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夫に名前を覚えてもらえない妻ラウラの一年間、のち離婚  作者: 新井福


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06◇秋を憂うこと01

 黄葉。

 葉の色を暖色に移ろえ、秋の空を彩る。図書室は三階にあるため、背の高いいちょうの木を一望できた。ちなみにいちょうの木にはオスとメスがあり、銀杏の実をつけるのはメスだけらしい。うちにあるのは全部オスの木だから肩を落とせば、庭師のドミトリーは銀杏のあの強烈なにおいを思い出したのか、嫌そうに鼻をつまんだ。


 ――なんて、ラウラお得意の現実逃避をしていたのは理由がある。


(私、一体なにを見せられているのかしら)


 時間は少し前に巻き戻る。


 セルゲイと共に図書室に来ていたラウラは、自分の背より遥かに高い位置にある本を取ろうとしていた。

 

 頼みの綱のセルゲイは他の場所に行っているし、イヴァンには頼りづらかった。あれから二か月、なんとなく彼からのあたりが強いというか、そっけないというか。セルゲイとの仲を邪魔するようなことはしないが、お助けしてくれなくなった。

 自分がどれだけイヴァンに頼っていたのかまざまざと思い知らされ、ラウラ自身が動かなくてはというイヴァンからの試練なのかもしれない。


(私だって、やってみせます師匠)


 巣立ちの時だ。


 とりあえずは、この本を取ることが目下の目標だ。

 巣立ってますアピールをしなければ。


「~~っ、ぬぐぐ……」


 指先が本の背に触れる。そのまま背伸びをして引っ張る。取れた、ぱっと顔を明るくさせたところで、目的の本以外も一緒になってしまった。


 降り注ぐ本から、体を丸めると、誰かが覆いかぶさる。


「――ラウラ!」


 本が音を立てながら落ちてきた。


 そっと目を開ければ、ラウラを抱きしめるセルゲイ――そしてそんな彼を守るように覆いかぶさるイヴァンがいた。


()()()()()、ご無事でしょうか?!」


 イヴァンは顔を真っ青にしながら、セルゲイの顔やらを確認している。

 ラウラは蚊帳の外だった。


「…………」


 イヴァンがセルゲイの頬に手を当てている姿は、先日読んだ薔薇愛のワンシーンと同じだった。お気に入りのシーンがこんなところで再現されるなんて、正直絶妙な気持ちだ。


 薔薇愛に挟まることのできないラウラは、大人しく本を拾っていく。机の上に積んでおいた。


(私、なにを見せられているのかしら)


 ようやくイヴァンの診察が終わったセルゲイがこちらにやって来る。


「ラウラは痛いところはないか?」


「私は、二人が守ってくれたので無事ですよ。セルゲイ様、イヴァン、ありがとうございます。イヴァンは痛いところない?」


「僕は頑丈なのでお構いなく」


 やはり最近のイヴァンはそっけない。怪我がないようでよかった。胸を撫で下ろす。


 イヴァン。本名はイヴァン・レト・キリミョロン。普段快活でセルゲイに献身する彼のことを、おそらくラウラは表面上でしか知らない。


「イヴァンは、古くからセルゲイ様に仕えているの?」


「いえ、そんなに昔ではありません。二年と少し前くらいからですよ」


「まぁ新人なのね」


「イビらないでくださいよ~」


 まったく、どんな風に思われていることやら。ラウラはこんなに優しい女の子だと言うのに。


 なぜセルゲイの下で働き始めたのか聞いてみようとすれば、一風の冷たい風が抜けて行った。鳥肌が立つ。

 久しぶりのこの感覚に震えながらセルゲイの方を見れば、眉根を寄せこちらを凍てつかせんとしている。


「あの、セルゲイ様?」


 秋で長袖を着ているが、薄い生地のそれが今は心許ない。イヴァンに助けを求めようとすれば、さっと逸らされた。とんだ薄情者である。


 セルゲイは、長いため息を吐いた。


「イヴァンではなく、私に聞きたいことはないのか?」


「へ、聞きたいこと??」


「答えられる範囲なら答えよう」


 急に許可が下りるとなにを聞いていいのかわからなくなる。

 えっとえっと、二対の目に観察されながら、必死に絞り出そうとする。


(――ずっと、聞きたいことがあって)


