第二話 第三章 七日間
承認の翌朝、僕は普通に起きた。
普通に顔を洗って、普通に朝食を食べて、普通に鞄を持って家を出た。バスに乗って、学校に着いて、席に座った。窓の外に、冬の街が広がっていた。何も変わっていなかった。
変わっていないことが、少し不思議だった。
世界が変わるとは思っていなかった。そんな子どもじみた期待は持っていなかった。でも自分の内側が、もう少し違うものになっているかと思っていた。高揚感でも、緊張感でも、何でもいい。何かが。
何もなかった。
授業中、先生の声が遠くから聞こえた。ノートを取った。隣の席の同級生が消しゴムを落として、拾った。昼休み、購買でパンを買った。誰かと話して、笑った。何の話をしたか、午後には忘れた。
放課後、一人で帰った。
バスの窓に、自分の顔が映った。いつもと同じ顔だった。少し疲れていて、特に何も感じていない顔。あの承認画面を見た夜と、何も変わっていない顔。
おかしいな、とまた思った。そしてその次の瞬間、もう一つのことに気づいた。おかしいと思っている自分も、何も感じていない。感情について考えているのに、その考え自体に体温がなかった。
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今頃、川口はどうしているのだろう。
泣いているだろうか。一瞬、その映像が浮かんだ。川口が部屋の隅で膝を抱えて、泣いている。——僕はその想像を、すぐに打ち消した。打ち消したことに気づいて、少しだけ自分が怖くなった。怖い、と感じたことを確認して、また元の静けさに戻った。
通知は届いているはずだ。指定者が誰かも、わかっているはずだ。でも川口颯太という人間の輪郭が、僕の中でひどく薄かった。名前は知っている。顔も知っている。でもそれだけだった。中学を卒業してから三年が経っていた。
三年。
その三年間、川口は僕のことを考えたことがあっただろうか。
たぶん、なかったと思う。
それが答えだと思った。だから名前を入力した。それだけのことだった。
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二日目も、三日目も、同じだった。
朝起きて、学校へ行って、帰ってくる。ご飯を食べて、風呂に入って、眠る。世界はひどく静かだった。
学校では、誰も何も知らなかった。当たり前だった。僕が誰かを指定したことは、指定された本人にしか通知されない。ただ、ふと気づいたことがあった。クラスに一人、先週から休んでいる男子がいた。理由は聞かなかった。誰も聞かなかった。この世界では、それが暗黙のルールだった。明日は我が身、という言葉を、誰もが心のどこかで知っていた。だから触れない。触れないことで、自分を守る。
恐怖から来る平静が、礼儀になっていた。
執行予定日をときどき確認した。数字は確かに減っていた。残り102時間。65時間。39時間。数字だけが、時間の経過を証明していた。
その数字を見るたびに、胸の奥で何かが緩んだ。長い時間をかけて張り続けてきた何かが、少しずつほどけていくような感覚。それが何なのかは、うまく言葉にできなかった。ただ、悪い感覚ではなかった。
普通を演じることが、少し楽になっていた。いつもと同じように演じているのに、どこか軽かった。小学三年生の二学期から、ずっとそうしてきた。でも今は、終わりが見えていた。
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六日目の夜、残り27時間。僕は部屋で教科書を開いていた。
読んでいるようで、読んでいなかった。シャーペンの先がノートの上で止まっていた。暖房の低い音がしていた。時計の秒針が、一つずつ刻んでいた。
インターフォンが鳴った。
時刻は、二十一時を過ぎていた。
母親が出る気配がした。玄関のドアが開く音。低い声が聞こえた。男の声だった。何を言っているかは聞き取れなかった。しばらくして、廊下を歩く足音が近づいてきた。
部屋のドアがノックされた。
「礼、ちょっといい?」
母親の声だった。いつもと同じトーンだった。
「礼、会いたいっていう人が来てるんだけど。川口君だって。」
母親の声は明るかった。何も知らない人間の声だった。
僕は教科書を閉じた。
コートを着て、玄関を出た。外は暗かった。街灯の光の中に、一人の男が立っていた。中学の頃より背が伸びていた。顔つきが変わっていた。でもわかった。三年ぶりに見ても、すぐにわかった。
あいつ、僕の家の場所、知ってたかな。誰かに聞いたのかもしれない。調べたのかもしれない。その疑問が、一瞬だけ頭をよぎった。三年間、一度も関わりがなかった相手の家を、六日間のうちに探し出してきた。それだけ追い詰められているということだった。それだけ必死だということだった。
その事実が、妙に遠かった。
川口は僕を見た。
その顔に、あの頃の余裕はなかった。
僕は、ドアを閉めた。




