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第二話 第二章 誕生日

目が覚めたのは、アラームより先だった。 スマートフォンの画面には五時五十一分と表示されていた。アラームは七時にセットしてある。一時間以上、早かった。

昨夜、眠れなかった。正確に言えば、眠れないまま夜を過ごしていた。時計を見るたびに、一時間が経っていた。二時間が経っていた。気づいたら三時を過ぎていた。その後のことは覚えていない。どこかの時点で落ちたのだと思う。眠った、というより、意識が途切れた、という感覚だった。

カーテンの隙間から、薄い光が差し込んでいた。一月の朝の光だった。力がなく、青みがかっていて、昼間の光とは別の種類のもののように見えた。その細い光の筋の中に、埃が漂っていた。全く動いていないように見えて、よく見るとゆっくりと、気流に乗って動いていた。僕はしばらくそれを眺めた。何も考えずに。今日が何の日かを忘れたわけではなかった。ただその光の中の埃を眺めている間だけ、何も考えなくて済んだ。

明日は一月二十三日。 僕の、十八歳の誕生日だ。

ワクワクしているか、と誰かに聞かれたら、違うと答えると思う。怖いか、と聞かれたら、それも違う気がする。うまく言葉にならないまま、この日を迎えた。ただ静かに、この日が来ることをずっと知っていた。知っていて、待っていた。待つというのは能動的な行為のように聞こえるが、僕がしていたのはもっと受動的なことだった。ただそこにいた。時間が流れるのに逆らわず、やがてこの日が来ることを、どこかで受け入れていた。

波が来るのを知っていて、砂浜に立ち続けるような感覚だった。

夜、スマートフォンが、震えた。 一度だけ。短く。

手を伸ばした。画面には、見慣れないアイコンからの通知が表示されていた。送信元は「内閣府国民選択権管理局」。飾り気のない名前。ロゴもなく、ただ文字だけがそこにあった。

通知を開いた。

━━━━━━━━━━━━━━━━

【選択権付与通知】

御手洗 礼 様

本日、あなたは十八歳の誕生日を迎えられました。日本国選択権制度施行法第三条第一項に基づき、本日付をもってあなたに選択権が付与されました。

付与数:三回 

有効期限:終身 

行使方法:本アプリケーションより申請

なお、選択権の行使は対象者一名につき一回とし、承認後の取り消しはできません。詳細は添付の説明資料をご確認ください。

内閣府国民選択権管理局

━━━━━━━━━━━━━━━━

読み終えた。もう一度、読んだ。三回目は読まなかった。読まなくても、全部頭に入っていた。入っていた、というより、もともとそこにあったものを確認しただけだった。

付与数:三回。

僕には今、三つの命がある。そう考えると、少しだけ現実感がなかった。自分の手の中に、スマートフォンの中に。アプリケーションの中に。名前を入力して、送信ボタンを押すだけで。

リビングから、音がした。母親が起きたのだと思った。冷蔵庫を開ける音。水を流す音。

カーテンを少し開けた。外は暗い。アスファルトが濡れていた。何かが降ったのかもしれない。空は雲に覆われていた。

何も変わっていなかった。世界は昨日と同じだった。

スマートフォンをパジャマのポケットに入れた。いつもと同じ重さのはずだった。そうでないような気がした。

________________________________________

そのとき、ふと思い出した。

あの夏のことを。

小学三年生の夏休みは、今から思えば、人生でいちばん何も考えていなかった時期だったと思う。毎日、近所の友達と外を走り回って、夕方になったら家に帰って、夕飯を食べて、テレビを見て、眠った。それだけだった。それだけで、十分だった。

二学期が始まる日の朝、僕は普通に登校した。

転入生が来る、という話は聞いていた。川口颯太、という名前の男子だった。担任が黒板に名前を書いた。川口は教壇に立って、短く自己紹介をした。どこから来たか。好きなスポーツは何か。よろしくお願いします。それだけだった。

着席する直前、川口は何気なく出席簿に目をやった。

「御手洗って、誰?」

クラスがざわついた。笑いだった。

「みたらい、って読むの?」川口が続けた。「便器じゃん」

笑いが大きくなった。僕は何も言えなかった。否定する言葉が、出てこなかった。担任は少し困った顔をしたが、何も言わなかった。

それだけだった。たったそれだけのことだった。

でも翌日から、何かが変わった。

廊下で川口とすれ違うとき、川口が小さく「くさ」と言った。隣にいた別の男子が笑った。給食の時間、僕が配膳のトレーを持つと、隣の席の女子がそっと自分のトレーを遠ざけた。体育の授業でペアを組む場面、誰も僕の隣に来なかった。

最初は川口だけだった。でもいつの間にか、クラス全体がそうなっていた。誰かが積極的にいじめていたわけではない。ただ、川口が作った空気に、みんなが従っていた。逆らう理由がなかったから。逆らうコストを払う必要がなかったから。

僕が触ったものに、誰も触らなくなった。

あるとき、掃除の時間に雑巾を手に取ろうとしたら、川口が「御手洗が触った雑巾で拭いたら余計汚くなる」と言った。笑いが起きた。先生はいなかった。僕は雑巾を置いた。何も言わずに。

何も言えなかった。

否定すれば、もっとひどくなる。それはわかっていた。だから僕は普通を演じた。気にしていない振りをした。笑える場面では笑った。授業中は手を挙げた。給食は完食した。普通の生徒を演じ続けることが、唯一の防衛だった。

でも家に帰ると、何もできなかった。宿題を広げても、文字が頭に入ってこなかった。夕飯の味がわからなかった。風呂の中で、理由もなく泣いた。泣いている理由を、うまく言葉にできなかった。

それが、何年か続いた。まるで永遠に続くように思えた。

中学に上がっても、川口は同じ学校だった。クラスが変わっても、空気は変わらなかった。「御手洗」という名前は、もう笑いのネタですらなかった。ただ、触れてはいけないものの名前になっていた。

中学一年の秋、社会の授業で選択権制度を習った。

先生が黒板に「選択権制度」と書いた。十八歳になると、国から三つの権利が与えられる。一人を指定できる。七日間の猶予。その説明を聞きながら、僕は窓の外を見ていた。グラウンドに、風が吹いていた。枯れ葉が舞い上がって、消えた。

そのとき、何かが静かに定まった。

怒りでも、興奮でもなかった。ただ、遠くにあった出口に、初めて光が差したような感覚だった。

十八歳になれば。

その言葉が、頭の中に根を張った。それ以来、何か辛いことがあるたびに、その言葉を心の中で繰り返した。十八歳になれば。十八歳になれば。お守りのように。呪文のように。

川口への指定は、その日から決まっていたのだと思う。

________________________________________

0時を過ぎ、通知が来た直後、スマートフォンを手に取った。アプリケーションを開いた。名前の入力欄に、川口颯太、と打った。

指が、止まった。

一秒か、二秒か。たぶん、それだけの時間だった。

送信した。

時計の針だけが動いていた。

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