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第七話 第五章 再起

ミンミンのスマホが振動した。

 ハッとして、暖人の肩からそっと手を離した。手を床に戻した。立ち上がって、部屋を出た。

 廊下で画面を見た。礼からのメッセージだった。

「今、暖人君のそばにいます。指定を受けていることは確認しました」

「拓海さんと向かいます。三十分で着きます」

 画面を閉じた。廊下に一人で立っていた。胸の中がまだ少し、落ち着かなかった。

――

 礼と拓海が来た。

 四人で暖人の部屋にいた。拓海が床に座った。礼は壁に背中を預けた。ミンミンは自然と暖人の横に座った。

 誰も急かさなかった。

 拓海が口を開いたのは、しばらく経った後だった。

「暖人君」

 暖人の目が、少し動いた。

「一つだけ、聞いてほしいことがある」

 返事はなかった。でも拓海は続けた。

「指定者が空欄じゃないなら、嘆願書が出せる。何人も救ってきた」

 部屋が静かだった。

「星良さんに、嘆願書を出せる」

 暖人の目が、天井から拓海の顔に動いた。ゆっくりと。焦点が合うまでに、少し時間がかかった。

 ミンミンは暖人の横顔を見ていた。何かが少しずつ戻ってくるのがわかった。水が染み込むように、遅く、確かに。

 礼が静かに言った。

「星良さんがどこにいるかは、たぶんわかる」

 暖人の口が、小さく動いた。

「……会える?」

「たぶん」

 暖人はゆっくり起き上がった。すぐには立てなかった。膝に手をついて、時間をかけた。ミンミンは手を伸ばしかけて、止めた。自分で立とうとしているのがわかったから。

 立った。

 少し揺れた。でも立った。

 暖人はゆっくり全員を見た。拓海を見た。礼を見た。ミンミンを見た。

 それから、小さく、でも確かな声で言った。

「星良に、会いに行こう」

――

 四人が庁舎に着いたのは夕方だった。暖人にとっては何度も見た風景だが、今日は少し違って見えた。

 入口に立った。暖人は指定通知のアプリを開いた。対象者本人として、面談の申請を送った。少し待つと、受理の通知が来た。

「ここからは俺一人だ。行くぞ」

 拓海が短く言った。「嘆願書、データで送っておく」

 礼がスマホを出しながら言った。「準備する。何かあったら連絡して」

 ミンミンは何も言わなかった。ただ、暖人を見ていた。なぜだか涙が溢れそうになったのを必死でこらえていた。

 数時間前、灰色の部屋でただ人形のようにたたずんでいた青年。三人から見た今の暖人は、それとは別人だった。暖人は三人を見て頷き、それから中に入った。

――

 案内された部屋は、小さかった。

 テーブルが一つ。椅子が二つ。窓がなかった。蛍光灯の光だけがあった。

 暖人は椅子に座って待った。

 ドアが開いた。

 白いブラウスを着た女性が入ってきた。


暖人は立ち上がった。その勢いで椅子が後ろに倒れた。


――え、違う……?

いや、違わない。


「セラ!」


その女性の姿を見て、暖人は声を上げながらすぐさま駆け寄って、抱きしめた。


星良は書類を持ったまま、暖人から逃れるように腕を伸ばして暖人を押し退けた。


 星良は、まるで星良じゃないように見えた。

 目が違う。こちらを見ているのに、目が合わないような気がした。焦点が合っているのに、何も映していなかった。書類をテーブルに置く仕草が、事務的だった。流れるように、迷いなく、感情なく言った。

「古賀暖人さんですね」


 星良の声だった。でも抑揚がなかった。

「はい」と暖人は答えた。自分の声がかすれた。

「面談の目的を確認します。指定執行に関する説明をご希望ですか」

「セラ、違う!」

 星良は顔を上げた。無表情のまま、暖人を見た。

「セラ」

 名前を呼んだ。

 刹那、何かが動いた気がした。星良の目の奥で、何かが揺れた。でもすぐに消えた。

「当施設では担当者への個人名での呼びかけはご遠慮いただいております」

「セラ!」

 もう一度呼んだ。

 星良は書類に目を落とした。ペンを持った。

「用件をお聞きします。そちらにお掛けください。」

――

 暖人は倒れた椅子を起こし、改めてテーブルの星良の向かい側に座り、話し始めた。

「幼稚園の時、お前の家の近くに引っ越してきた。最初に話しかけてきたのはセラだったよ。俺が外で一人でいたら、お前が来て、セミを捕まえようって言って公園に行ったの、俺は今でも覚えてるよ。」

