第七話 第四章 存在
保育園の前で、萌が振り返った。
「ママ、今日お迎え早い?」
「今日はもしかしたらばあばのお迎えになるかもしれないよ。いい子にしていてくれる?」とミンミンは言った。「うん、わかったー」
萌が中に入るのを見届けてから、ミンミンはスマホを開いた。礼からのメッセージはまだそこにあった。
暖人と連絡が取れません。様子を見に行ってもらえますか。
短い文章だった。それだけだった。礼らしい。
ミンミンは電車に乗った。
――
暖人の実家は、駅から歩いて十分ほどのところにあった。焼け付く太陽が体内から水分を奪っていく。相変わらず空気を切り裂く蝉の声は、残酷なまでにその道中を遠くさせた。
インターフォンを押した。少し間があって、女性の声がした。
「はい」
「突然すみません。暖人君の知り合いで、植田と申します。少しだけ、様子を見に来たんですが」
また間があった。ドアが開いた。
五十代くらいの女性が立っていた。口元が暖人に似ていた。
「暖人のお友達ですか」
「はい。ご連絡もせずに突然申し訳ありません」
「いいえ」と母親は言った。それから少し声を落とした。「昨日から部屋に籠もったまま出てこないんです。ご飯も食べてなくて。何度声をかけても返事がなくて……」
ミンミンは母親の顔を見た。困惑と、心配と、どうしたらいいかわからない色が混じっていた。
「部屋に入っても、いいですか」
母親は少し迷ってから、頷いた。
――
廊下を進み、ドアをノックした。返事はなかった。
「暖人君、植田です。入りますね」
ドアを開けた。
カーテンが閉まっていた。薄暗い部屋の中、暖人は床に横になっていた。天井を見ていた。見ているのかどうかもわからなかった。スマホが手の届かないところに転がっていた。画面は真っ暗だった。
ミンミンは部屋に入った。暖人は動かなかった。視線がミンミンに向いた気がしたが、焦点が合っていなかった。
床に転がったスマホを拾った。電源ボタンを押した。充電切れだった。
部屋の隅に充電器が刺さっていた。スマホを繋いだ。少し待つと画面が点いた。通知が溢れていた。その中に、見覚えのあるものがあった。
選択権指定通知。指定者 市来星良。
ミンミンは画面を見たまま、動かなかった。
市来星良。暖人の「大切な人」の名前だった。死んだはずの、名前だった。
ミンミンにはすべてはわからなかった。何がどうなってこうなったのか、整理できなかった。ただ、暖人が指定を受けていること、その指定者が星良であることだけはわかった。
床に横になったまま動かない暖人を見た。
夫が指定を受けた夜のことを思い出した。あの時の部屋の空気が戻ってきた。蛍光灯の白さ。椅子の硬さ。夫が黙ったまま窓の外を見ていた横顔。自分もどうしたらいいかわからなかった。ただそこにいた。それしかできなかった。
ミンミンはそっと床に座った。暖人のすぐ隣に。
暖人は何も言わなかった。ミンミンも何も言わなかった。
カーテンの隙間から光が入っていた。埃が光の中をゆっくり動いていた。遠くで鳥が鳴いた。
暖人の手が、床の上にあった。指先が白かった。
ミンミンはそっと手を伸ばした。暖人の手に触れた。冷たかった。娘の萌の手が冷たい時、ミンミンはいつも両手で包んだ。今もそうした。
暖人の指がわずかに動いた。拒まなかった。
冷たかった。こんなに冷たくなるまで、一人でいたのか、と思った。
ミンミンは握った手をゆっくり自分の頬に寄せた。体温を渡すように。ただそれだけのつもりだった。
暖人の息が、少し変わった気がした。浅いままだったが、何かが緩んだような。
ミンミンは自分が何をしているのか、途中からよくわからなくなっていた。ただ、離れたくなかった。この冷たい手を、放したくなかった。何とかしたい――
そっと暖人の肩に手を置いた。力を込めず、ただ触れるように。
暖人は動かなかった。でも、ミンミンの方に、ほんのわずか、重心が傾いた気がした。
ミンミンはそのままでいた。
自分の胸の中のことは考えないようにした。今は、ただここにいることだけでよかった。
風の前で揺れるロウソクの灯火のような、繊細さと危うさを、今の暖人に重ねた。この人のこと、守らなきゃ。そうしなければいけない気がした。
私――
――暖人にとって、ミンミンの体温が唯一の世界だった。




