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第五話 第五章 始動

暖人が話し終えた後、しばらく誰も口を開かなかった。

折り畳み椅子が円形に並んだ小さな会議室。中央のパイプ机の上に、暖人が用意した資料が数枚置いてある。制度の問題点を列挙したものではなかった。ただ、これまでに制度で何かを失った人間の話が、短い言葉で並んでいた。

最初に口を開いたのは、子連れの女性だった。膝の上で子どもが絵本をめくっている。

「広報、やります。」

暖人が少し驚いた顔をした。「広報……というと?」

「SNSで発信して、この活動を広めましょう。そういうのは得意なので」

「あ、ありがとうございます。えっと……」

「植田メアリージャスミンと申します。ミンミンと呼んでください。この制度で主人を失いました」

その瞬間、入口近くに座っていたスーツの男性が顔を上げた。

「植田……さん……?」

声は小さかったが、会議室に響いた。

ミンミンが男性を見た。男性は立ち上がりかけて、止まった。顔から血の気が引いていた。手は小さく震えていた。

「有村、拓海といいます」

室内が静まった。

ミンミンはしばらく男性の顔を見ていた。それから、ゆっくり息を吸った。

「主人の、指定者の方ですね」

拓海は何も言わなかった。否定もしなかった。

暖人が二人を交互に見た。何か言おうとして、口を閉じた。


ミンミンの握りしめられた手は小刻みに揺れていた。そして一瞬窓の外に視線を向けた。そこには夜の街が広がっていた。


少しして、ミンミンは口を押さえた。こらえていた何かが溢れ出てくるようだった。


「一つだけ聞かせてください」ミンミンの声は小さく、震えた涙声だった。「なぜここに来たんですか」

拓海は少しの間、床を見ていた。

「制度を変えたいと思ったわけじゃないです。ただ」

言葉が途切れた。

「このままじゃ、いけない気がして」


子どもが絵本のページをめくる音だけが聞こえた。


しばらくして、ミンミンが口を開いた。

「あなたのことを許す気はありません。今も、これからも」

拓海は顔を上げた。


「でも……同じ方向を向けるなら」


暖人はその場に立ったまま、何も言えなかった。想定外の展開に、ただ呆然としていた。自分が作った場で、何かが動きはじめた気がした。


礼は端の椅子で床を見ていた。颯太の顔が、またよぎった。


会合が終わったのは、二時間後だった。


その夜、暖人のスマホにメールが届いた。

差出人は古谷将広とあった。

古賀暖人さん。お時間をいただけますか。お伝えしたいことがあります。

暖人はその名前を見て、すぐに思い出した。一度だけ出た近代政策史の授業。教壇に立っていた老教授の顔。

返信は短くした。「いつでも」。


数日後、古谷が指定した場所は大学近くの喫茶店だった。

暖人が先に着いていた。古谷はジャケットを着たまま向かいに座って、封筒をテーブルに置いた。

「有識者会議が、市来くんを指定しました」

暖人はびっくりしたような表情のまま、動けなかった。

「空欄の指定者というのは、そういう意味です。私が市来くんの動きを報告書に書いた。それが原因かもしれません。」

しばらく、コーヒーカップの向こうで街の音がしていた。

「なんで俺に」

「あなたたちの動きは、すでに会議に把握されています。時間はあまりない」

古谷は封筒を暖人の前に押した。「制度が作られた経緯と、有識者会議の構造、それから私が知り得る内容をまとめました。私が三十年かけて関わってきたことの、全部です」

暖人は封筒を見た。手を伸ばして、取った。中身を少し確認した。数字と固有名詞が並んでいた。法律の条文らしきものもあった。別の紙には、まるで暗号のような英文が並んでいた。自分一人では到底読み解けない内容だった。

「先生は」

古谷が振り返った。

「セラのこと、怖くなかったんですか。報告書を書く時」

古谷は少しの間、答えなかった。

「仕事だからねぇ。怖いとか、そういうものはなかった。いや、報告しないほうがよっぽど怖い。」

教授はあたりを見渡した。


「今日のことはくれぐれも内密に。」

伝票を持って、教授は店を後にした。


内密に、と言われても、これは俺一人では無理だ。

その夜、暖人は礼にメッセージを送った。


見てもらいたいものがある。明日、来られるか。


返信はすぐ来た。


礼が来たのは翌日の夕方だった。暖人が封筒を渡した。礼はその場で中身を確認した。数枚の紙を読み進めるうちに、手が止まった。

「これ、どこから」

「信用できる人から」

礼はもう一度、最初のページから読み直した。

「これは、すごいぞ。」

封筒をそっと閉じた。

暖人は窓の外を見た。街はいつもと同じだったが、風が変わった気がした。


同じ頃。

数人の男たちが、とある庁舎の会議室に密かに集まっていた。テーブルの上には紙の資料が並んでいた。一人が眼鏡を外して、印刷されたSNSの画面を手に取って言った。「そろそろ動くか」


壁の時計は、カチカチと正確に時を刻んでいた。

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