第六話 第二章 運用
梅雨が明けた頃、P.A.S.S.という名前は、#PASSとして急速に広まっていた。
フォロワーの数は三桁から四桁に、そして気付いたら五桁を超えていた。嘆願書による執行阻止は、その頃までに数十件にのぼっていた。指定を受けた人間がPASSに連絡し、嘆願書を提出し、執行が止まる。その報告がSNSに上がるたびに、フォロワーが増えた。コメント欄には毎日のように「#PASSありがとう」「#PASS知らなかった」という言葉が並んだ。
その頃、PASSのメンバーがオンラインで集まる機会が増えていた。
ある夜、ミンミンが言った。
「もっと積極的に発信しましょう。メディアに取り上げてもらえれば、一気に広がります。記者に直接コンタクトを取ることも考えています」
画面の向こうで、拓海が少し間を置いた。
「それは、やめたほうがいいと思います」
「なぜですか」
「目立てば、狙われます」拓海の声は低かった。「制度に逆らう動きをしている人間が表に出れば、有識者会議は必ず動く。星良さんのケースがそうだったように」
「でも」ミンミンの声に、少し力が入った。「このまま地道にやっていても、制度は変わらない。世論を動かすには、もっと大きな声が必要です」
「声を上げた人間が狙われたら、意味がない」
「狙われることを恐れて何もしなかったら、もっと意味がない」
しばらく、誰も口を開かなかった。
暖人が割って入った。「二人とも、一旦落ち着こう」
拓海は画面から視線を外した。ミンミンはメモ帳のページを一枚めくった。
結論は出なかった。その夜のオンライン通話は、いつもより早く終わった。
庁舎の一室に、四人の男が集まったのはその頃だった。
テーブルの上には紙の資料が積まれていた。印刷されたSNSの画面、嘆願書の申請件数の推移、PASSに関連すると思われるアカウントのリスト。
「執行阻止が五十四件」
一人が読み上げた。老眼鏡をかけた、六十代の男だった。
「嘆願書制度の想定外の使われ方です。制度設計上の穴と言えます」
別の男が言った。スーツの襟が少し緩んでいた。
「穴、ね」老眼鏡の男は資料を置いた。「放置すれば、もっと大きくなる」
誰も反論しなかった。
「フォロワーが五万を超えています。このペースでいけば、年内に十万を超える可能性があります」
「メディアが動き始めるのも、時間の問題でしょう」
老眼鏡の男は少し間を置いた。「メディアが動いたら面倒だな。」
「植田メアリージャスミン。広報担当らしい」別の男が一枚の紙を取り上げた。「古賀暖人。発起人。この二人が中心です」
室内が静まった。窓の外で、蝉の声がした。
「嘆願書の申請を止める方法を考えなさい。制度の運用上の話として、粛々と」
誰かがメモを取った。万年筆の音だけが聞こえた。
「広報担当から潰す。発信を止めれば、動きは鈍る」
短いやり取りだった。誰も異論を唱えなかった。
「それから」老眼鏡の男は立ち上がった。「古谷のことも、そろそろ」
それだけ言って、部屋を出た。
残った男たちはしばらく顔を見合わせた。それから、それぞれ資料を手に取った。
同じ夜、午後十時。
ミンミンのスマホが鳴った。指定の取り消しにはもう慣れてきていた。
「あなたは選択権制度によって指定されました」
「えっ……」
指定者欄は、空欄だった。
娘はもう眠っていた。リビングの灯りだけがついていた。
窓の外では、蝉が鳴いていた。 それは単なる虫の音というよりは、空気に刻まれたひび割れに近いものだった。私たちとは無関係の、無慈悲な騒音に思えた。




