第五話 第一章 有識者会議
「古谷君、定例報告を」
議長に促され、報告書を読んだ。
会議が始まる前から、渇いた喉は張り付くような緊張を助長していた。
廊下の自動販売機で水を買って、その場で半分飲んだ。三十年以上、ここに通い続けている。大学で近代政策史を教える傍ら、有識者会議の末席に座り続けてきた。最初は本当に、この制度が社会を安定させると思っていた時期もあった。少なくとも、そう言い聞かせていた。
今日の議題は三つあった。各担当の定例報告、制度の運用に関する世論調査報告、そして懸案事項の処理状況について。三つ目の報告は五分で終わった。担当の若い官僚が、淡々と読み上げながら、周りを見渡した。私と一瞬目が合った。
「対象者の身柄確保および身元管理への移行、完了しております」
誰も何も言わなかった。議長が次の議題に移った。
私は手元の資料に目を落としたまま、顔を上げなかった。上げれば私の表情を誰かに記録される気がした。
市来星良。自分の授業を受講していた学生。
あの子が「処理済み」になった。
最初に気づいたのは、授業の後だった。
市来君は居残って質問してきた。制度の成立過程について、参考文献を教えてほしいと言った。私はいつものように答えた。「自分で調べなさい」。それだけ言って、教壇のマイクから視線を外した。
その夜、私は報告書を書いた。
調査意欲のある学生が制度の成立過程に関心を持っている、という一文を含む、定例の報告書を、淡々と作成した。長年そうしてきた。会議に出て、報告書を書いて、求められた役割を果たす。それだけだった。
市来君が指定を受けたと知ったのは、二週間後だった。
内部の回覧文書に、名前があった。対象者:市来星良。指定者欄は空欄だった。空欄の意味を、私は知っていた。
その夜は眠れなかった。
水のペットボトルを握ったまま、私は廊下の窓の外を見た。
四角い街並みが夕暮れの中にあった。いつもと同じ景色だった。
市来君の顔を思い出した。質問してきた時の、真っ直ぐな目。ああいう目をした学生は、久しぶりだった。あの目が、もうない。自分が報告書を書いたから。自分の言葉が、あの子を動かしたから。
私は水の残りを飲み干した。空になったペットボトルを、廊下のゴミ箱に捨てた。
エレベーターのボタンを押した。
頭の中で一つの名前を繰り返した。古賀暖人。先月、SNSで見つけた。選択権制度廃止を求める市民の会。フォロワーはまだ少ない。でも、古谷には分かった。この動きが大きくなれば、有識者会議は必ず動く。そうなる前に、あの若者たちには知っておいてほしいことがある。
エレベーターが来た。扉が開いた。
古谷はポケットの中のスマホを取り出した。古賀暖人のアカウントを開いて、連絡先を見つめた。
六十二年生きてきて、取り返しのつかないことをした回数は数えきれない。今更、一つ増えたところで変わらない。
送信した。
扉が閉まった。
建物から出る頃には横殴りの雨になっていた。風はいとも簡単に傘をへし曲げた。私は一瞬立ち尽くしたが、ずぶ濡れになることを覚悟して歩き出した。




