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第八話 第二章 圧倒

暖人は庁舎の入口にいた。

もう何度も見ている景色。ここに来るといろんな感情がこみ上げてくる。

街行く人は相変わらず忙しない。息苦しいほど蒸し暑い空気を切り裂く蝉の声まで、まるでこの風景の一部のように感じられた。

「今日の有識者会議に出席する古賀暖人です。」

入口の受付。今日ここを通るのは、以前のいずれとも違う。まるで鉄球が付いた足枷をはめられているかのように、足が重かった。

 建物の空気は、それ自体が巨大な生き物のようで、俺の存在を拒んでいるように思えた。


 俺は、なんで今ここにいるんだろう?いつの間にそうなった?

 今はそれを考える時間ではないはずだと、自分でもわかっているが、やはりそう考えずにはいられなかった。


会議室は、静かだった。


 静かすぎた。俺が入室した瞬間、十数人の視線が一斉にこちらを向いた。全員スーツ姿で、俺の父親か祖父くらいの年齢だった。長方形に並べられた長机の、一番手前に、俺の名前が貼ってある場所が用意されていた。

 そこに座れ、という意味だとわかった。

 俺は座った。

 「古賀暖人さん、ですね」

 正面に座った男が口を開いた。七十代くらいだろうか。白髪で、目が細く、声だけが妙に若かった。名札があったが、俺の位置からは読めなかった。

 「PASSという団体の、代表だそうで」

 代表、という言葉に微妙なアクセントがついた気がした。俺は「はい」と答えた。自分の声が思ったより小さかった。

 「本日はお越しいただきありがとうございます。ざっくばらんにお話できればと思っています」

 ざっくばらん、という言葉が、この部屋の空気と全く合っていなかった。

 最初の三十分は、質問という形をした確認作業だった。

 PASSの活動内容について。メンバーの構成について。資金源について。SNSの運用方針について。一つ一つは答えられる内容だった。俺は答えた。でも答えるたびに、何かが少しずつ削られていく感覚があった。

 「つまり、皆さんは制度そのものの廃止を求めているわけですね」

 別の男が言った。五十代くらい。眼鏡をかけていて、手元の資料から目を離さないまま話していた。

 「はい」

 「なるほど」

 それだけだった。「なるほど」の先が来なかった。沈黙が落ちた。俺は次の言葉を待った。待っても来なかった。

 「古賀さん」と最初の男がまた口を開いた。「制度には、問題点もあるかもしれない。ただ、この制度によって救われた人も多くいるんですよ。その点について、どうお考えですか」

 俺は答えようとした。

 言葉が、出なかった。

 救われた人。その言葉が頭の中で転がった。救われた、救われた。拓海さんのことが浮かんだ。ミンミンさんのことが浮かんだ。古谷先生のこと、星良のこと、礼のこと。何が救いで何が救いじゃないのか、俺には整理できなかった。整理できないまま、時間だけが過ぎた。

 「……制度によって、傷ついた人も、います」

 やっと出てきたのはそれだけだった。

 「それは、やむを得ないことです。」と男は言った。穏やかな声だった。穏やかであることが、刃だった。「そこで、我々は今日ここあなたをお呼びしたわけです。廃止というのは現実的じゃない。どのように継続していくか、共に考えていただけませんか。古賀さんのような、現場の声を持つ方の意見は、大変参考になります」

 参考に、なります。

 その言葉が、どこか遠くから降ってきた。

別の男が発言した。

「古賀さん。君のような子どもには、国家の安全とは何か、考えるには少し知識や経験が不足しているかもしれないねぇ。」


……子ども。確かにまだ大学生だが。


また別の男が話し始めた。

「政府には、ある特定の人だけでなく、国全体を守る責任がある。この国は、世界で最も安全であると世界各国からの評価も高い。それは我々のような組織による提言によって維持されているのだよ。」


また別の男が畳み掛けてきた。

「政府というのは、個人の利益という狭い視野ではなく、国全体をより良い方向に導き、ひいては国際社会における我が国の在り方というような大きな視点で物事を考えなければならないのだよ。」


 俺は何も言えなかった。俺は星良のこと、自分の身の回りのことで精一杯だ。国全体や、ましてや国際社会なんて、俺がどうこうできる話じゃない。


最初の男がまた口を開いた。

「古賀さん、最近市来さんから受けた指定を、彼女からの嘆願書によって執行停止されましたね。彼女は我々のせんの……いや、我々に賛同してくれていた。あなたも、この制度がどのようなものか、よく理解できているはずだ。」


別の男が続けた。

「植田さんもずいぶん力になってくれているようですねぇ。」


……えっ?どういうことだ?

背筋が寒くなった。

俺は完全に言葉を失った。


 ――会議が終わったのは二時間後だった。


 廊下に出た瞬間、膝から崩れそうなくらい、ぐったりとした疲労感が襲ってきた。エレベーターのボタンを押して、扉が開くまでの数秒、俺は壁を見ていた。

 何か言えたか。言えなかった。言いたいことはあったはずだ。でも言葉が来なかった。来るたびに、向こうの言葉に形を変えられた。気づいたら「継続」という言葉に頷きかけていた。頷いていなかった、とは言い切れなかった。

 エレベーターの扉が開いた。

 俺は乗り込んで、ボタンを押した。

 鏡に自分の顔が映った。俺ではない俺がそこにいるが、思ったより普通の顔をしていた。

 家に着いて部屋に入った瞬間、ベッドに倒れ込んだ。

ベッドに倒れ込んだまま、天井を見ていた。

やむを得ない、か。

古谷先生も、やむを得なかったのか。

スマホが鳴った。グループLINEだった。

ミンミンさんだった。

『有識者会議、お疲れ様でした。どうでしたか?』

俺は少し考えてから打った。

『ダメだった』

すぐに星良から来た。

『そっか。お疲れ』

続いて拓海さん。

『お疲れ様です。俺でよければ話聞きますよ』

最後に礼だった。

『お疲れ様。明日、全員で集まれる?暖人の話を聞いた上で、次の手を考えたい。古谷先生の資料も、整理が進んできたから』

やれやれ、と思った。でもそれだけじゃなかった。

『わかった。集まろう』

と打って、スマホを置いた。天井を見た。さっきと同じ天井だったが、少し違って見えた。

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