表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

33/37

第七話 第四章 存在

保育園の前で、萌が振り返った。

「ママ、今日お迎え早い?」

「今日はもしかしたらばあばのお迎えになるかもしれないよ。いい子にしていてくれる?」とミンミンは言った。「うん、わかったー」

 萌が中に入るのを見届けてから、ミンミンはスマホを開いた。礼からのメッセージはまだそこにあった。

 暖人と連絡が取れません。様子を見に行ってもらえますか。

 短い文章だった。それだけだった。礼らしい。

 ミンミンは電車に乗った。

――

 暖人の実家は、駅から歩いて十分ほどのところにあった。焼け付く太陽が体内から水分を奪っていく。相変わらず空気を切り裂く蝉の声は、残酷なまでにその道中を遠くさせた。

 インターフォンを押した。少し間があって、女性の声がした。

「はい」

「突然すみません。暖人君の知り合いで、植田と申します。少しだけ、様子を見に来たんですが」

 また間があった。ドアが開いた。

 五十代くらいの女性が立っていた。口元が暖人に似ていた。

「暖人のお友達ですか」

「はい。ご連絡もせずに突然申し訳ありません」

「いいえ」と母親は言った。それから少し声を落とした。「昨日から部屋に籠もったまま出てこないんです。ご飯も食べてなくて。何度声をかけても返事がなくて……」

 ミンミンは母親の顔を見た。困惑と、心配と、どうしたらいいかわからない色が混じっていた。

「部屋に入っても、いいですか」

 母親は少し迷ってから、頷いた。

――

 廊下を進み、ドアをノックした。返事はなかった。

「暖人君、植田です。入りますね」

 ドアを開けた。

 カーテンが閉まっていた。薄暗い部屋の中、暖人は床に横になっていた。天井を見ていた。見ているのかどうかもわからなかった。スマホが手の届かないところに転がっていた。画面は真っ暗だった。

 ミンミンは部屋に入った。暖人は動かなかった。視線がミンミンに向いた気がしたが、焦点が合っていなかった。

 床に転がったスマホを拾った。電源ボタンを押した。充電切れだった。

 部屋の隅に充電器が刺さっていた。スマホを繋いだ。少し待つと画面が点いた。通知が溢れていた。その中に、見覚えのあるものがあった。

 選択権指定通知。指定者 市来星良。

 ミンミンは画面を見たまま、動かなかった。

 市来星良。暖人の「大切な人」の名前だった。死んだはずの、名前だった。

 ミンミンにはすべてはわからなかった。何がどうなってこうなったのか、整理できなかった。ただ、暖人が指定を受けていること、その指定者が星良であることだけはわかった。

 床に横になったまま動かない暖人を見た。

 夫が指定を受けた夜のことを思い出した。あの時の部屋の空気が戻ってきた。蛍光灯の白さ。椅子の硬さ。夫が黙ったまま窓の外を見ていた横顔。自分もどうしたらいいかわからなかった。ただそこにいた。それしかできなかった。

 ミンミンはそっと床に座った。暖人のすぐ隣に。

 暖人は何も言わなかった。ミンミンも何も言わなかった。

 カーテンの隙間から光が入っていた。埃が光の中をゆっくり動いていた。遠くで鳥が鳴いた。

 暖人の手が、床の上にあった。指先が白かった。

 ミンミンはそっと手を伸ばした。暖人の手に触れた。冷たかった。娘の萌の手が冷たい時、ミンミンはいつも両手で包んだ。今もそうした。

 暖人の指がわずかに動いた。拒まなかった。

 冷たかった。こんなに冷たくなるまで、一人でいたのか、と思った。

 ミンミンは握った手をゆっくり自分の頬に寄せた。体温を渡すように。ただそれだけのつもりだった。

 暖人の息が、少し変わった気がした。浅いままだったが、何かが緩んだような。

 ミンミンは自分が何をしているのか、途中からよくわからなくなっていた。ただ、離れたくなかった。この冷たい手を、放したくなかった。何とかしたい――

 そっと暖人の肩に手を置いた。力を込めず、ただ触れるように。

 暖人は動かなかった。でも、ミンミンの方に、ほんのわずか、重心が傾いた気がした。

 ミンミンはそのままでいた。

 自分の胸の中のことは考えないようにした。今は、ただここにいることだけでよかった。

風の前で揺れるロウソクの灯火のような、繊細さと危うさを、今の暖人に重ねた。この人のこと、守らなきゃ。そうしなければいけない気がした。

私――


――暖人にとって、ミンミンの体温が唯一の世界だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