 星良はペンを動かしていた。書類を見ていた。

「中学の時、お前と二人で夜の公園に行った時、お前が怖い話をして、自分で怖くなって泣いただろ。俺が笑ったらお前が怒ってた」

 ペンが止まった。

 一瞬だけ。また動き始めた。

「高校の時、二人で映画、観たよね。帰りに雨が降って、お前のカバンが濡れた。お前が拗ねて、俺が傘を持ってくればよかったって言ったの、覚えてる?」

 星良は書類を見ていた。でも目が動いていなかった。

「高校卒業してすぐ、みんなでディズニーに行った。お前がずっと行きたがってた。混んでて疲れてたのに、帰り道でアトラクションのことを話してた。でもお前、電車の中で寝てたよ。俺の肩に寄りかかって」

 星良の手が、テーブルの上で止まった。

「覚えてるか?」

 返事はなかった。

「卒業式後、ファミレスで言ってただろ。夏になったら海に行こうって。花火も見たいって。」

 星良は動かなかった。

「その夏は、来なかった」

 部屋が静かだった。

「でもまだ夏は終わってないよ!」

――

 暖人はスマホを開いた。拓海から送られてきた嘆願書のデータがあった。アプリを開いて、提出した。

 画面に通知が来た。

 嘆願書を受理できません。指定者本人による申請が必要です。

 暖人は画面を見た。

 そうか、と思った。絶望ではなかった。ただ、そうか、と思った。

 スマホが震えた。礼からのメッセージだった。

 準備はできてる。星良さんから何か渡してもらえればサーバーに入れる。

――

 外では三人は近くのベンチで座っていた。

 拓海は背もたれに背中を預けていた。腕を組んでいた。空を見ていた。

 礼はノートパソコンを膝の上に置いていた。画面を見ていた。指が止まっていた。

 ミンミンは庁舎のほうを向いていた。視線がそこから離れなかった。

 誰も何も言わなかった。

 礼が小さく言った。「サーバーセキュリティの入口さえ開けてもらえれば、あとは僕が突破できるんだけどな」

 ミンミンはまだ建物を見ていた。

拓海は、暖人を心配しているミンミンを見て、なんだかモヤモヤした。それが何なのか、わからなかった。

――

 暖人は星良を見た。

「セラ、俺、わかったんだ。俺にはお前が必要だってこと。失って初めて気付くのもバカだけど。」

 星良は動かなかった。

「でも、奇跡が起きた。今、セラが俺の前にいる」

 星良の目が、暖人を見た。

 さっきと違った。焦点が、あった。

 何かが、戻ってきていた。まだ全部じゃない。でも確かに、そこにあった。

「夏の約束、まだ有効だよ。だって、まだ夏は終わってない。」

 暖人は言った。

「海、行こう。花火、見よう。お前が言ったこと、俺は覚えてるよ。今年が無理なら、来年でも再来年でもいい。星良が戻ってきてくれたら、いつでも行けるよ」

 星良の表情が崩れた。無機質だったものが、溶けていくように。

「……んん」

 星良の口から、言葉が出た。かすれていた。自分の声に気づいていないような、そういう声だった。

「はる……と」

 名前を呼ばれた。

 暖人は答えなかった。答えられなかった。ただ、星良を見ていた。

「セラ、俺……俺、お前のこと……お前とずっと一緒に居たい。お前と二人で、これからの未来を一緒に作っていきたい」

「セラ!好きだ!」

星良の目から、涙が溢れ出た。


「ハルト!」

 

 星良は顔を上げた。

 暖人も、星良をまっすぐ見つめていた。

 そこには星良がいた。さっきまでと違う目で、暖人を見ていた。困惑と、恐怖と、何かを思い出そうとしている顔で。

「わたし、なんで……ここに……何してるんだろう?」

「いい」と暖人は言った。「今はいい」

 星良の目から泉のようにとめどなく湧き出る涙は、奥の方から何かを運んでくるようだった。

「ハルト」

「俺はここにいるよ」

 星良が崩れた。暖人はまた立ち上がった。テーブルを回って、星良のそばに行って、星良を抱き寄せた。

 星良の肩が震えていた。暖人は何も言わなかった。ただ、そのままそこにいた。

 蛍光灯の光だけがある部屋の中で、二人はしばらくそのままでいた。

 夏は、まだ終わっていなかった。

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