上へ、地上世界を目指しておられるのですか……?」
当然ながら、大司教は焦っていた。養分を存分に吸った菌糸の塊が、地上世界を覆い尽くしている菌糸の土壌との融合を目指すのなら、最短距離の一直線で向かうのが必然であろう、とまでは予測できていなかった。
都合よく、スロープ状に地上への道を作ってくれるような配慮など、単なる菌糸にあろうはずはない。大司教のもとで熱烈な歓声を上げていた門徒たちがそのことに気づくにも、さして時間はかからなかった。
「……大司教様、あの"神"は、俺らに真っすぐ壁を登れって、仰ってるんですかい?」
「死体を担いでる連中もいますし、掴まったところが途中でちぎれちまったら、タダじゃ済みませんぜ?」
早くも、"神"と呼ばれる菌糸の塊は、その先端部が地上世界へと到達していた。
地下都市で暮らしていた人間たちの肉体を養分として吸い上げた存在が、ついに地上へたどり着いた、記念すべき瞬間であった……誰も、そのことに一切注目してなどいなかったが。
「焦りは禁物ですよ、門徒の皆さん。この私、大司教マルチンクスが、神との対話を試みましょう。」
門徒たちに詰め寄られ、大司教は再び苦境に立たされていた。彼は苦し紛れながらも、何もかも分かっている風を装いながら、地上へと続く一本の菌糸の柱のようになった"神"の身体を掴んでみた。
数え切れぬ量の人間の死体から養分を吸い上げた菌糸の塊は、潤沢な水分を含んで逞しく成長していた……少し力を掛けて菌糸の束を引っぱるだけで、ブチッとちぎれてしまったが。
いよいよ、これにしがみついて地上へと登っていくことは、非現実的であった。
「門徒の皆さん!大司教の言葉に耳を傾けなさい!たった今、神からの啓示を受け取りました!」
先ほどちぎれてしまった部分を、菌糸の塊の中に押し込んで誤魔化しつつ、門徒たちの方を振り返った大司教は、ひときわ厳かな雰囲気を装いつつ、声を張り上げた。
大司教の視線は、ときおり自らの腕の中に抱かれたウィーパへチラチラと向けられた。策を次々に披露し、ついに地下都市を統治していた管理局の機構を崩すに至った、ウィーパから知恵を借りて窮地を脱せぬかと淡い期待を抱いていたのだ。
「……。」
だが、ウィーパは冷たい光を瞳に湛えたまま、先ほどまでと変わらず何も口を開こうとしなかった。
大司教はいよいよ募る焦りを隠すのに必死であった。
「これは、神による試練です!皆さんが本当に信仰篤く、敬虔なる門徒であるか、試しておられる!真に神を崇める者だけが、地上世界へと至れるのです!」
「まさか、大司教様、神の身体は真っすぐ地上に繋がってますが……これを登るのが試練、ってことですかい?」
そうだ、と肯定することを、大司教は避けた。
長きにわたり、地下都市最深部、ブラックマーケットの荒くれどもを信仰心によってまとめ上げてきた彼は、断言を避け、曖昧な言い回しに徹することがいかに信心の維持の助けとなるか、よくよく理解していたのだ。
それに、門徒たちが理解に手間取る言い回しを重ねるほどに、時間を稼げることは確かであった。
「門徒の皆さん、目の前に見えているものだけに縛られるのは、信心の足りぬ証拠ですよ。信じるとは、己の目に見えぬ道を、求める導きのまにまに、曇りなき心で従うことです!先ほど、暗闇に閉ざされた上層街を歩くとき、ウィーパ様の導きに従ったことを思い出しなさい!」
「お、おぉー……!」
抱きかかえていたウィーパの身を高らかに掲げる大司教、それに呼応して歓声を上げる門徒の数は少なかった。
大司教に体を持ち上げられているウィーパが、何ら現状に興味のなさそうな無表情を浮かべていたことも、この反応の薄さを助長していたかもしれない。
気勢を上げる大司教が、冷ややかな反応の門徒たちに取り囲まれている様は、もはや滑稽であった。いよいよ、表情に不審の色を隠しもしなくなってきた門徒のひとりが歩み出て、直接的な疑念をぶつける。
「大司教様、俺たちは地上世界にどうやって行けるんですかい?いくら信じろっつっても、何を信じてりゃ、地上までたどり着けるんだか、さっぱりですぜ。」
「あぁ、憐れな迷える子よ、導きを見失ってはいけません。道なきように見えているだけです、信じなさい、神による導きを!」