 頭がぐらぐらして、足元がおぼつかなくなる。


 力が入りすぎて、指先が白くなった。


「……私たち、離婚、するでしょう? けどこうやって、一緒にいれる間は、仲良くしていいですか? 私といるの、その、楽しいですか?」

「楽しい」


 間髪入れず答えられた。握り締めていた手を緩めるように繋がれる。

 ラウラは意味もなく、自分の目に涙の膜が張るのがわかった。視界がぼやける。


「こんなに幸せでいいのかと、今日私は思っていた」


「……やったぁ」


 微笑めば、貴重な笑みをセルゲイも浮かべる。


 視界の端にちらと映ったイヴァンは、なにかつきものが落ちたような、安らかなまなざしをラウラたちに向けていた。


「はいはーい、二人の世界に入るのはいいですけど、僕がいますから」


 ラウラの手が奪われる。背を屈めたイヴァンは、ラウラの手の甲に口づけを落とすフリをした。


「僕と旦那様の仲を勘ぐってしまったんですよね? 申し訳ありません」


 片眼をつむる彼に、ふっとため息をつく。


(気障な人ねぇ)


 イヴァンがメイドたちの中でもイケメンだと話題に上がっていたことが思考をかすめた。確かに、納得の罪多き男だった。

 でもラウラを口説いたとて旨味はないと呆れていれば、


「これはほんの謝罪の気持ちです」


 ラウラに聞こえるくらいの小声で囁かれた。


「……?? きゃっ」


 ぐい、セルゲイに腰を抱かれ、腕の中にすっぽり収まった。


「ラウラは私の妻だ。あまり馴れ馴れしくしないでくれ」


「おっと旦那様、独占欲ですか?」


「当たり前だろう」


 手の甲をぐしぐしとハンカチで拭われる。されるがままになりながら、距離が近すぎて息もままならない。


 イヴァンに助けを乞えば、親指を立てられる。これが謝罪なのだと、そこでピンときた。


(あぁ、そっか。私は――)


 謝罪としてこれを提供されると言うことは。こんなにもラウラが喜んでしまう理由は。


 セルゲイのことが、好きなのだ。ただ一人の異性として。

 自分が恋をしていると気づいたのは、とっくに誰かに見抜かれた後だった。



◇◇◇



「おはようございます、セルゲイ様。私はラウラ・エルゼ・フォレスター、あなたの妻です」


 毎日の挨拶に熱が入るようになったのはこのころからだった。

 朝も、セルゲイの部屋の前を通るときは身だしなみを整えてしまう。ラダとマーニャは口は出さず見守ってくれていて、それが逆に羞恥心をあおられる。


「おはよう、ラウラ」


 

 ラウラの今の楽しみは三つある。一つ目は、お菓子を作ること。好きな人の顔を思い浮かべれば、自然とお菓子作りにも力が入る。

 二つ目は、セルゲイがたまに呟いている発言から、どのお菓子か突き止めることだった。


「しっとりした、変な粒々が入った……」


(多分それは、ラムレーズン入りのパウンドケーキ)


 ラウラだけにわかる暗号のようで、なんとも胸がくすぐられるのだ。


 三つ目は――


「できた」


 ラッピング袋に入れリボンを結んだそれを、セルゲイの下に持っていく。

 

