第八話 第三章 逆転
翌日、俺の部屋に全員が集まった。
テーブルの上に礼がノートパソコンを開いた。ミンミンさんはメモを手に、俺の横に座った。拓海さんは腕を組んで壁にもたれて座っていた。星良は俺の斜め向かいに座っていた。
俺は昨日の会議のことを話した。「子どもには知識が足りない」というような言葉。「やむを得ない」という言葉。「継続」という言葉。最後に、ミンミンさんの名前が出てきたことも。
ミンミンさんの眉がわずかに動いた。
「私の名前が?」
「俺の力になってる、みたいな言い方だった」
礼が少し考えてから口を開いた。
「それ、たぶんSNSとか、これまでの報道を見ればわかることだと思う。ミンミンさんのアカウント、実名で運用してるし」
ミンミンさんが「あ」と小さく言った。
「つまり、脅しと思えるような演技だった、ってこと?」と星良が言った。
「全部が全部じゃないと思うけど、内部まで把握してるわけじゃないと思う」と礼は答えた。「少なくとも、僕たちの具体的な動きは見えていないはず」
俺は少し息をついた。昨日あの部屋で感じた「全部知られている」という感覚が、少しだけ薄れた。
「で、昨日の話を踏まえて」と礼が続けた。「次の手を考えたい」
パソコンの画面が切り替わった。古谷先生の資料から抜き出した数字と、制度施行以来の統計データが並んでいた。
「制度が施行されてからの執行件数、指定取り消し件数、嘆願書受理件数。全部公開情報から拾えた。また、今の僕たちの知名度を利用して、SNSでアンケートを取った。この制度を好意的に捉えている人より、恐怖や脅威を感じているという人のほうが圧倒的に多い。また、制度を廃止してほしいか、という質問には85%以上が「はい」と答えている。これらを並べると、制度が『機能している』という根拠が実はかなり薄いことがわかる」
拓海さんが腕を組んだまま画面を見た。
「証言は俺とミンミンさんが担当する、ってことでいいですか」
「お願いします」と礼は言った。「感情論では動かない人間も、当事者の言葉を数値化したデータなら動く可能性がある」
ミンミンさんがメモに何かを書き足した。静かな動作だったが、迷いがなかった。
拓海さんが俺を見た。
「暖人君は?」
「俺は……」
言葉を探した。昨日みたいに言葉を失うわけにはいかない。でも自分が何を言うべきか、まだはっきりしていなかった。
星良が口を開いた。
「暖人は最後に話せばいい。数字でも証言でもない、全体をまとめる言葉が必要だと思う」
全員が少し黙った。
「……わかった」と俺は言った。
次の有識者会議の招集は、三日後だった。
今度は五人で庁舎に入った。受付の顔が少し変わった気がした。俺たちが複数人で来ることを、向こうは想定していなかったのかもしれない。
会議室に入ると、前回と同じ顔ぶれが並んでいた。白髪の男が俺たちを見て、わずかに表情を動かした。
「今日は皆さんでいらしたんですね」
「はい」と俺は答えた。今日は声が小さくなかった。
最初に礼が話した。
データを示しながら、淡々と、しかし正確に話した。制度施行からの統計。執行件数の推移。嘆願書が受理された割合。「機能している」という主張を支える根拠が数字の上では存在しないこと。礼の声は感情を排していたが、それがかえって部屋の空気を変えた。
白髪の男が何度か口を挟もうとしたが、礼はそのたびに数字で返した。感情では崩せない壁だった。
次に拓海さんが話した。
上司を指定したこと。逆指定されたこと。嘆願書で執行が止まったこと。淡々とした口調だったが、一つ一つの言葉に重さがあった。会議室の何人かが、初めて資料から目を上げた。
ミンミンさんが続いた。
夫を失ったこと。娘と二人で過ごした一年間のこと。それでもPASSに関わることにした理由。声が途中で少し揺れたが、最後まで話しきった。
部屋が静かだった。
白髪の男が口を開いた。
「……貴重なお話を、ありがとうございます」
前回と同じ穏やかな声だったが、前回とは違う何かがあった。言葉を選んでいる間があった。
眼鏡の男が隣の男と小声で何かを話した。
「少々お時間をいただけますか」
俺たちは廊下で待つことになった。
用意された椅子に座って、誰も話さなかった。ミンミンさんが窓の外を見ていた。礼はスマホを見ていた。拓海さんは壁にもたれて目を閉じていた。星良が俺の隣に座っていた。
三十分ほど経って、ドアが開いた。
「お待たせしました。どうぞ」
会議室に戻ると、空気が変わっていた。
白髪の男が口を開いた。
「皆さんのお話と、資料を踏まえて、内部で協議しました。制度の廃止に向けた提言を、政府に対して行う方向で検討したいと思います」
ミンミンさんが息を呑む音がした。
拓海さんが目を開けた。
礼が画面から顔を上げた。
俺は星良を見た。星良も俺を見て、小さく頷いた。
俺は自分の心臓の音を聞いた。
勝った。そう思った。
張りつめていた何かが、少しだけ緩んだ。
古谷先生の顔が頭に浮かんだ。先生、ありがとうございます。先生が遺してくれた資料のおかげで、ここまで来ました。
——
ドアが、開いた。
革靴のコツコツという音と共に、男が入ってきた。
七十代か、八十代か。背は高くなかった。スーツは古びていたが、仕立てがよかった。白髪を短く刈り込んで、眼鏡をかけていた。杖をついていたが、足取りは確かだった。
会議室の全員が、一斉に立ち上がり、頭を下げた。
会議室の空気が、一緒にして変わった。
男はゆっくりと上座に向かって歩いた。誰も頭を上げなかった。誰も何も言わなかった。
椅子に座って、言った。
「君たちも座りなさい」
その言葉を合図に、全員が頭を上げて椅子に座った。
「廃止、ですか」
低い声だった。静かだった。怒鳴ってはいなかった。でもその一言で、部屋の温度がまた下がった気がした。
白髪の男が口を開いた。
「は、はい。先ほどの協議で——」
「その程度の統計など、最初から織り込み済みであろう」
上座から杖の男が静かな口調で言った。白髪の男が黙った。
刹那、その男の視線が俺たちのほうに向かった。
拓海さんが思わず背筋を伸ばした。
「感情では国家は運営できない。それは君たちでもわかるだろう」
それだけだった。
眼鏡の男が下を向いた。さっきまで俺たちの話を聞いていた顔が、全員、別の顔になっていた。
男の視線はもう一度俺たちのほうに向いた。値踏みするような目ではなかった。それよりもっと遠い目だった。俺たちが見えているのかどうか、わからないくらい遠い目だった。
「継続で」
白髪の男が「はい」と言った。
それで終わりだった。
メモを取っていたミンミンさんの手が少し震えているようだった。
俺は何も言えなかった。言葉が出なかったわけじゃない。何を言っても届かないとわかった。あの目を見た瞬間にわかった。
男が立ち上がった。杖をついて、ドアに向かった。
出ていく直前、その男の目が、一瞬だけ俺を見た。




