第六話 第五章 虹
通知が来たのは、夕方だった。
選択権制度による指定が取り消されました。
私はしばらく、画面を見つめた。
萌が「ママー」と呼んだ。母の家に預けていた萌を、今朝引き取ってきたばかりだった。リビングを走り回っている萌の声が聞こえた。
――取り消された。
膝から力が抜けてソファに崩れ落ちた。スマホを胸に当てた。涙が出そうになったけど、萌の無邪気な声にかき消された。ただ、息が少しだけ楽になった。
暖人君にメッセージを送った。「通知来ました。ありがとうございます」
すぐに既読がついた。返信は短かった。「よかった」
しばらくして、有村さんからもメッセージが来た。
「無事でよかった」
私はその文字を見て、少しの間、動けなかった。
夫を殺した男が、私の無事を喜んでいる。
やっぱり、おかしい。でも、今は——今だけは——その言葉を素直に受け取ることにした。
「ありがとうございます」
送信した。
しばらくして、私はスマホを開いた。SNSのアプリを立ち上げた。投稿欄に文字を打ち始めた。何日か止まっていた指が、また動いた。
「制度と闘っている人へ。諦めないでください。必ず止められます。#PASS」
投稿した。
萌がまた「ママー」と呼んだ。私は立ち上がって、萌を抱き上げた。萌は「重い?」と聞いた。「全然」と答えた。
窓の外の夕空に虹がかかっていた。その向こうで、入道雲がゆっくりと形を変えていた。
窓の外に広がっていた夏の夕暮れには、さっきまで降っていたにわか雨が作った虹と入道雲が同居していた。
――
同じ頃、暖人は部屋で一人、スマホを置いた。
ミンミンの通知を確認して、礼に「止まった」と送った。礼からの返信は「了解」の一言だけだった。
暖人はしばらく天井を見た。
止められた。星良、止められたよ。あの時――
でも、古谷先生はまだ連絡がない。
スマホをもう一度手に取って、先生のアカウントにメッセージを送った。「先生、無事ですか」既読はつかなかった。
――
礼は部屋の椅子に座ったまま、ノートパソコンを閉じた。
暖人からの「止まった」というメッセージを見て、「了解」と返した。それだけだった。
リュックからコンタクトレンズのケースを取り出した。古谷の虹彩をプリントしたコンタクトレンズ。指紋のフィルム。使い終わったそれを、しばらく眺めた。
天井を見て、それらを引き出しにしまって鍵をかけた。
――
拓海はミンミンからの「ありがとうございます」という返信を見て、しばらくスマホを持ったままでいた。
たった十文字だった。でも、その十文字が、何かを少し動かした気がした。
窓の外に、夕暮れの街が広がっていた。帰宅を急ぐ人たちが歩いていた。いつもと変わらない世界を、入道雲がのぞき込んだ。
それでも、何かが少し変わった気がした。
――
その前日、午後十時。
研究室の机の上に置かれた古谷のスマホが、静かに光った。古谷はしばらくそれを見ていた。それから、画面を確認した。
「あなたは選択権制度によって指定されました」
指定者欄は、空欄だった。
古谷は画面を閉じた。
窓の外に、省庁街の夜景が広がっていた。三十年、見てきた景色だ。
まばらな窓の灯りは、まるで何かの暗号のようだった。
机の上の湯飲みを手に取った。お茶はもう冷めていた。
古谷は湯飲みを置き、スマホを鞄にしまうと、部屋の電気を消した。
廊下の向こうで、エレベーターが止まる音がした。




