第五話 第二章 チラシ
「選択権制度廃止を求める市民の会」
選択権制度という文字に目を奪われ、思わず受け取ってしまったチラシ。内容を確かめるようにそのチラシを顔の近くまで寄せた。
紙のにおいがした。
——拓海は、小さく息を吐いた。
——
俺はそのチラシを、鞄の内ポケットに入れたまま三日間放置した。
大雑把に折りたたんだままのその紙。取り出してチラッと読んだのは一度だけだ。あの夜、部屋に帰ってから。蛍光灯の下でA4の紙を広げて見た瞬間、すぐに折り畳んでしまった。その後、何かのタイミングでまた鞄の中から取り出しては、しまった。次にまた出した時は折り目の端が少し破れかかっていた。
職場はデスクの配置が変わっていた。植田の席だったところには、中途採用の若い女性が座っている。彼女は植田のことを知らない。
俺が植田を指定したことは、社内に知れ渡っているのに、誰も何も言わない。そこにいる彼女も知っているのだろうか?
社内プロジェクトチームの共有フォルダを開いた。議事録には途中の日付まで植田の発言がある。
昼休み、ひとりで近くのコンビニに行って、イートインコーナーで弁当を食べた。窓の外を路線バスが通り過ぎた。小学生が横断歩道を渡った。世界は別に、何も変わっていない。
変わっていないのに、俺だけが何かを抱えたまま立ち止まっているような気がした。
あの日、柚月がしてくれたこと。俺は拍子抜けするほど静かにその事実を受け取った。安堵したのか、落胆したのか、自分でもよくわからなかった。ただ、執行されなかったからといって、柚月を指定した事実は消えない。あの夜、アプリを開いて、柚月の名前を入力した。それは本当のことだ。
制度を二度使った。
どちらも、俺がやったことだ。
ある日、弁当の蓋を開けながら、ふとチラシのことをまた考えた。鞄の中にずっとある違和感。まるで靴の中にある小石のように、気になっていた。
箸を置いて、鞄を開けた。
内ポケットから折り畳んだ紙を出して、テーブルの上に広げた。
何度も出したりしまったりしていたその紙は、ずいぶん疲れたようにクタクタになっていた。
選択権制度廃止を求める市民の会。
活動理念として、短い文章が並んでいた。制度の問題点を列挙したものではなかった。ただ、「この制度のもとで何かを失った人、何かを抱えている人、制度に対して何かをしたい人。立ち上がって力を合わせて、変えていきましょう。」という、それだけのことが書いてあった。
抱えている人。
その一文に目が止まった。
その瞬間、胃の辺りが重くなった。植田を殺した直後には軽くなっていた足取りは、今では鉛の足かせがまとわりついているかのように、何かにつけて重くなった。
柚月を殺そうとは思ってなかったけど、結果的には殺そうとしたのと変わらない。逆指定を受けて初めて、植田のことを真剣に考えるようになった。その時から、この重さはどこにも消えない。
チラシの隅に、連絡先のアドレスが書いてあった。
スマホを出して、アドレスを見つめた。少しして、スマホをしまった。またスマホを出した。
気付いたらしばらくの間、箸が止まっていた。冷めていく弁当の蓋を眺めていた。
また明日も静かな職場で仕事して、またここで弁当を食べるだろう。それでいいのだろうか?
スマホのメモ帳にアドレスを打ち込んだ。メールの本文は短くした。「チラシを受け取った者です。話を聞かせてもらえますか」。それだけ書いて、三十秒ほど画面を見つめていた。
ペットボトルのお茶を飲もうと思って手を伸ばした瞬間、スマホの画面に指が触れた。
「あっ!」
気付いたら、画面には「送信しました」の表示があった。
窓の外を、また路線バスが通り過ぎた。強い日差しは、夏を先取りしたように、道行く人の誰の事情にも構わず降り注いでいた。




