第七話 第三章 夜明け
せら。……せら。セラ!
あの日、あの時、俺が叫んだ名前。おじさん、おばさんと一緒に居た時、失った名前。
いつの間にか暗くなったスマホに、自分の顔が映っていた。
指が動いた。画面を点けた。同じ文字があった。
「指定者 市来星良」
読んだ。完全に混乱していた。
もう一度読んだ。知っているはずの名前だった。
俺が星良を失って、動かなきゃと思った。
ビラ配り。会議室で初めて集まった日。
俺は何をやってたのか。
古谷先生。
急に別の場所から浮かんできた。白い廊下。受付。頭を下げる拓海。画面を見続けていた礼。そこまで思い出して、止まった。続きがなかった。
古谷先生と星良。失った人。
でも、今俺のスマホには名前がある。
スマホが震えた。
画面が光った。礼、という名前があった。見ていた。音が鳴っていた。取らなきゃ、と思った。思っただけだった。指が遠かった。自分の手なのに、届かなかった。
着信が切れた。静かになった。
また震えた。また礼だった。画面の光だけが、部屋の中で動いていた。暖人は見ていた。何も選べなかった。
息を吸った。浅かった。胸のどこかが詰まっていた。空気が入った感じがしなかった。
いつから床にいるのか、思い出せなかった。背中が壁に触れていた。足の感覚が薄かった。痺れている、と気づいた。でも動かす理由が見つからなかった。
星良が生きている。
その考えが浮かんだ。遅れて、別の考えが来た。星良が、自分を指定した。その二つが、同じ場所に並ばなかった。近づけようとすると、どちらかが遠くへ逃げた。
古谷先生が死んだ。
それもあった。でも実感がなかった。ニュースを見ているみたいだった。自分の中で起きている感じがしなかった。何かを感じなきゃいけない気がした。何も来なかった。
窓の外が、少し白かった。
いつの間にか夜が終わっていた。鳥の声が聞こえた。遠くで車が走った。誰かが一日を始めていた。世界が動いていた。
スマホを見た。また画面を点けた。
「指定者 市来星良」
そこにあった。変わらなかった。
指先が冷たかった。握っているのか、落としそうなのか、自分でもわからなかった。
せら。
もう一度、音にした。懐かしいのか。悲しいのか。怖いのか。嬉しいのか。
形にならないまま、胸の奥で固まっていた。
暖人はゆっくり横に倒れた。天井が視界に入った。白かった。朝の光が、少しずつ広がっていた。
目を閉じても、文字が残っていた。四つの文字だけが、ずっとそこにあった。
――俺、死ぬのか?
星良に殺される。星良が俺を殺す。なぜ?俺あの時……いや、違う。でも、通知が本当なら仕方ないのかもしれない。本当なのか?
古谷先生。制度を、システムを、死を、誰も止められなかった。俺もう無理だ。
星良は俺のこと恨んでるのか?あ、もしかして幽霊?
本当に存在しているのか、してないのか。
星良が制度を使うなら、PASSの意味は?
俺、何やってるんだろう。先生も助けられない。制度は止められない。
俺達がやっていることに意味なんてないんだ。もうダメだ――
スマホがまた震えた。
礼だった。
バイブレーションが震える規則的な音がしていた。
止まった。
取ろう、とは思えなかった。
取らない、と決めたわけではないが。
ただ、何もできなかった。
PASSのグループ通知が流れていた。
未読が増えていった。
画面の数字だけが変わっていた。
暖人はそれを眺めていた。
自分が代表だったことは、どこかに置いてきていた。
責任、という言葉はその時は頭になかった。
メッセージ。誰かが何かを言っているのだろう。ただそれだけだった。
スマホの電池が切れた。
部屋が暗くなった。
暖人は動かなかった。
そのまま、何もしない時間だけが進んだ。
窓の外は完全に切り離されていた。
PASSは、その朝、まだ存在していた。
ただ、動いていなかった。
どれくらいの間そうしていたのか、暖人は意識すらしていなかった。




