第七話 第一章 残り時間
古谷から連絡が来たのは、夜が明けきらない時間だった。
暖人はスマホの画面を見て、一瞬止まった。古谷将広、という名前。ここ数日、何度かけても繋がらなかった番号だ。
「古賀君」
電話口の声は、いつもと変わらなかった。低く、穏やかで、どこか講義室を思わせる響き。
「少し話せるかね」
「はい」と暖人は答えた。「もちろんです」
「私に指定通知が来た」
短い沈黙があった。暖人は何か言おうとしたが、言葉が出なかった。
「驚かせてしまったね」古谷は続けた。「ただ、想定の範囲内ではあった」
「先生、まだ——」
「古賀君」
静かに、しかし明確に遮られた。
「私が連絡したのは、伝えておきたいことがあったからだ。御手洗君にも共有してもらえないか。有識者会議サーバーの中に、内部通信ログが混在している。暗号化されているが、解けるはずだ。それと」
一拍置いた。
「君が代表として団体の……PASSの表に立っていることは、向こうも把握している。気をつけなさい」
「先生は」
「私は……大丈夫だ」
大丈夫、という言葉の軽さが、むしろ重かった。
「ではまた」
電話は切れた。暖人はしばらくスマホを持ったまま立っていた。窓の外はまだ暗い。古谷の声が耳の奥に残っていた。穏やかすぎた。落ち着きすぎていた。
暖人は礼に電話をかけた。
――
「古谷先生から連絡があった」
暖人が言うと、礼は一瞬黙った。寝ていた気配はなかった。
「内容は」
「指定通知が来たって。それと、有識者会議のサーバーの中に暗号化された内部通信ログが混じってるって」
また短い沈黙があった。
「わかった」
「礼」
「今日行くよ」
それだけ言って、電話は切れた。暖人は画面が暗くなるのを見ていた。
――
礼は電話を切ってすぐ、引き出しを開けた。
古谷から受け取った資料の束。引き出しの中の指紋フィルムと虹彩コンタクトレンズ。それらを取り出し、同時に解読ツールの構成を頭の中で組み立て始めた。
潜入の準備も進めた。
以前の潜入で使ったアクセス経路を確認する。
朝九時過ぎ、庁舎に向かった。偽装した古谷のIDカードで入口はすんなり通ることができた。
地下の一室に置かれた端末に、アカウントとパスワードを使ってサーバーにアクセスした。
次に生体認証のゲートに指紋フィルムをかざした。
「認証できません」
エラーが出た。
もう一度試みた。結果は変わらなかった。虹彩コンタクトレンズも同様だった。礼は画面を見つめ、生体認証を諦めた。
アカウントとパスワードでのアクセスで何かできないかを試し始めた。入れる領域が限られている。表層に近い、古いログだけだ。
それでもある程度の情報は確認できた。
断片を拾い始めた。最初に引っかかったのは日付だった。PASSが動き始めた頃から数日後のアクセスログ。PASSという単語が検索履歴に残っていた。そこから先は暗号化されていて読めない。次に出てきたのは、ミンミンのSNSアカウントへの言及だった。投稿の収集履歴。アカウント名から個人の特定を試みた形跡がある。そして古谷の名前が出てきた。会議への召集記録。ここ一ヶ月で四回。
古谷から渡された暗号化ログと照合した。解読には時間がかかった。一つほぐれると次が見えてきた。そこに暖人の名前があった。
召集された古谷が、会議の中でPASSについて問い詰められていた記録。古谷は最小限しか答えていなかった。それでも、暖人という名前だけは一度だけ出ていた。古谷が意図して出したわけではないことは文脈からわかった。ただ、出てしまっていた。
礼は画面から目を離さなかった。
――
翌日から、礼は新しいハッキングソフトの開発に入った。
既存のツールでは届かない層に、別の経路から侵入するためのコードだ。二日かけて組み上げた。暖人には進捗だけ伝えた。余計なことは言わなかった。気付いたらもう三日間風呂に入っていなかった。
再度庁舎に出向き、完成したソフトでアタックをかけた。
最初の壁は抜けた。次の層に入れた。その先に、もう一枚セキュリティあった。礼はコードを書き直した。別のアプローチを試みた。また弾かれた。向こうの対策は礼の想定より一手先を行っていた。三時間かけて組んだ経路が、一行のエラーで終わった。
礼は椅子の背もたれに体を預けた。天井を見た。また組み直すしかない、と思った。
――
暖人は礼からの報告を受け、孤軍奮闘を続ける礼に対し、何もできない自分にもどかしい思いでいた。
暖人と拓海が庁舎に行ったのは、その翌日だった。
受付に立った。
「選択権による指定の件で、担当者の方にお会いしたいんですが」
暖人が言った。受付の職員は画面から目を上げた。
「お名前と、ご関係をお聞きしてもよいですか」
「古賀暖人です。指定を受けた方の——」
「指定を受けられた本人様ではないということですか」
「はい。ただ——」
「申し訳ございませんが」職員の声は平坦だった。「指定に関するご相談は、対象者本人からのご連絡のみ承っております。第三者の方からのご要望にはお応えできかねます」
暖人はもう一度何か言おうとした。拓海が軽く腕に触れた。
二人は庁舎を出た。外の光は二人から色彩を奪うほど白く、時間がまるで現実より何歩も先を急いでいるかのように感じた。二人は何も言わなかった。
帰り道、二人は別れ、違う手段を考えることにした。
――
礼はその夜から、またソフトを組み直した。生体認証が弾かれる以上、もはや庁舎に行く必要はなかった。
庁舎で弾かれた分を取り返すように、コードを書いた。新しい侵入経路を探した。セキュリティの更新から漏れているポートを探した。どこかに穴があるはずだ。
なかった。
以前はあったセキュリティホールは完全に塞がれ、最後の経路も通り抜けることはできなかった。
礼はその結果を見てから、もう一度ログを確認した。古谷教授になりすましている自分のアクセス履歴が、全て記録されていた。どの経路から入ったか。どの層まで届いたか。今回試みた全てが、捕捉されていた。
残り二日。三人はそれぞれ最後の手を探した。
礼はオンラインのコミュニティを当たった。以前から名前だけ知っていた技術者に連絡を入れた。状況を説明した。断られた。別の人間に当たった。話を聞いてはくれたが、首を縦に振らなかった。時間が足りない、と言われた。もう一人当たった。返信は来なかった。
暖人と拓海はそれぞれ古谷に連絡を試みた。電話をかけたが繋がらない。メールを送ったが既読にならない。SNSのDMを送った。アカウントは存在しているのに、何も返ってこなかった。暖人はもう一度電話をかけた。呼び出し音だけが続いた。
礼は画面の前にいた。暖人の名前が画面にあった。
朝から何も食べていなかったが、そんなことに気付いてすらいなかった。
画面の時計だけが、誤差なく秒数を削り落としていた。