「だから、地上まであんだけ高さがあるんですって。よじ登る以外に、何か手段があるように見えますかい?」
不信の声は徐々に不満へと変わっていき、いよいよ口々に言い募る声は、大司教への信奉が崩れつつある様を示して喧噪へと変化していく。
ハリコとしては、願ったり叶ったりの状況であった。相変わらず死体運びを任されている門徒たちは律儀に血濡れの箱を担いでいるが、この場で乱闘でも発生すれば、死体を奪って逃げ延びるだけの隙は見いだせるはずだ。
……死体強奪から逃走に至るまでの経路を確認すべく、足元の地面へ視線を落としたハリコは、全体が薄っすらと白い菌糸に覆われていることに気づく。
「ウゥ……?」
足元全体を覆っている菌糸は、見る間に成長し、盛り上がっていく。ハリコが呆気に取られて足元を凝視している間に、それはハリコの膝下を没するほどにまで上がってきた。
地下都市に住んでいた人間の死体、全てを養分として吸収したのだ、"神"は。居住区ひとつを埋め尽くすほどの巨体に成長するのも、至極当然の帰結である。ひょろ長く、地上へと伸びる一本の柱だけの姿で留まるはずがなかった。
途轍もない巨体が、最上層居住区全体を埋め尽くしながら、地上を目指している。地下都市の奥部、竪穴の底から湧き出た菌糸の泉が、まもなく地表へ到達してあふれ出そうとしているのだ。
もちろん、ハリコ以外の門徒たちも、大司教も、足元から膨大な量の菌糸が急速に生育し、せり上がってくる様に間もなく気づいた。
「なっ、なんだ!?この場所全体が、菌糸の塊に沈んでいってるぞ!?」
「どんどん上がってくる!う、埋もれちまう!」
大司教もまた、間違いなく驚嘆の表情を浮かべた……幸いにも、門徒たちは全員自分の足元が菌糸の海に埋もれていく様に恐れ慄いていたため、大司教にとって予想外の展開であったろうことに気づいた者はいなかった。
全く、大司教は運に恵まれたリズァーラーであった。彼の抱く信心とやらも、あながち無意味なものではなかったかもしれない。
ここぞとばかりに、大司教は声を張り上げた。
「門徒の皆さん!これが、"神"による導きです!恐れることはありません!この菌糸に身を委ねなさい!神の身体の上に我らは浮かび、そのまま地上へと持ち上げられるのです!」
その言葉は、現状においては正しかった。
足元からせり上がってくる大量の菌糸に慌て、手足をバタつかせてもがいている者は、早々に菌糸が四肢に絡みつき、菌糸の巨大な塊の中へと埋没していった。
一方、大司教の言葉通り下手な抵抗をせず、菌糸の海の上に浮かぶように身を委ねた者たちは、そのまま自分の体が持ち上げられ、自然と地上世界が近づいてくるのを待つばかりであった。
「お、おぉお!大司教様の仰る通りだ!信じた者だけが、地上世界へと至ることができる!」
「これが、試練ということだったのですね!あぁ、信じていて良かった!地上へ!地上へ!」
不審や不満の声は"神"の巨体の中へと沈み込んでいき、大司教の言葉に従った門徒たちは、歓喜の声とともにますます強まっていく地上の光を浴びていた。
ハリコもまた、恐れることなく身を委ねていた……この巨大な菌糸の塊の核であるシェルが、かつての仲間に望まぬ扱いを与えるはずはない、と信じることは容易かったためだ。
「ウゥー……。」
ただ、彼の気がかりは、門徒たちが担いでいた死体の箱もまた、同じく菌糸の表面に浮かび上がっているかどうか、であった。
仰向けになって、巨大な菌糸の塊の表面に身を委ねた姿勢では、いかに顔をあちこちに動かしても、不規則に盛り上がった菌糸の白い塊が視界を塞ぐばかりである。
「おぉ、なんと温かな光!穏やかな柔らかさ!我らが向かうべき世界!いよいよ!神は我らを導かれた!」
「地上へ!地上へ!苦難の道の終点は、至上の幸福で迎えられるんだ!」
周囲からは門徒たちの歓声、そして半ば狂乱状態にもなった大司教の説法が絶えず響き続けていた。ふわふわと盛り上がってくる巨大な菌糸の綿の上に浮かび、ついに望んだ地上世界への脱出が叶う。
まさに夢見心地であったろう。地上を目指した彼らが、文字通りの幸福を感じた唯一の瞬間であった。