 贈れば、すぐにセルゲイはリボンを解いた。中から一枚のハンカチが出てくる。

 左下には、ラウラの刺繍がちょこんと居座っていた。


「プレゼントです」


「なぜ、これを?」


「だって、今日は私たちが結婚して半年ですよ」


 男性はそういうのに疎いかもしれないが、女性は敏感なのだ。付き合って一か月なのになにもしてくれなかった、なんて不満話があるくらいに。


 しげしげとハンカチを撫でるセルゲイの視線が一点に集中する。ラウラの刺繍だった。


「これは、鹿か? 上手だ」

「猫です」


 セルゲイが選んだ黄褐色の糸で縫ったそれは、歪かもしれないが鹿に間違えられるとは。心外である。



 縫い方を伝授してくれたツェツィーリヤを思い出す。

 金髪の美女は絶句していた。


「ラウラは刺繍が苦手なのね」


「……すみません」


 しょんぼりしながら再度針を刺せば、誤って指に刺さってしまった。ぷくりと血が滲む。

 痛みで目に涙が浮かぶ。刺繡は難しいし指は痛いし泣き喚きたい衝動に駆られれば、ツェツィーリヤが自身のハンカチで優しく指を包んでくれた。

 赤く染まるハンカチに焦るが、彼女はついとも気にしてないようだった。


 駄目よ、凛と響く。


「淑女の涙はね、とっておきなの。その時まで大事に取っていなくちゃいけないのよ」


「はい」


「偉い子。その時が来たら、うんと甘く慰めてあげる」


 優しい声に揺られ、涙はぴったり止まってしまった。笑う余裕すら出てくる。


「じゃあ、ツェツィーリヤ様のとっておきの時は、私の出番です」


「あら頼もしい。……でもわたくし、もう二回もとっておきを使ってしまったの。きっと来ないわ」


 甘やかなまなざしは、誰かとラウラを重ねているようだった。

 ツェツィーリヤは気高く、いつも淑女然としている。そんなツェツィーリヤがもうとっておきを使ってしまっているとは。いや、使ってしまっているからこそ、言葉は重く水底に沈むのかもしれない。


「ツェツィーリヤ様のとっておきに選ばれた人は、きっと幸せ者ですね」


 緑の瞳に光が無数に散った。


「あらあらあらあら……これは、」


 堪えきれないといった風に、ツェツィーリヤが静かに笑い始めた。肩を揺らし口元を押さえながら笑う彼女は、――泣いているようにも見えた。


「そうよ。わたくしのとっておきになれる者は幸福なの。けれどわたくしを泣かせないでねラウラ、あなたまで意地悪は嫌よ」


「ツェツィーリヤ様こそ、私が泣いた時はあったかい毛布と沢山のお菓子をよろしくお願いしますね。ココアにマシュマロ希望です」

「承ったわ」



 ふっと苦い顔になる。やはり取り返してしまおう。さもなければ、ここでとっておきのターンになってしまう。


 しかし伸ばした手は空を切った。


「もう私のだ」


「鹿じゃなくて猫ですが?」


「鹿でも猫でも私のだ」


 丁寧にたたみ、胸ポケットにしまい込んだ。手出しができなくなってしまった。


 セルゲイが真面目な顔をする。声にも真剣さが宿っていて、


「このハンカチを私が持っていなくても、怒らないでくれないか。机の中に大事に入れているだけだから」


「もー、いつも持ってなかったら怒るなんて、そんな鬼嫁じゃないですよ」


 ぷりぷり怒る真似をすれば、晩ご飯を食べに行こうと背を押される。


 差し出された肘に手を乗せ歩き出す。


「私にもなにかください、半年記念」


「私は忘れっぽいのだが」


「大丈夫です、何度だって取り立てに行きますよ」


 ラウラはプレゼントを貰うためには取り立て屋にでもなろう。

 恐ろしい取り立て屋に、セルゲイのこわばっていた表情が氷解した。



◇◇◇



 その晩。

 セルゲイは取り立て屋がよほど怖かったのか、イヴァンと共に、早馬で街の方へ駆けて行った。


 粒のような汗を浮かべながら帰ってきたセルゲイが差し出したのは、レモンの飴が入った瓶。からん、と鳴る。


「すまない、それくらいしかもう売っていなかった」


「十分ですよ。嬉しい」


 口の中に転がす。甘酸っぱいレモンの飴が、舌の上で溶けていく。


 初恋の味がした。


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