第六話 第四章 潜入
ミンミンの指定に対して、拓海と話し合った後、暖人は古谷にメッセージを送った。
「PASSのメンバーが空欄の指定者から指定されました。嘆願書が使えません。何か方法はありますか」
返信は翌朝、早い時間に来た。
「直接会いましょう。できることがあるかもしれない」
暖人は礼と拓海に連絡を取り、三人で待ち合わせ場所の喫茶店に向かった。
喫茶店で、古谷は低い声で言った。
「指定データに直接アクセスできれば、書き換えられるかもしれない」
暖人が身を乗り出した。
「有識者会議のシステムは古い。私がアクセスできる領域がある。ただしその先に壁がある」
暖人は礼を見た。「礼、お前なら何かできるんじゃないか?」
礼はテーブルの上で手を組んで古谷に聞いた。「どんな壁ですか」
「まず私のアカウントとパスワードで入れる。その先に生体認証がある。しかしさらにそこから先へは私のアカウントではアクセスできない」
礼は少し考えた。「実物を見ないと分かりません。一緒に行けますか」
古谷は頷いた。「案内しよう」
その日の夕方、礼と古谷は庁舎の近くで落ち合った。
日は傾いていても、まだ汗が噴き出るほど暑かった。日差しは容赦なく肌を突き刺し、蝉の声は相変わらず空気を切り裂いた。
古谷はいつものジャケット姿だった。礼はリュックを背負っていた。
「緊張しているか」古谷が聞いた。
「してません」礼は答えた。
古谷は少し笑った。「そうか」
庁舎の入口で、古谷がIDカードをかざした。ゲートが開いた。刹那、冷たい空気を感じた。完璧に温度管理された建物の中に、二人は入って行った。廊下は蛍光灯が白く照らしていた。古谷が先を歩いた。礼はその後ろを歩いた。
エレベーターで地下に降りた。古谷がドアの前で立ち止まった。端末にアカウントとパスワードを打ち込んだ。ドアが開いた。
サーバールームだった。機器の冷却音が低く響き、室内は一段と乾いた空気が支配していた。
礼は部屋を見回した。端末が一台、壁際に置いてあった。横に小さなパネルがある。指紋認証と、カメラのようなものが付いていた。
「虹彩認証もありますね」礼は言った。
古谷の指紋と顔認証で端末にログインした。
「突破できるか」
礼は端末を少し操作した後、しばらく黙っていた。
「時間をください」
その日は撤退した。
その日の夜、古谷から暖人と礼に連絡が来た。
「私はこれ以上君たちと一緒に庁舎に入ることはできない。詳しいことは言えないが」
翌日、礼は古谷と暖人を喫茶店に呼んだ。
テーブルの上に、小さな袋を置いた。
「一緒に庁舎に入れないということだったので、まず指紋を取らせてください」
古谷が袋の中を見た。石膏の粉と、型取り用のシリコンが入っていた。
「これは」
「指の模型を作ります。そこから指紋をフィルムに転写して、認証を突破します」
古谷はしばらく袋を見ていた。それから、右手の人差し指を差し出した。
礼は手際よく作業した。シリコンで型を取り、石膏を流し込んだ。固まるまでの間、三人は黙っていた。暖人は作業を眺めながら、何も言えなかった。
模型が完成した。礼はそれを丁寧に袋にしまった。
「次は目の写真を撮らせてください」
古谷は少し眉を上げた。そして、顔を礼の方に向けた。
礼はスマホを取り出して、古谷の目を至近距離から撮影した。
「これで何をするんだ」暖人が聞いた。
「虹彩のパターンをコンタクトレンズにプリントするんだよ。明日には用意できると思う。」
暖人は礼を見た。古谷も礼を見ていた。
「お前」暖人がゆっくり言った。「怖くないのか、それ」
礼は袋を閉じながら答えた。「何が?」
暖人は言葉に詰まった。古谷は静かに、自分の右手の人差し指を見た。自分の指紋が今、この少年の手の中にある。
「君は」古谷が低い声で言った。「いろんな意味で、恐ろしい子だな」
礼は少し首を傾けた。「褒め言葉として受け取っておきます」
翌日の夕方、古谷、暖人、礼はまた喫茶店に集まった。礼は胸ポケットから小さなケースを取り出した。コンタクトレンズが一枚入っていた。
「一晩で作ったのか」暖人が言った。
「知り合いに頼んだんだよ。細かいことは聞かないで」
古谷はそのケースを見て、少し黙った。それから立ち上がった。「行くか」
二回目の潜入は、その翌日に行くことにした。
古谷とは喫茶店で待ち合わせた。
しかし約束の時間になっても、古谷は来なかった。
礼は喫茶店の入口近くの席で、コーヒーを飲みながら待った。三十分が過ぎた。古谷のスマホに電話をかけた。繋がらなかった。暖人にメッセージを送った。
「古谷先生、来ない。連絡もない。
暖人からの返信は短かった。
「俺も繋がらない」
礼はコーヒーカップを置いた。窓の外を見た。夕暮れの街が広がっていた。あかね色の空はいつもの街を少しだけ違う色彩に演出した。
リュックを背負った。立ち上がった。
一人で行く。
庁舎の入口で、礼は立ち止まった。
古谷がいない。IDカードもない。
礼はリュックから薄いカードを取り出した。事前に調べておいた入口の認証方式。古谷から聞いていた裏口の場所。すべて頭に入っていた。
十分後、礼は地下のサーバールームにいた。
端末の前に座った。古谷のアカウントとパスワードを打ち込んだ。指紋認証のパネルに、フィルムを貼り付けた。認証が通った。カメラの前に顔を向けて、コンタクトレンズを装着した目を開いた。
虹彩認証、通過。
そこからは考えられる方法をいくつか試した。
「ダメだ」
礼は持参していたUSBメモリを取り出し、端末に差し込んだ。
礼が二日で作成したソフトを起動した。
二分後、データベースが開いた。
「やっぱりな。システムが古い」
検索欄に「植田メアリージャスミン」と打ち込んだ。レコードが表示された。指定日時、指定者コード、執行予定日時。
礼は指定ステータスの値を書き換えた。保存した。
画面は何事もなく、次のページに移った。
礼はコンタクトレンズを外した。フィルムを剥がした。全部リュックにしまった。立ち上がって、部屋を出た。
廊下を歩きながら、暖人にメッセージを送った。
「終わったよ。指定は止まったはず。おそらく指定取り消しの通知がミンミンさんに行ってるはずだから、確認して」
スマホをしまった。
エレベーターのボタンを押した。扉が開いた。乗り込んで、ボタンを押した。
庁舎から出て行く時、敷地入口の受付の人が頭を下げた。
「お疲れ様」
平静を装うことが一番怪しまれない。
それにしても、古谷先生はどこにいるんだろう。
数日前、庁舎の一室で、モニターを見ていた男が眉をひそめた。
紙とファックスとバインダーが並ぶ室内に、一台だけある古いモニター。そこにアクセスログが流れていた。
アクセスアカウント:古谷将広。
男は受話器を取った。
「古谷だ」
それだけ言って、受話器を置いた。
壁時計の針は、現実の時間よりも三分だけ先を急いでいた。誰もそのことを気にしていなかった。――気にしていても直す人はいなかった。




